第十五話

 党がクラウディア・ミュラーに与えた家は、パンコウ地区のかつての官僚邸宅街・マヤコフスキーリングからいくらか外れた場所にある。

 たかだか少佐相当の身分にしては破格の待遇とも言えるし、国家保安省特務機関の要職にしてはあからさまに疎外されているとも言える。だがミュラーはそこにさほど興味がない。妥当だと思うだけだ。

 反逆されないようある程度の飴を渡しつつ、自分たちに干渉されないよう遠ざける――そんなどっちつかずの対応になるのも理解できる。いかんせん機密が多く、血の臭いも濃い機関だ。秘密だらけの国家保安省のなかでもひときわ剣呑といえる。


 なにより実際ミュラーははかりごとを抱える身なのだから、やはり敬遠も妥当なのだった。


(指揮権の剥奪は拒絶してきたか……あの子がああまで反抗するワガママをいうことが分かった、それだけでも上出来かしらね)


 うまくいけば、とは思っていたがそこまで期待はしていない。むしろエレナの出方を窺うことの方が重要だった。そもそもは既に達されている。今回の作戦は成功を収めていた。


 時計の上では朝を寸前に控えても、ベルリンの空はまだ暗い。陽が出てくるのはあと一時間は後だろう。車は運転手に任せて後部座席から降りると、閑静な住宅街が広がっている。

 間近にはクリーム色に塗りこめられた一軒家があった。外壁は石造り風に装飾され、小さいが宮殿のようなバルコニーも据えつけてある。プチブル的だと揶揄されそうな外観だ。解錠して扉を開ける。


 出迎えたのは、仔犬じみた喜びの声だった。


「おかあさま、おかあさま! おかえりなさい!」


 ドアを開けた端から飛び込んでくる小さな影。それを受け止め後ろ手に扉を閉める。誰にも聞かれていないだろうか……そんな心配も馬鹿らしくなってくる。


 ミュラーの腰に抱きついて離れないのは小さな少女だ。淡い桃色のケープを羽織り、裾広がりのワンピースがふわふわ揺れている。廊下の明かりを受けてがちらちら光る様はあどけない妖精を思わせた。

 その無邪気さも、ミュラーにとっては心癒されるというより煩わしいだけだ。胸のあたりに押しつけられている頭を仕方なく撫でる。


「レニ、まだ寝ていなかったの。もう朝も近い。ベッドに行きなさい」

「だってだって、おかあさまにお話したいことがたくさんあるのよ! 眠りたくてもできなかったわ!」


 幼気な言葉に反し、声音は変声期直前の少年のようだ。こちらを見上げてぴょんぴょん跳ねる。スーツを掴んだままやるものだから生地が破れそうだった。彼女の力は少女のそれではない。

 居間の戸口から巨漢の禿頭がのぞく。副官のクラインだ。こちらへの目礼はややバツが悪そうだった。義理とはいえ上司の娘を押さえることはできなかったらしい。ミュラーが声をかけると、レニは露骨に彼をにらんだ。


「ご苦労、クライン。遅くまで悪かったわね、下がっていいわ。娘の世話をありがとう」

「レニ、あいつにお世話されてないもん……」


 不満げに言いながらも、ミュラーに「娘」と呼ばれたのが嬉しかったのかまた抱きつく力を強めるレニ。クラインは相変わらずの無言で二人のそばを通りすぎ、静かに扉を閉じた。

 レニに引きずられて居間に向かい、二人並んでソファに座る。団欒の趣味はないが実質的には報告の時間だ。腕にまとわりつくレニを撫でれば、向こうから勝手に話してくれる。


「おかあさまの言いつけ、レニはきちんと守ってきたわ。写真の顔のアメリカ人がいたもの。時間になるまでバクハツしなかったから、レニがやっつけてきたの。こうね、MPiで、だだだだだだ! って。そしたらちゃんとバクハツしたわ」

「そう。よくやったわ。身体に異常は?」

「全然ヘーキ! 帰りは車のなかで寝てたもの」


 疲労の話ではなくライフルを撃ったことが身体にどう影響したかを聞きたかったのだが、この様子だと大したことはないだろう。黙っていることがあっても同行させたクラインに聞けばいい。


「対象を始末した後は?」

「すぐテッタイしたわ。おかあさま、フカオイはするなって言ってたから。そういうことでしょう?」

「なら、誰にも発見されなかったのね」

「うん! 見つかったら殺してたけど、今日はだいじょうぶよ!」


 となると、エレナの部隊はレニの姿を見ていない。エレナもこちらの仕業だとは感づいているだろうが、まだ使える手は多いはずだ。次に動きを見せるようなら今度こそ畳みかける。

 そう思いを巡らせていると、レニの体温がひときわ密着してきた。


「ねえおかあさま。レニ、おかあさまの役にたてた?」

「ええ。さすが私の娘だわ」


 抱きしめて完璧な答えを返す。優しく微笑むのも、あまりしたくはないがもう慣れた。身を寄せるレニの髪を撫でながら、ミュラーはこの部屋のどこにもないものを見ている。頭に浮かぶものはひとつだけ。


 逃がさない――絶対に。

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