第三十三話

 やはり神経質なほど固く丸められた紙屑。いったんホテルに戻って見せてもらったそれは、シュナイダーの主な行動範囲のリストだった。


 各出版社はもちろんのこと、近ごろの取材先、行きつけのカフェやスーパーまで記してある。ここまでくると元から相当シュナイダーを疑っていたのでは、と思ってしまうが分からない。潔白の身内相手でもこれくらいの調査はしかねないのが国家保安省の恐ろしいところだ。

 だがその疑り深さは、少なくとも今のイングリットたちにとっては救いだった。おかげで当たってみるべき場所が増える。ほんのわずか、ただの可能性にすぎないが、希望が見えてきた。


「昨日出版社の人からお話を聞いた限り、まずこの教会を当たってみた方がよいですね」


 言って地図の一点を指す。地図は観光用ガイドブックに付属していたものだ。観光名所の場所の記載がほとんどだが、西ベルリン中心地の地理を把握するにはなかなか使えた。持っていて変に思われることもない。

 ちなみに出版社の人から云々というのは盗聴器用のブラフだ。情報の出所がスパイな以上、昨日から知っていたことにしないと不自然になる。エレナもその意を汲んでくれたらしく、息をするように調子を合わせてくる。


「シュナイダー氏がよく足を運んでいたと言われてましたね。ミサが終わった後は、ここで若者と議論するのが習慣だったとか」

「ええ、反核運動者としての拠点ですね。教会というのがどうも怪しげですが、この際避けてはいられません。真正面から挑むべきでしょう」


 なによりあの手紙に描かれていた謎のマークは教会にも見える。シュナイダーが足しげく通っている教会となれば、次の手がかりがある、もしくはシュナイダー当人が匿われている可能性も高かった。

 教会という場所には不安もあるが、それは演技の中に飲みこむ。DDRの国民として教会にアウトローな印象が拭えないのもあった。だがそれ以上に、半年前の一件がまだ尾を引いているのだ。

 今度は荒事や大火事になりませんように……そう祈りながら辿りついたのは、赤レンガで舗装された一軒の建物だった。


「ここが、教会ですか……」


 言いながら見上げる。やや閑静な大通りを一歩外れた場所にあるこの建物は、イングリットのイメージする神の家とは少々趣が違っていた。


 赤レンガの外壁こそ歴史を感じさせるが、特に芸術ぶった彫刻が彫られているわけでも、高々とした尖塔がそびえているわけでもない。屋根だって左右の建物と同じ高さで、時計台が申し訳程度に突き出ている程度だ。独立した敷地に建っているわけですらなかった。

 風格はあるがらしくない。教会というより学校や小さな街の市庁舎だ。扉の頭上に掲げてある十字架がなければ気づかないかもしれなかった。


「私、教会に入るなんてはじめてです。DDRでは教会に行く意味もありませんでしたし」


 傍らのエレナが図太すぎる嘘をつく。かつて教会に乗り込んで殺して燃やして灰燼にした人間が言っていいことではない。そうしなければ事態の収拾がつかなかったとはいえ。

 今回もミュラーが策を仕掛けているのなら、その時以上の惨状にならない根拠などどこにもないのだ。思わず背を正し、改めて目標を見据える。


「……まあ、社会主義の理念があれば宗教など必要ありませんから。

 さあ、行きますよ同志エレナ。娘さんをこれ以上帝国主義の魔の手に晒さないためにも」


 後半は本音だ。フレーゲルを守る。そのためにはミュラーの策を食いやぶり、なんとしてもシュナイダーを確保しなければならない――うつむき気味に沈黙する少女のうなじを最後に見つめて、イングリットは扉に向き直った。


 扉を開けると、そこはもう礼拝堂らしき場所だった。とは言っても椅子が何列かにわたって並び、正面に教壇と宗教画、十字架が飾ってあるだけのシンプルな空間だ。小さな講義室のようでもある。清潔感があるが神々しさは薄い。

 椅子には一人二人しかいない。しかも祈りを捧げており、どうにも声をかけづらかった。ここまで簡素とも思わず肩透かしを食らった気分になってしまう。


 どうしよう、これ。そうエレナやフレーゲルと視線を交わしていると、横合いから囁きが投げかけられた。


「何か御用ですかな」


 優しげな男の声。ついで肩を叩かれ振り返れば、そこにはスーツを着込んだ中年の男性がいた。白髪混じりの髪、骨の浮きかけた頬へ穏やかな笑みを浮かべている。

 エレナは演技の皮をかぶってこちらに丸投げ、フレーゲルは言わずもがな。今回の交渉はイングリットがするしかなさそうだ。


「私たちになにか」

「いえ、はじめて来られる方とお見受けするので、迷われていることがあればお聞きしようと。観光地になる教会でもないですしね、うちは」

「うちということは、教会の方?」

「ええ。牧師を務めております」


 言って笑みを深める。牧師ということは、ここはたぶんプロテスタントとやらの教会だろう。カトリックよりは形式主義的ではない印象がある。この教会に重苦しさがないのもそういう理由らしかった。

 こんな小さな教会なら、信者の顔は忘れないはず。その推論を頼りにイングリットはさっそく本題を突きつけた。


「ハンス・シュナイダー氏をご存知ありませんか? 彼の行方を探しているのですが」

「ああ……あなた方もですか」


 問うと、牧師は弱ったように眉を下げた。はあとため息をつくあたりいくらか辟易しているらしい。その原因はイングリットにもなんとなく察せられた。


「私たちも?」

「ええ。何人かいらっしゃいましたね。警察の方も来られました。部屋が荒らされて連絡がつかないとか……ここ数日のことですし、何事もなければよいのですが」


 言いながら手を組んで祈る姿勢を見せる。仕草には善良さが滲んでおり、いかにも聖職者らしかった。

 その奥に隠しごとの気配を探すがイングリットには何も捉えられない。ただ話を深掘りすべく、わかりきったことを問うくらいしかなかった。


「なら、シュナイダー氏の行方はご存知ないと」

「ええ。前回のミサのあと、学生さんたちと裏の部屋を借りて話し合っていたのが最後ですね。ただ……」

「ただ?」


 匂わせるひとことを逃さず食いつく。ほんの少しの新情報でもいい、せめて次の手がかりにつながることがあれば……イングリットが持っていたのはそんな希望だった。

 しかしどうやら、希望にしては低く見積もりすぎていたらしい。


「いえ、昨日のいつごろか、誰も見ていないのですがいらっしゃってたようで。彼の聖書のようなものが礼拝堂に置きっ放しになっていたんです」


 その言葉で、イングリットは想定以上の可能性が出てきたことを理解した。


 昨日。シュナイダーが消えた次の日だ。つまりあの暗号文よりも直近の足取りということになる。

 この状況での忘れもの、意味がない方がおかしいだろう。役人の振る舞いを一瞬だけ置き去って、イングリットは牧師に詰め寄っていた。


「そ、その聖書、見せていただけませんか!?」

「え、ええ、まあ。構いませんが……」


 気圧され気味に頷いて、牧師は脇の扉へ消えていく。背後を振り返ればフレーゲルも無表情ながら色めきたち、一方エレナは期待の表情を作りながらも動揺の色はなかった。真逆の反応を見せるふたりと目配せしていると、また扉が開く。さっそく駆け寄って勢いのままに迫った。

 しかし牧師の態度は煮え切らない。「最初は聖書だと思っていたのですが、これを聖書と呼んでいいものかどうか」と歯切れの悪い困り顔を見せ、ゆっくりと本を差し出した。


 手のひらに収まるほどの大きさだがかなり分厚い。裏にはシュナイダーの名前が書き記されていた。しっかりとした赤い表紙には聖書Bibelの文字がある。キリスト教に疎いイングリットでも分かる、どこからどう見ても聖書だ。

 だがその確信は、本を開いた瞬間にあっけなく打ち砕かれる。


「え……?」


 呆然と声が漏れる。見間違いでは、勘違いでは、聖書にも似た話があるのでは。そんなことを思って何度読み返しても結果は同じ。聖書には似つかわしくない、平易な文章が綴られている。

 どこかで聞いた物語ばかりだ。これだってキリスト教に疎いイングリットにも分かる。


「童話集……?」


 ドイツの誇るメルヒェン、グリム兄弟の編纂した童話たち。聖書の表紙をつけられただけで、中身は全編にわたってグリム童話が語られているらしかった。

 内容を検分していると、いつの間にかエレナとフレーゲルが横から覗きこんでいた。事態を把握したらしいエレナが控えめに問う。


「シュナイダー氏は、いつもこんなものを?」

「いいえ。ミサの時はいつも聖書に目を通しておいででしたし、よくここに来ては熱心にお祈りでした。記事の資料だと申し訳ありませんし、お返ししたいのですが……」


 そう肩を落とす牧師。彼も彼でどういうことなのかまるで理解できていないのだろう。

 彼はおそらくシロだ。昨日ここに来たらしいという情報をくれた以上、シュナイダーがここに匿われている可能性は極めて低い。シュナイダーを庇うなら、わざわざこの教会と彼を結びつけることはしないだろう。

 だが不正解がひとつ潰せただけだ。肝心のシュナイダーがどこにいるかは一向に……そう焦燥混じりにページをめくっていると、ふいに物語が途切れた。


 ――小人たちの看病の甲斐なく、白雪姫は死んでしまいました。


 その文章を最後にページが破れ、続く数ページがノドから破り去られている。

 と思えばまた途中まで破られたページがあって、「あら、どうして私はこんなところにいるのかしら」と生きかえった白雪姫のセリフからはじまっていた。

 その後にある王子の喜びのセリフを読み飛ばし、ぱらぱらとページを繰る。破られたページは他に見当たらず、また破られた後のページもどこにも挟まれていない。聖書を名乗る童話集で、白雪姫の一部分だけが持ち去られたように欠落している。


(いったいなんなの、これ……)


 心底からの困惑と薄気味悪さを抱え、イングリットはただ、破られたページの裂け目を見つめていた。


***


 教会を出る頃には、雨が降っていた。


 空は朝から少し重たくなった鈍色。天気の変わりやすいこの季節だ、十数分や数十分もすれば止むかもしれない。そんなことを思いながら折りたたみ傘を広げて濡れた石畳を踏み歩く。

 先導する真っ赤な傘はエレナのもので、その一段下ではフレーゲルの黄色い傘が揺れている。どんよりと雨にけぶった景色の中で、その色はより一層鮮やかに見えた。


(あれ、結局なんだったのかな……)


 不思議なこともあったものだが、どうも空振りした感じが強い。あの牧師も聖職者だからかシュナイダー個人については言葉少なで、その振る舞いも警戒しているといよりはただ心配している風に見えた。彼が何か知っているとも思いがたい。

 出版社以外で手がかりを得られそうな場所の最有力候補だったため、簡単にはいかないと分かっていても気落ちしてしまう。雨混じりの風が肌を冷たく撫で、どうにもこうにも憂鬱だった。それでいて焦りは和らがないから厄介だ。


 と、先を行く脚がふと立ち止まる。

 顔を上げれば赤い傘と金髪の背中が立ち止まっていた。何も言わない上司の横顔はいやにぼんやりしているように見えて、肌の根底には確信じみたものが横たわっている。

 黄色い傘も一歩遅れて歩みを止めて、エレナのほうを仰ぎ見た。フレーゲルの代わりにイングリットが問う。


「同志エレナ? どうかしましたか」

「ああ。申し訳ありません、同志。少々ぼんやりしておりました」


 そう申し訳なさそうな演技をしてみせて、エレナはまた前を向く。しっかりしてください、と役人らしい注意をしながら彼女の見ていた方向に目を向けると、一本の広告柱リトファスゾイレが立っていた。

 雨に濡れた広告には東には見られない類のものが多い。共有住宅への居住希望を募るものやロックコンサートのお知らせのようなもの、果てはストリップショーの日時を告げるものもある。

 そのなかで、子どもと星座を見る会、という催しのポスターだけが親近感を覚えた。今月末に冬の星座を見るらしい。微妙に下手なパステル調の絵にはかに座や獅子座、オリオン座や射手座らしきものが描かれており――そこでなにかが引っかかる。この気候で当日は晴れるかなとか、そんなお節介心だろうか。


 確かに物珍しくはあるが、こんなことに意識を奪われるなどどうにもエレナらしくない。憂鬱と焦りを押しのけて心配が面積を増してくる。


(ああ見えて、大尉もやっぱり疲れてるのかな。どうにかしないと本当に疲弊するだけになっちゃう……)


 次に当たる場所は選ばないと。そう考えながらとぼとぼ歩いて、数歩目ではたと気付く。そういえばどこに行くか話し合っていなかった。エレナが突き進むからつい追従してしまったが、監視があるなら党のお目付役を演ずるイングリットが前に出ないと不自然だろう。

 エレナに並ぶべく少し足を早める。傘から雫の落ちる感覚。イングリットの傘の端がエレナのそれに触れたあたり、降り注ぐ雨に紛れて上司の囁きが落ちてきた。


「イングリット、よく聞くアハトゥング


 嫌な予感が襲い来る。そしてこの手の予感は外れたためしがない。

 なにを、と問いただそうとしたイングリットを制すよう、エレナは傘を小さくこちらに向ける。


「ちゃんとついてきなよ。見失わないように」


 その言葉を置き去ったと同時、赤い傘と黄色い傘が加速した。


 石畳に広がる水面を乱し、人混みの中へ駆けてゆくエレナ。彼女に手を掴まれ、危うい足取りで引っ張られてゆくフレーゲル。それをただただ見送って、イングリットは思考が追いつかずにいる。

 なに、なぜ、どういうこと。そんな疑問が散乱して、しかし判断は一瞬だ。思考を整理するより先、イングリットの脚は大きく一歩を踏み出す。


「ちょ、待ってください!!」


 人混みの合間を縫い、ひときわ鮮やかな二色を追う。エレナの脚は早い。フレーゲルを連れているとはいえ、うかうかしていればあっという間に置いていかれる。

 ただひたすらに赤と黄色の大小が違う傘を追い、通りを走りぬけては階段を降り、傘が閉じられてからは見慣れた後ろ姿だけを頼りに縋って……何線のどこ行きかも分からない地下鉄に乗りこみ、ようやっとエレナは足を止めた。


 数歩遅れでイングリットも駆けこむ。瞬間、見計らったようなタイミングで扉が閉まった。ガタゴト揺れる車体に左右されつつ、深く荒く呼吸を繰り返す。新鮮な空気に擦られて気管が痛い。連れまわされていたフレーゲルも肩で息をしていた。

 一方の元凶はけろりとしている。怒鳴りつけたい衝動を抑えつけながら、絶え絶えの疑問をなんとか紡いだ。


「ちょ、大っ……な、なんなんですかいったい……」

「しょーがないじゃん。宝探しに盗賊連れてく馬鹿はいないだろ」


 その言い回しが何を意味するのか、酸素の足りない頭ではすぐに理解できなかった。

 宝探し。盗賊。それぞれの表すものがじわじわと形をなしていく。エレナが何をしようとしているのかも。それを問いただそうとして、しかし彼女の指がイングリットの唇を押しとどめる方が先だった。


 エレナの方を見上げれば、真っ暗な車窓と白熱灯のあいだでレンズの雨粒が光る。それに眩んだイングリットの視界に焼きついたのは、いつものように厭らしくも、妙に静かな女の笑みだった。


「宝の地図は出揃った。あとはスコップ担いで掘り返しに行くだけだよ」

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