第三十八話

 ~西ベルリン滞在 五日目~


 気づけば、フレーゲルは柔らかなぬくもりに埋もれていた。


 カーテンの隙からは薄く陽射しが降り注ぎ、もう朝だと告げている。もう涙は止まっていたが泣きすぎたのか瞳が痛い。目のまわりの皮膚がふやけているような気さえした。

 どうやらあの後、泣き疲れて眠ってしまったらしい。全身が気だるさに満ちている。頭も膿を取り出したかのようにすっきりしている一方で、こめかみのあたりが鐘を打つように痛んだ。


 隣のベッドでは明るい茶髪が横たわっている。イングリットはあちらで寝たらしい。

 一昨日の朝のように隣にはいてくれなかったのか……そんなことを思いながら身を起こしていると、手の先に乾いた感触を覚えた。


「……?」


 ちょうど枕元のあたりだ。白いシーツと白い枕のあいだ、白い紙片がまぎれている。四つ折りになったそれを引き出して開いてみると、小さなメモにここ数日で見慣れた文字が並んでいる。

 一文字一文字丁寧に書かれたアルファベットは、イングリットの気質そのもののようだった。


『フレーゲルちゃんへ。おはようございます、よく眠れましたか? こればかりは盗聴器を気にせずお伝えしたいので、お手紙で失礼します』


 文面を見るに、昨日フレーゲルが眠りについた後に書かれたのだろう。改めて見れば、昨日目眩ましに使ったシーツも綺麗に敷かれなおしている。フレーゲルが寝落ちたあと、彼女には色々と手間をかけさせてしまったようだ。

 それを思うと申し訳ない気持ちが湧いてくる。そんなものを素直に感じること自体、なんだか久々のような気がした。手紙に目を戻し、ゆっくりと続きを追う。


昨夜ゆうべもお伝えしましたが、フレーゲルちゃんのご両親はあなたに健やかに生きてほしいと願っていたでしょうし、私もそう望んでいます。けれどこのまま任務が失敗すれば、どのみちそれは難しくなるでしょう』


 その部分を読んで実感する。そうだ、現状はなにも変わらない。

 このままシュナイダーが見つからなければ、フレーゲルを待つのはろくでもない帰結だろう。エレナを殺すにしろ殺さないにしろ、少なくとも喜んで迎えたいものではない。イングリットが言うように父と母のことを思えばなおさらだ。


 一枚目のメモはここで終わっていた。かさり、と乾いた音をたてて二枚目に入れ替える。


『だから私は、フレーゲルちゃんがこのまま西に亡命するのもありだと思っています』


 そうして目へ飛びこんできた一文に、鼓動が大袈裟な音をたてた。


 読み返す。そのたび同じ理解しかできない。続く文章を何度も追って、逸る胸のなかでじっくりと反芻する。


『ご両親の眠る土地を離れるのは不安かもしれませんが、少なくとも党に利用されつづけるよりは、ご両親の願いに沿うことだと思います。

 見てきたとおり、西もDDRで言われているほど悪いところでもないみたいですし……あまり時間もありませんが、少し考えてみてくれませんか?』


 綴られているのはあまりに善意に満ちた言葉たちだ。それでいて押しつけがましさは見当たらない。選択権はフレーゲルにあると、あくまでそうしたスタンスを感じさせた。


 しかし疑問がひとつ――党に背いてイングリットがどうなるか、そこには一切触れていない。


『あなたが幸せになれるよう、悔いのない決断を祈っています。

         イングリット』


 メモはそんな願いで結ばれていた。内容を頭に叩きこみ、小さく丸める。後でトイレにでも流さなければなるまい。

 イングリットの布団は未だにくうくう寝息をたてていた。その起伏を見つめながら、フレーゲルは沈思する。


(わたしは、どうすればいいんだろう)


 それはこれまでの悩みと似ているようで、しかし決定的に違うものだ。


 選択肢が生まれた。このままエレナを殺すため生きるか、復讐を諦めて西側ですべてを忘れるか。どちらにせよ失うものは大きく、すぐに決められる話ではない。

 しかし道を選べるということ自体、フレーゲルにとっては想像もしたことのない話だった。自分にはエレナを殺す人生しかないと、ずっとそう考えてきたのだ。別の生き方など思い描いたこともなかった。


(エレナは、殺さないといけない。ここまできたんだから、もう引きかえせないんだから)


 これまでの三年間の羅針盤であった、エレナに対する復讐心と。


(けどお父さんとお母さん、それにこのひと――イングリットのきもちも、大事にしたい)


 三年の呪縛を打ち砕いてくれた、あたたかい光に報いる思いと。


 思いがけず現れた人生の岐路を前に、フレーゲルは足踏みすることしかできずにいる。


(わたしは、わたしが選んだほうがいいのは)


 わからない。後者が正しいことは明白なのに、迷いなく掴み取ることができなかった。


 エレナ・ヴァイスを殺さなければ。その強迫観念が未だ心に巣食っている。この殺意は両親に対する罪悪感によるものだと、フレーゲルももう理解しているのだ。彼らが復讐など望まないことも。

 エレナを殺すとして、フレーゲルの実力では敵わないことも繰りかえし思い知っている。そういう意味でもイングリットの勧めに従うべきなのだろう。分かっているのだ。


 それでも西側での安寧を選び取ること、エレナへの復讐を諦めることに、息詰まるような躊躇いがある。


(わたしは、どうすればいいんだろう)


 ベッドに座りこんだまま、朝陽のこぼれる方に視線を向ける。

 薄明かりがカーテンの合間でぼやけ、ほの明るい粒子となって部屋の大気に織りこまれていく。それを呼吸するたび肺を洗われるような心地を得て、しかし重石が軽くなることはなかった。


 タイムリミットまであと二日。

 悔いなき決断をするには、あまりに短い。

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