第四十二話
「ほら、グズグズしないでください同志! いい加減にしないと帰国してからのことはお約束できませんよ!」
やたらと人波にもまれているらしいエレナを振りかえって叫ぶ。彼女がこの程度で往生するはずなどないのだから、十中八九わざとだった。エレナをデモの波から引きずり出し、役人の皮をなんとか保ちながらイングリットはぼやく。
「まったく、あの子はどこに行ってしまったんだか。先方もお待たせしてしまっているというのに……」
フレーゲルが消えて十数分ほど。反核デモのなかを一通り探して、やはり彼女はいないという結論に行き着いた。
フレーゲルは聡い子だ。考えもなしにあんなことはしないだろう。だからありうるのは誰かに連れ去られたか――もしくは、自ら亡命を申し出に行ったという選択肢だ。
後者であれば話は簡単だった。イングリットはただ時間を稼げばいい。このタイミングというのは予想外だが、フレーゲルの意志に任せると決めていた以上止めるつもりはなかった。このまま彼女にとってよい流れになることを祈るばかりだ。
しかし前者である可能性も捨てきれない。この場合、フレーゲルが怖い目に遭っていることもありうる。そのためイングリットとしても捨て置けず、フレーゲルが警察に向かうであろうルートは極力避けながら近辺を捜索するしかない。もちろんエレナにはそれらしい理由を告げなければいけないが。
とりあえず、イングリットは今できることをやるだけだ。隣のエレナを睨みつけ、普段ではできない辛辣さで語りかける。
「そもそも母親であるあなたがきちんと監督していればこんなことにはならなかったのです。いったい何をしていたのですか? 私から離れるなと、あれほど申しましたのに……」
「大変申し訳ございません。けど、ねえ、イングリット」
唇を動かさない呼びかけは、シュプレヒコールの波間へ切りこむかのようだった。
「母親」ではなく「エレナ・ヴァイス」としての言葉。そう確信した直後、若葉色の目がすっと細まる。角度の関係か光が薄れ、瞳の妖艶さよりも切れ長の目蓋の鋭さが勝っていく。
ただそれだけのことなのに、ぞっと胸の奥が縮こまった。心臓のあたりに冷水を流しこまれる心地。だがこれはほんの「慣らし」だったのだと、やはり口の動かない次の発言で知ることになる。
「お前、フレーゲルになにか言った?」
最初の呼びかけが冷水だったとしたら、これは氷だった。
口調こそ何気ない風で、いっそのこと興味がないようでもある。しかし幻視するのは凍てつく銃口が額につきつけられるさまで、引き金に指をかけながらイングリットの返事を待っていた。
応じるのは役人としてのイングリットだ。監視が見ている見ていない以上に、今の彼女へ素で応じるのはまずいという直感がある。
「……なにが言いたいのでしょうか」
「いや、別に。なんかフレーゲルがやけに大人しかったから気になっただけだよ。でも、そだなあ……」
そうこぼすと同時にイングリットとの距離を詰め、いかにも申し訳なさそうな顔で縮こまる。
しかし目つきの無感動さはそのままだ。イングリットに退く暇も与えず落ちてきたのは、紛れもない忠告だった。
「余計なことは、しないでいいよ。イングリットの仕事はそれじゃない」
「……なにを仰っているのか、皆目見当がつきかねます」
役を演じて振り切る。今ばかりは監視の存在が有り難くあった。フレーゲルの亡命を相談できない申し訳なさよりも、これでなにも言わなくていいという安堵の方が強い。
そして、ほんのひとつまみの憤りも。
(余計なことするなとか、私の仕事はそれじゃないとか。いったいどの口で言うんだか)
私にあんなことを言ったのは大尉のくせに――そんな不満を原動力に、エレナの一歩前へと踏みだした。
「とにかく、あの子を探しますよ。
追求を拒絶する。この行いそのものが答えを伝えていると理解しながらも、今のイングリットにはそれしかできなかった。
商業区画から離れた一角で、コート以外を泥だらけにしたフレーゲルを発見したのは、それから三〇分ほど後のことだ。
***
西ベルリンの夜は長い。しかし、それは治安が悪いということを必ずしも意味しない。
もちろん飛び抜けて治安がいいというわけにもいかないが、なにせ壁に囲まれた都市だ、犯罪者にとっても高飛びするルートは限られている。加えて警察は西ドイツのものだとはいえ、英米仏三カ国の管理下にある以上、まさかの出来事がないよう眼を光らせる必要も当然あった。
東ドイツからも注目が集まることの多い場所であることもあって、妙な事件が起こることは色々な面で避けたいのだ。西ベルリン警察の勤勉さはシュナイダーも仕事柄よく知っている。
つまるところ、今現在シュナイダーが追い回されているのも、そんな彼らの事情に拠るところが大きいのだろう。
「はっ、くそっ、
ここ二日ほどで馬鹿のひとつ覚えのように唱えつづけた言葉がまた口をついて出る。そんな代わり映えのしない語彙とは裏腹に、シュナイダーは今まさに危機の渦中にあった。
懐中電灯を片手に追いかけてくるのは西ベルリンの警官だ。人気のない場所で仮眠を取っていたところを叩き起こされた。今にして思えば失業中の浮浪者かなにかと間違えられただけで、その場で適当に応じれば納得してくれただろう。
だが「東ドイツの人間に追われている」、「西の人間に追われていてもおかしくない事情がある」という現在のシュナイダーの状況では、寝起きの身でそれを判断することはできなかった。ほぼ反射的に逃げ出してしまい、そのままずっと追いかけっこが続いている。
「何をしたんだ、待て!」という呼び声からして、完全に不審者とみなされているだろう。今釈明したところで逃げた理由を厳しく問い詰められ、悪ければそのまま取り調べだ。そこから身分がばれて西に拘束される事態は避けたい。
要は、振り切るしかない。しかし解放されてから一日半、謎の「少女」に捕らえられてからだと何日か分からない間、ろくに食事など取ってないのだ。昨日の雨のせいか少々熱っぽい気さえする。そんな身体でたいした距離を稼ぐことなどできない。むしろいつ追いつかれるか分からなかった。
「畜生、浮浪者なんぞよりもっと切羽詰まってんだよ、こっちは……!」
毒づく調子だけは一丁前なのがまた悔しい。昼間の失敗がなければこんなことにはなっていない。その思いもまた苛立ちを加速させた。
昼間。思い起こせば体力の浪費でしかない。反核デモの存在を思い出したシュナイダーは、一かバチかの博打に出ていた。
自分の思想に同調してくれそうな人間は、反核運動の知り合いにもいくらか存在している。その人間にコンタクトを取って匿ってもらう。あまり他者を巻きこみたくはなかったのだが、つまりジャーナリストの人脈をフルに活用しようという作戦だった。
だがその計画は早々に頓挫した。デモの人混みからすこし外れたところ、それまで身を潜めていた近辺で、あの弁護士の娘と少年のような声で喋る「少女」が連れ立って走っているのを見かけたのだ。
あの娘がいる。それも彼女になりすましていた「少女」と一緒に。
どういう状況なのか分からず、一瞬立ち尽くしてから後を追う。しかしほどなくして見失い、諦め悪く探そうとしたところで「いたぞ!」と女の声がシュナイダーを刺した。慌ててデモとは反対方向に逃げだしながら、とある推測がシュナイダーの脳裏をかすめる。
――あの怪しい陶磁器売りたちも「少女」の仲間なのではないか。
――ならば彼女らと共にいた弁護士の娘は、何か後ろ暗いことに利用されているのではないか。
そんなわけで支援者探しも弁護士の娘探しも空振りに終わり、今夜もまた路地裏で夜を過ごそうという虚しさに追い打ちをかけるようにこの仕打ちだ。
もういいかげんにしてくれ、と半分泣きそうになりながら通りに出たところで、独り言のような声が耳を打った。
「うん。分かってるよ、姉さん」
間違いなく自分に向けられたものではないのに、不思議と意識を奪う言葉。思わずそちらのほうに視線を向けようとしたところで、横合いからシャツの襟元を引っ張り込まれた。
「――っ!?」
狭い場所。コンクリートに尻餅をつく痛み。恐慌。
まさか東ドイツの追っ手が、いや西の連中も嗅ぎつけて――その絶望感に悲鳴をあげそうになった口を、手と小声の宥めが封殺した。
「しーい。黙ってなって、悪いようにはならないすよ」
たぶん青年だろう、と思うが確信が持てない。涼やかで人懐こい声だ。
口から手を離され、落ち着いて見回してみると、どうやら屋台の裏手かなにかに引っ張りこまれたらしい。背後にあるのはただの植え込みで、屋台らしきものの少し前あたりから照明の光がもれてきている。バーナーの火が冷え切った身に染みた。言われるがままにうずくまっていると、頭上からあの警官の声が届く。
「おい、ここを男の浮浪者が通りかからなかったか? 痩せぎすの、三十代くらいの無精髭の男だ」
「さあ? ていうか、通行人の顔なんていちいち覚えてられないっすよ。こちとら何時間も通りに立ってんですから」
すっとぼける背は絶えず手を動かしており、それと共にじゅうじゅうと肉の匂いが立ちのぼってくる。ここ数日まともな食事を口にしていないシュナイダーにとっては凶器に等しい。空っぽの胃を嫌でも意識すれば、肉汁の味のする唾液が口の中に溢れてきた。
シュナイダーがそんな生理的欲求に抗っていることなど露知らず、警官の怪訝そうな声が降ってくる。
「この時間にカリーヴスルト? 君、夜間営業許可はもらってるのか」
「もっちろん。この時間帯、夜遊びで小腹の空いたお客さんがちらほらいるんですよ。キオスクもスーパーも閉まってますし、バーのつまみは高いし。そんな人たちの救世主です、どーも」
言うと、かんかん、と甲高い音が響く。少し肩がこわばったが、どうやらトングかなにかが噛みあう音らしかった。
「なんなら警官さんもおひとつどうです? 刑事ドラマの定番でしょ、捜査中に一息入れてカリーヴルスト」
「いや、私は職務中なので。それより夜道は危ないぞ、営業するにしてももう少し明るいところをお勧めする」
「お気遣いどもども、んじゃ次の申請の時に。警官さんも気をつけてー」
その見送りの言葉を最後に、たたた、と精力的な足音が遠ざかっていく。それが完全に聞こえなくなったころ、これまでヴルスト焼きに精を出していた背中が振りかえった。
雑に流した赤髪と耳にいくつもつけられたピアスは、いかにも今時の若者といった感じだ。だが見下ろしているのに居丈高な印象はまるでなく、くりくりと開かれた瞳は好奇心旺盛なリスのようでもある。得意げににっと笑うと、トングに挟んだヴルストをこちらに差し出してきた。
「ほら、行ったすよおっさん。なんか知らんけど、面白そうなことやってんね」
その声に、ほっと全身の力が抜けるのを感じた。
次いでやってくるのは底なしの疲労と空腹と食欲を誘う肉の匂い。最後のひとつに後ろ髪引かれつつ、シュナイダーの意識は薄れていった。
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