第三十九話
フレーゲルが今日の事情聴取で亡命を申し出なかったことは、イングリットにとって少々予想外だった。
自惚れと言われればそれまでだが、昨夜のやり取りでは互いにやっと胸襟を開いたはずだし、フレーゲルも自分に心を預けてくれたと思っている。だから置き手紙についても納得してくれるものとばかり考えていた。
しかしどうやら早計すぎたらしい。今日も正午近くになってフレーゲルが出てきた部屋からは、ここ数日恒例となった、役人の困り果てた空気が漂っていた。
(まあ、DDRを離れるのは不安だろうって書いたのは私だし……すぐ決められることじゃないよね)
それに事実、フレーゲルが返事を先送りにしてくれていることは、イングリットたちとしても益があった。
西側がフレーゲルを求めつづける限り、彼らもまだシュナイダーをまだ捕まえられていないと判断することができる。彼らにとってフレーゲルはあくまで情報源にすぎない。シュナイダー自身を確保できた時点で、彼女に亡命を打診する必要はなくなるのだ。
国家保安省の人間としては明日の聴取、できれば最終日まで引き延ばしてくれるのが理想だろう。しかしイングリット個人としてはフレーゲルの心が決まったタイミングで構わないと思っている。悔いのない決断を、と書いたのもイングリットなのだ。そのためならばいくらでもサポートする覚悟はあった。
もちろんただですむとは思っていない。シュナイダーの確保が失敗に終わった場合、二重スパイにつながる手がかりをみすみす国外に逃がしたとなれば、第十三部隊への嫌疑は決定的になるだろう。
そういう意味ではミュラーの思惑を助長するかたちになるが、エレナならきっとなんとかしてくれる。
(少なくとも、わたしに全ての責任を負わせることにすれば、大尉は八方丸く収めてくれるはず)
そんな予想は良く言えば自己犠牲、悪く言うなら丸投げだ。勝手に打算の勘定に入れてしまっているエレナへ詫びる気持ちもある。
だが今回の計画についてはフレーゲルの意志を第一に優先したい。またエレナにこの話を伝えて反対された場合、イングリットの力では太刀打ちできない。そんな優先順位をつけた結果、エレナには悪いが不意打ち、もとい事後報告とさせてもらう向きで方針を固めることとなった。
シュナイダー捜索がどのような結果に終わるにしろ、フレーゲルがどのような道を選ぶにしろ、残された時間はあと二日だ。
その間、イングリットとしては全力でできることをするだけだった。
「さて。改めてお伝えしますが、おふたりともくれぐれも私の側を離れないように。また昨日のようなことがあれば、ご家族でこれまで通りの生活ができるかは保証できません」
カフェでの昼食が一段落した頃、釘を刺す口調で言い聞かせる。昨日尾行を撒いた件については「エレナとフレーゲルが党のお目付役であるイングリットから逃げようとした」というかたちで落ち着かせた。尾行している側が納得するかはともかく、DDRのスパイであると確証を持たれない程度の努力はしないといけない。
「本日の予定ですが、シュナイダー氏の行方を探る以外はスケジュール通りに進めるものとします。まずシャルロッテンブルクに向かい、クーアフュルステンダム通りにあるホテルで……」
朝一でエレナから指示されていた文面をそのまま伝える。予定そのものは事前に決めていたとおりだ。そもそも商談が詰めこまれていたのはシュナイダーを訪問した二日目くらいで、それ以降は日に二件ほどしかない。話さえ手早く終わらせればシュナイダー捜索に時間を割くのもそう難しくはなかった。
ただし今日に限っては、この「予定通り」も建前だ。
予定外を演じるという予定が、ここには組み込まれている。
「さすがに混みますね。休日ともなれば仕方がないのかもしれませんが」
人混みに流されるまま、素知らぬ顔で感想を述べる。事実凄まじい人口密度だ。押し合いへし合いの応酬で、まっすぐ進むことも難しい。
「そうですね。車道も人でいっぱいですし、なにかお祭りでもあるんでしょうか」
何食わぬ顔のエレナも続く。ここクーアフュルステンダム通り――通称クーダムは、西ベルリンのメインストリートだ。両脇と車線間のスペースには等間隔で街路樹が植えられて、イングリットでも聞き覚えがあるような西側ブランドの店舗も並んでいる。車線はたっぷり六本あった。
緑豊かな都市の顔、という意味では東ベルリンでいうカール・マルクス・アレーのようなものだろう。盛況ぶりは段違いだし、曲線を重ねてことさら伝統を装う西、直線を駆使して
さてそんな大通りで自然に車の行き交いが絶えるわけもなく、こうして通行人に占拠されているのもむろん相応の理由がある。人の勢いに流されるまま進めば、いつしかプラカードとシュプレヒコールの波打ち際まで辿りついていた。
『核兵器はいらない』
『
『平和のためにいま行動しよう』
『ヨーロッパの総意?
代表的なものを挙げるとこんな風で、いくらDDR国民がこういうものに慣れていないとはいえ、ここまでくると気づかない方が不自然だ。できるだけわざとらしくならないよう、辟易した風に嘆息する。
「……これは、ああ、そういうことですか」
はじめから知っていたけど。そんな言葉を呑みこんで、プラカードの海にまた一歩流された。
要は反核運動のためのデモである。規模は数千人ほどが見込まれており、シュプレヒコールの奥に目をこらせば警官が立ち会っているのも垣間見えた。本日この界隈で予定されているものをエレナが発見し、偶然行きあったという体で偵察することとなったのだ。
理由はひとつ。シュナイダーに繋がるものを少しでも手に入れたい。
反核運動家としても知られていたシュナイダーだ、このような場に縁者がいる可能性は低くなかった。仕事で関係のあった会社は大方洗い終わっているし、次はこうしたアングラ気味なところで縁のあった個人から探った方がいい。そのような意図のもと、この潜入は計画されていた。
とはいえ東側において、デモというものは「逮捕」「武力鎮圧」の危険がまず浮かぶほどデリケートなものだ。「党の役人」たるイングリットの役どころとしては認められるか微妙なラインだが、そこはそれ、適当な理論武装をするしかない。ことさら唇の動きを読まれやすいように意識して二人の方を振りかえる。
「まあ、ちょうどよい機会です。西の核配備がどれほど愚かなものか、これほど人民にも反対されている現状を見れば……ん?」
はたと気づく。人混みにパーソナルスペースを圧縮され、エレナの顔が思いのほか至近にあった。それ以外はプラカードなり頭なりが背丈に応じて波を作りだしている。顔が確認できるのはほど近くにいる二、三人くらいで、あとは髪の頂点や肩のあたりが波からひょっこりのぞいたり波に埋もれたりしていた。
だから確信がもてず、しばらく周囲を見回す。それでも不可解がほどけることはない。エレナの鼻先まで額を近づけ、彼女にしか聞こえない程度に囁きかける。
「え、うそ、あれ……? 同志エレナ、ちょっと」
「どうかしましたか、同志……イングリット、どしたの」
役割らしい言葉でとりあえず応じて、唇を動かさないで問うエレナ。そこまで器用ではないイングリットは破れかぶれでも配役らしい口調を維持するしかない。もう一度あたりを一瞥してから、まさかありえないだろう推論を口にする。
そういう時に限って正解を引いてしまうのだ、という心のどこかの声を聞きながら。
「いえ、あの。あの子の姿が、見当たらないようですが……?」
***
「ねえねえ。なんで西ベルリンにああいうレンチュウが多いか、知ってる?」
ふわふわとした金の猫毛が波をうち、白を基調とした衣服が疾走に合わせて翻る。フレーゲルより少し高いくらいの背丈のはずなのに、こちらを引っ張る力は抗いようもないほど強かった。
その道筋は大通りをどんどん離れ、商業区域をあっという間に抜けてゆく。足を踏ん張るどころか転びそうな勢いで走らされ、同じようなことが昨日と続けて二回目だ。怒りや反感を覚えるより先に戸惑う。
ましてや機嫌よさげに喋くる内容が頭に入ってくるわけもない。男の子が無理やり出したみたいな甲高い声だな、とそれがいやに耳に残るだけだ。
「見たとおり、けっこう若いやつらが多いでしょ。で、西ドイツからここにうつってくるレンチュウに多い理由は『ヘイエキしたくないから』なんだって」
歩行者信号が赤に変わる寸前に横断歩道を駆けぬける。丈の長いコートが重く感じる。これまでずっとこんな調子で、休憩を一度も挟んでいない。
エレナに引きずり回された昨日よりはましだが、今のところ、という但し書きがつく。このままでは昨日以上の疲弊に追いこまれてもおかしくない。少なくとも抵抗するだけの力は、もはや残ってはいなかった。
「ここってレンゴーコクがセンリョウしてるから、西ドイツの徴兵がないの。兵隊になりたくないからここにきて、しかも巻きこまれたくないからカクヘイキはおかないでほしい。そんなのもう売国奴みたいなものだよねえ」
くすくす、と届いてきた囀りには紛れのない嘲りの色。それでようやく気づく。フレーゲルとおなじ速度でおなじ距離を走って、彼女は息ひとつあがっていない。昨日のエレナとおなじように。
反射的に身構える。つまりこの少女はエレナの同類だ。そんな人間が、間違ってもろくなものであるはずがない。
運河の橋を渡ったあたりから、木陰が少女の明度を下げる。昨夜の雨で湿った土は軟らかくふたりの足を受け入れる。木漏れ日が彼女の金の髪に反射し、それに視界を眩まされながら、フレーゲルは闇雲に駆けた。
「つまりね、セキニンカンのないやつらのあつまり。わたしたちとしてはありがたいけど、ああいうのがわんさかいるんだから、西側ってどうしようもないなあって思うでしょ?」
言ってようやく彼女は立ち止まる。必死に酸素を取りこみながら見渡すと、周囲には葉の落ちた木々が立ち並んでいた。
「うんうん、こういうところならジャマも入らないわ。じゃあね、おはなししましょ、フレーゲルちゃん?」
フレーゲルの名を呼ぶ。童女らしい顔立ちに浮かぶのは無邪気そのものの表情で、しかしエレナとはまた違う、隠しきれない悪意に満ちていた。
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