第四十三話
なんとか一日のスケジュールを過ごし、結局シュナイダーへ繋がる手がかりを見つけることはできないままでいる。しかし、イングリットとしてはさほど焦りは覚えなかった。
こちらとしては勝ち筋は見えているのだ。フレーゲルを西に亡命させ、彼女への脅威を断ち切る。ミュラーからの追求についてはイングリットが矢面に立ち、エレナに第十三部隊を守ってもらう。
多少どころではなく人任せの作戦だが、シュナイダーが見つからなかった場合に丸くことを収めるにはこれくらいしかない。現状ではそんな作戦が可能なだけありがたかった。
だからイングリットも昨夜までとは打って変わって、今夜は比較的心穏やかに時間を過ごせている。
「ふう……」
シャワーを浴びて髪を一通り乾かして、一息つく。どこに盗聴器があるか分からない以上気の抜けた言動はできないが、党の役人だって風呂上がりくらいリラックスするだろう。
そうだ、ついでにコーヒーでも飲んでしまおうか。就寝時間まであまり間もないから薄めに入れて。DDRでは代用コーヒーが多いから、質のいいコーヒーが飲める機会は逃したくないのだ。
党に捕まってしまえばコーヒー自体飲めたものではなくなるだろうし……などと考えながらシャワー室を出ると、フレーゲルがこちらを手招いていた。
「? いったいどうしたんですか?」
素と役柄の中間のような反応をしてしまい、気が抜けすぎだと自省しながらフレーゲルのもとへ向かう。パジャマ姿の彼女はなぜかイングリットのベッドに座っており、小さな手でイングリットを招き続けている。昨夜の一件以来なんだか距離感が近くなったように思えて嬉しい。
それでもやはり未練は残る。せっかくだからもっと時間がほしかったし、もっと仲良くなりたかった。こんな事情さえなければ、彼女のことをもっと知れたのに……そんなことを思いながらフレーゲルの眼前に立つと、ぐいと腕を引きこまれた。
「えっ? わっ、何を……!?」
次いで頭から被さる柔らかな重みと、視界に漂う薄ぼけた暗闇。もぞもぞと身じろぎする気配を感じてしばし、ほど近くにフレーゲルの小さな顔がぴょこんとのぞく。周囲の輪郭は二人に沿って山なりに垂れ下がっており、分厚く骨のないテントのようだった。
どうやら布団かなにかに包まれたらしい。「これは、いったいどういう……」と問う間に突然の光に視界が眩み、数度瞬きすると目の前には文字がある。見慣れた筆跡はこう告げていた。
『盗聴器:テーブルのした、わたしのベッドのした、シャワー室』
理解しきれぬうちに小さな指が紙面の別の場所を叩く。懐中電灯に照らされた紙はオレンジ色に染まっていて、黒いインクは影のように見えた。
『ここで小声でしゃべるなら、わからない』
一瞬なんのことか分からなかったが、どうやらこの部屋に仕掛けられた盗聴器の場所を教えてくれたらしい。イングリットのベッドで布団に包まれ小声で話す分には大丈夫であろうことも。
つまりフレーゲルはなにか話がしたいのだろう。こんな風に頼られるのは初めてで、きっと最後だ。つい気合が入ってしまい、囁き声ながらも食い気味に迫る。
「どうしたんですか? 相談があるならなんでも言ってください。話すだけで楽になることもありますから……」
『ちがう。わたしじゃない』
間髪入れずに手帳へペンを走らせ、こちらに見せてくるフレーゲル。そうしてイングリットの言葉を止めると、今度はゆるやかな速度で文字を綴る。
『しゃべるのはイングリット。イングリットに、話してほしい』
「私……?」
こく、と頷く眼は深海じみて静かで、しかし確かな意思が秘められていた。
いつもの無表情のときのそれとも、殺意や憎悪といった負の感情を露わにしたときのそれとも違う。イングリットにも見えるように手帳を膝の上に置き、一文字一文字インクを結んでいく。
『どうして、イングリットはここにいるの?』
逆側からでも、その文字ははっきりと読み解けた。
それを最後にフレーゲルは手帳を閉じる。イングリットの返事を待つという意思表示なのだろう。じっとこちらを見上げる瞳は、はじめてイングリットを視界に入れてくれたようにさえ思える。それが泣きそうなほどに嬉しかった。
そんな顔を隠すよう、彼女をそっと抱きしめる。フレーゲルは強張らない、拒まない。昨日とはまるで逆で、促すように背をとんとんと叩いてさえくれた。
これまでとは確実に違う変化。時間がなくても、彼女はイングリットを知ろうとしてくれる。
未練ばかり覚えていた自分が恥ずかしくなって、まっすぐなフレーゲルが眩しくて、彼女を抱きしめたままベッドに倒れこんだ。足元だけが外気に触れて、ほんの少し寒い。
「そうですね……なにからお話したものか、分からないんですけれど。ちょっとつまらないお話になると思います、ごめんなさい」
ひとつめの言葉は細くやわいうなじに向けて。たどたどしく吐息で囁くと、産毛がちいさく震えるのが肌でわかった。
腕の中の体温をかき抱く。あの日のことを思い返す。ほんの二年ほど前なのに遠いはじまりのようにも思える、あまりに鮮烈な彼女との出会いを。
「私が第十三部隊に来ることになったのは、一昨年……八〇年の春でした」
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