第四十九話

 シュナイダーがフランツの部屋を出たのは、午後八時半を過ぎたころ。夜もこれからが盛りといったあたりだった。

 フランツから借りたジャケットを羽織り、深くパーカーをかぶる。使用感の薄いカミソリを貸してもらって無精髭も剃り落とした。さすがに検問でごまかせるほどではないが、第一印象はずいぶん違うものになっただろう。


 外に出れば、駐車スペースにはフォルクスワーゲンの白い車が止まっていた。確かゴルフとかいう車種だ。全体的に角ばったシルエットをしており、特に長く平たいボンネットは眼鏡をかけた学者の神経質さを思わせる。一方でトランクの輪郭はどっしりと短く収まっており、前後でまるで印象の違う車だった。

 その車体に遠慮なくもたれかかって、フランツは人懐こく歯を見せて笑う。ずいぶんと厚着をしているようで、室内にいたときより胴回りががっしりして見えた。線の細い印象があるからこれくらいの方がちょうどいい。


「友達のっす。人助けだっつったら二つ返事だったよ。このまま目的地まで一直線」


 と、どことも知れない方角を指してから運転席に乗りこむフランツ。周囲は驚くほど閑静で、都心の不夜城めいた空気とは無縁に静かな夜を過ごしていた。ぽつりぽつりと並ぶ街灯と、アパートから小さく漏れてくるカーテン越しの光だけが頼りなく視界を保たせる。

 だがシュナイダーが助手席に乗りこむと、エンジンがかかったと同時、ヘッドライトの強烈な光量が夜闇を蹴散らした。


「もしものとき用にドアの鍵は閉めない方がいっすよ、あーあとシートベルトもしない方が……OK? さあて、それじゃ行きますか」


 友人の車だからかやや不慣れな調子でシフトレバーを操るフランツ。アクセルを踏みだすと、住宅街に排気の音を響かせた。


 カセットからは大音量のビートルズが流れていた。小さな角を覚えていられないほどくねくね曲がり、五分ほどしてやっと大きな道に出る。

 さすがに広い道にもなれば車も多く、ひたすら走っているとやがて見覚えのある夜景になってきた。小さな運河を通り抜けたところでこの道が知っている国道であると気がつく。そのままテンペルホーフ地区らしき場所に入っていった。


 となると、フランツのアパートはマリーエンドルフかリヒテンラーデのあたりにあったのだろう。ベルリン南端近くの穏やかな地区だ。

 ようやく人心地ついた気分で息をつくと、運転するフランツが快活な笑みを見せてきた。


「シュナイダーさん、すごい緊張してんじゃん。そんなんじゃ正体分かんなくても怪しいよ」

「いや、悪い。こうやって堂々と明るい場所に出るのも久々で」

「ダメっすよ、ちゃんとにこにこコミュニケーション取らないとさ。ダチも俺らに同情してくれて協力してくれてるんすから。ひたすら同情買わないと」

「その言い方もどうかと思うが……だが、失礼のないようにするよ」


 そうは言うものの、思えば彼にはずいぶん失礼なことばかりしていた気がする。そもそもの出会いからして行き倒れたところを拾われたのだ。運転席の方に膝を向け、はっきりと感謝を告げる。


「改めて、君には本当に世話になった。お姉さんにも。落ち着いたらなにか礼をさせてくれ」

「いいっすよ、大したことしてないんだから。姉さんなんて会ってもないし」


 万感の思いを込めたのだが、返しは素っ気ないものだった。赤信号の合間に煙草をくわえ、フランツは火をつける。ふう、と気怠げな息を吐いて、こちらを見ないまま小首をかしげた。


「それよか、逃げなくていいんすか? こっちに残るって、相当危なくないとか思うんすけど」

「危ないのは承知の上だ。助けられる子を助けたい。ああ、もちろん君や友人には迷惑をかけないように気をつける」

「でも、その子東ドイツの連中と来てるんでしょ? シュナイダーさん東ドイツの奴らに裏切りバレして追っかけられてんのに、危なくない? よく分かんないけどさ」


 ふー、とまた長い息。窓の開閉ハンドルを回して煙の逃げ道を作ると、滞留していた煙が夜空へ消えていく。それと引き換えに冷たい風が車内に吹きこんだ。

 彼の状況判断は極めて的確だ。確かに正気の沙汰ではないし、一歩間違えればすぐさま国家保安省のエージェントたちに誘拐されるか殺されるかするだろう。だが、それはシュナイダーが身を引く理由にはならなかった。


「それくらいはしないと駄目だろう。あの子が東に利用されてるのに逃げでもしたら、本当に悔いても悔いきれない」


 拳を握る。あの雪の夜、自身の愚かさと無力を痛いくらいに噛み締めた。弁護士に声をかけられるまで燻り続け、なにもできずにいたのだ。そんな惨めな自分にはもう戻りたくなかった。

 恩人に、あの日救えなかった少女たちに、せめてもの誠意を示したい。


「あの姉妹たちみたいなことは、もう繰りかえさない。だから俺はもう逃げないよ」


 そう言い切って顔を上げると、ちょうど青信号になったところだった。だが車体はぴくりとも動かない。数秒ほど待ったところで不審に思い、フランツの方を見やる。


 そこには、これまでシュナイダーが見た誰より孤独な微笑みがあった。


「――そっか。シュナイダーさんはきっと、色々変われたんすね。羨ましい」


 そう呟くとようやくアクセルを踏みだし、大通りを右折する。ここまでくれば都心もほど近いあたりだ。周囲の景色からしてテンペルホーフ空港の近辺だろう。


 だがシュナイダーの意識はそんな認識を上滑りしていく。彼にあんな顔をさせたことが、とんでもない罪のように思えた。

 しばし言葉を探し、しかし無難な問いや励まししか思い浮かばず、己の気の利かなさが憎らしい。何分か悩んだあげく、考えのまとまらないままに口を開く。


「フランツ、君は――わっ!?」


 結局最初に思いついたことをそのまま伝えようとしたところで、車体が飛び跳ねた。


 窓の外を見やれば、そこはどうやら公園の遊歩道のようだった。ヘッドライトが容赦なく前方を照らし、左右に黒々とした木陰を幾重にも浮かび上がらせる。石畳のものらしき凹凸がタイヤを上下に翻弄して、シュナイダーの視界も忙しなく揺れた。

 どう考えても車で走る場所ではない。何を言おうとしていたかも忘れ、若干うわずった声で制止する。


「ちょ、フランツ、これはまず……」

「だいじょーぶ大丈夫。近道なんすよ。この時間だし公園で団欒してる連中なんていないでしょ。酔っ払いとか、浮浪者とか……」


 に、とフランツの横顔に笑みが浮かぶ。そこから続く言葉はまるで歌いあげるかのように軽やかだった。


「あとは後ろ暗い奴でもない限り、さ」


 そう言い終えると同時、数メートル先に人影が浮かびあがった。


 急ブレーキの衝撃、タイヤのゴムが摩擦する焦げくさい匂い、悲鳴にも似た甲高い音。それらがいっせいにシュナイダーの五感を襲い、一瞬だけ知覚のすべてをさらっていった。


 我に返って、すぐ前を見やる。ボンネットの先、数歩で届く距離に女がいた。後ろ姿だ。顔も年の頃も分からない。ほっそりした背中は漆黒の上着に包まれて、夜へ紛れそうに佇んでいる。

 だがその背に広がる金髪はヘッドライトを受け、星のようにきらめいていた。


  ***


「おーい、危ないすよおねーさん。どいてどいてー」


 窓から顔を出したフランツの声と、クラクションの音。静寂に吸われすぐに消えていく。

 だが女の背はぴくりとも動かず、フランツの拳が何度もハンドルの中央を叩いた。


「あーもう。酔ってますー?」


 何度目かのクラクションの後、面倒になったのかフランツが車を降りる。

 シュナイダーも続こうとしたが、やんわりと首を振って押しとどめられた。「待ってて」と唇だけがつぶやく。


「もしもーし? おねーさん、こっち向いてー?」


 とドアを閉めたあたりでフランツが呼びかけると、ようやっと女は振り向いた。

 ヘッドライトの光量を真正面から浴びて、輪郭はやや透けている。だが美貌であることは分かった。その目は肉食獣のようにこちらを見据え、酔いらしきものなどひとつたりとも浮かんでいないことも。


 背筋に冷たいものが走る。この女を、シュナイダーはきっと知っていた。


 フランツ駄目だ。そう口に出すより先に、フランツが女の顔をのぞき込む。


「あっれ。ねえおねーさん、もしかしてどっかで会ったこと……」

「さあ、知らない。いつだか地獄で会うことなら分かるけど」


 女が乾いた声を発して、心の臓まで震えるような音が続いた。


 からん、と澄んだ音が石畳を打つ。フランツの背がよろめきくずおれて、見えない地面へ消えていく。

 そうして見えた女の右手には硝煙を立ちのぼらせたままの拳銃があり――事態を把握できた時には、もう何もかも遅かった。


「フランツ!!」


 頭が真っ白に染まり、まず言葉にできたものはそれだけだ。また助けられなかった。自責と絶望感が目眩のように脳を揺らす。だが呆然としてはいられなかった。

 まだ救えるかもしれない。今度こそ同じことを繰りかえすわけにはいかない。その一心で自我を保ち、無我夢中で運転席のドアへ手を伸ばす。


 しかし、こつん、とほど近くで鳴った音は一瞬でシュナイダーを縛りつけた。声は排気音に遮られてもはっきり届く。


「あー、ハンス・シュナイダー。久しぶり。元気?」


 思わずそちらを見やれば、フロントガラス越しに銃口が突きつけられている。

 女は駆動するボンネットに行儀悪く乗り上げており、今度はヘッドライトが逆光になっていた。だがその容貌を見極めるには十分だ。


 あの少女の母親を名乗った、貿易会社の東ドイツ人。

 いつか立ち向かうべき、しかしここで巡り会ってはいけなかった人物が、シュナイダーに王手をかけようとしていた。


「元気なら結構。そのまま動かないで、大人しく拘束されときなよ。今日の私は気が立ってる。そいつみたいな目に遭わさないまでも、腕の一、二本切断しなきゃいけないくらいの怪我なら、党の意志にも背かない」


 見下ろす視線は数日前のにこやかなものとはほど遠く、死んだ害虫でも見るような冷徹に満ちている。問答無用で植えつけられそうな恐怖へ抗うよう、ぎり、と奥歯が鳴った。


「やっぱりお前、国家保安省の追っ手か……!」

「まあ、そのつもりで来たわけじゃないけど、成り行きで」


 肯定。やはり、あの少女も今の状況と無関係ではないのだ。

 ならばシュナイダーのすべきことはただひとつだった。女を真っ向から見据え、問いかける。


「あの子はどこにいる」

「あの子?」

「とぼけるな。エーレンベルク弁護士の娘さんだ。お前たちと一緒にいたあの女の子がそうだろう。お前たち、あの子に何をした」


 そう詰問すれば、女はつまらなげに目を眇めた。心底忌々しくてならないとでも言うかのように口元が歪み、温度のない声をフロントガラスに落とす。


「知らないよ」

「嘘をつくな!」

「知らないってば。エーレンベルク? 誰それ。あの子の名前はさあ」


 吐き捨てる。銀色のトリガーに指がかかる。

 少女のようにあどけない唇が、一語一語をはっきりと刻んだ。


「フレーゲル。どうしようもない、私の、クソガキだ」


 一切の反論を許さない言葉が引き金を引いた途端、後ろで扉の開く音がした。


 銃声はない。ただなにかがシュナイダーの背中に体当たりし、シフトレバーを越えて運転席のシートまで組み伏せた。

 圧しかかるそれはシュナイダーの腕を取って背に回したかと思うと、金属の冷たさで両の手首を拘束する。頭上から聞こえた声はやや上ずっていた。


「う、動かないでください。命までは取りませんから」


 こちらも聞き覚えのある女の声だ。無理やりに振り返ると、眼鏡の女が申し訳なさげに、しかし決然とした顔でシュナイダーの肩を圧迫している。さほど力は強くないが、この状況で振り払うのは至難の業だ。


「恨んでいただいて結構です。このまま東ベルリンまでご一緒してもらいます」

「っ、この……」


 なんとか起き上がろうと抵抗すると、控えめながら体重が強くかけられた。銃口もこちらを狙っている。退路はない。


 だが、せめて頭かなにかでクラクションでも鳴らし続けることができれば……そう思ったあたりで、運転席の扉が静かに開かれた。

 その向こうにはやはり銃口。銃を向けているのはあの少女だった。


「君、なんで……」

「……」


 少女は答えない。無表情のまま、真剣そのものの眼でシュナイダーに動くなと告げている。

 フランツの安否を確認することもできず、シュナイダーは呆然と自分が救おうとした少女を見上げていた。


「さて、捕獲完了。さっさとDDRに戻って……」


 金髪の女の声が絶望を告げようとして、しかし途上で途切れた。

 ボンネットから体重が飛び降り、車体が軽く揺れる。その直後、フロントガラスに小さな穴が空いた。続いて二つ、三つ、四つ――五つほどの穴が生まれ、加速のついたものが次々と座席の背もたれに吸いこまれていく。やはり空いた五つの穴からは、中のスポンジが垣間見えた。

 これほど近くで銃撃を感じるのは、あの姉が殺された日以来だった。


「イングリット、フレーゲル。助手席側の木立。シュナイダー連れて逃げる」

「えっ、な……?」

「早く」


 言うが早いか頭を低くしたまま引きずられ、車外に投げ出される。

 銃弾が開き放しのドアを穿つ音に肝が冷えたのもつかの間、眼鏡の女に背を押されるがまま、ほど近くにあった木立の中へと飛びこんだ。金髪の女と少女も車内を通り抜けて続く。

 半ば地面に伏せるようにしながら、眼鏡の女が慌ただしく問う。


「どういうことですか? 監視の目、ちゃんと撒いてきたんですよね!?」

「撒いた。けど、あっちが一枚上手だったってことかな」


 木の幹を盾にして座る女の声は相変わらず平坦だ。言葉ほどに焦る様子もなく、退屈そうな表情を一切崩さない。


「ついてきちゃった虫はしょうがない。面倒だ、まとめて駆除する」


 言って淡々と銃を構える。かちゃりと鉄が小さく鳴る。その無機質な音は、今の彼女そのもののようだった。

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