第十四話
コットブス郊外における任務から数時間後、東ベルリンはリヒテンべルク地区に佇む国家保安省本部の一室にて。
イングリット・ケルナーは全身に滲む冷や汗を感じながら、目の前の攻防をただただ見つめていた。
「これはどういうことかしら、エレナ・ヴァイス大尉」
「どうもこうも、先ほどお伝えした通りですよ少佐。何なら今から報告書も作成しましょう」
「結構。あくまでその報告を通すつもりなら」
紫煙を吐いて飴色の机からこちらを威圧してくるミュラーと、服を着崩したままへらへら応じるエレナ。その温度差は目の当たりにするだけで胃に悪い。数時間前に教会から火の手が上がったのを見たときも相当だったが。
任務を終えたその足で報告に向かったのは、部隊長のエレナと副官のイングリットだけだ。深夜と明け方の合間といえるこの時間、本部にもほとんど人の姿はない。ミュラーの副官と思しき大男の姿もなかった。ブラインドを閉め切ったミュラーの執務室は閉塞した空気に満ちている。
ミュラーが不機嫌そうに眉間の皺を深めた。化粧を直す機会がなかったのだろう、真っ白な肌はかすかに粉を吹いており、石膏像じみた無機質さに一抹の人間味を添えている。長いままで灰皿に捨てられた煙草はもう三本目だ。明らかに苛立っていた。
「米工作員は『連帯』との仲間割れにより爆弾で死亡。その後『連帯』と第十三部隊間で交戦状態となり、ポーランド人全員を射殺。爆発の影響により現場は全焼……ずいぶんな話ね」
「面目ありませんよ、ほんと」
とんでもない嘘を通しておきながら、エレナはひょいと肩を竦めるだけだ。頼むから少しはしおらしくしてほしいし、隣から口を塞ぎたいとさえ思う。
しかしこの報告においては一切口を出すなとエレナから厳命されていた。イングリットには二人のやり取りを見守るしかない。
「米工作員は逃すなと言ったわね。殺す相手は選べとも。その上でこの惨状はどういうつもり」
「我々も平和的解決を試みていたんですよ。勧誘しての懐柔策で降伏を呼びかけました。
しかしですね、ここで敵に意見の相違が発生しまして。労働者は純朴で素直ですが、それだけに利益ではなびきません。こういうところがやりづらい」
「労働者とは社会主義が守る者のことを言うのよ。あのポーランド人らはサボタージュの徒、ただのテロリストだわ」
エレナの抗弁を切って捨て、ミュラーは白手袋の手を組む。険の強い視線はほとんど銃弾じみていた。ひとつひとつの言葉が重々しくのしかかってくる。
「これは重大な失態よ。国内でみすみすポーランド人の犯罪を許した上、仲間割れとはいえ米国の人間を殺害された。党、ひいては社会主義全体の威信にも関わる」
党の威信。政府が、ひいては党が絶対的に守らなくてはいけないもの。
それを持ち出してきたということは次に続く措置にも慈悲などない。ほとんど死刑宣告を受ける気持ちで、イングリットはその唇が開くのを見つめていた。
「第十三部隊の責任は大きい。今後、指揮権は本部に委譲し……」
ミュラーが言い切らないうちに、鈴を転がすような笑い声が聞こえた。
一瞬イングリットにも理解ができず、真っ白になった思考で隣を仰ぐ。エレナが肩を揺らして笑っていた。嚙み殺そうとして結局できなかったかのようでいて、いっそ気持ちがいいくらいに晴れ晴れとしている。ミュラーの濃い眉が吊り上がったのが分かった。
「なにが可笑しい」
「いえ失敬。失態だの責任だのと、ずいぶん大ごとのように考えられているようなので」
「どうやら本当に事態を理解できていないようね。これは立派な外交問題よ。殺したのはポーランド人でも、事件の発生を許したのはDDR。それも死んだのは米国人。西の資本主義者に社会主義を攻撃させるつもり?」
「まあもっと前向きに考えましょう。この件、使えますよ」
いっそう不敵なにやにや笑いと人を食った眼つき。これがロクでもない事態の前触れだと、エレナの副官になって二年目のイングリットでも知っている。滑らかに続く饒舌が答えだ。
「第一として、あのアメリカ人は工作員――スパイです。証拠はないですが遺体もありません。米国も大っぴらには騒げない。
第二に、『連帯』のポーランド人。米工作員は我々への協力を了承しかけた瞬間爆死させられた。いくら意見が食い違ったからといってここまでします? 相手は大事な賓客ですよ」
「つまり?」
「それより上の賓客がいたんじゃないのかなあと。あの工作員が我々に協力しちゃ困る誰か――米帝のより忠実なる飼い犬だとか。『連帯』が彼らと繋がっていたとしたらどうです?」
喉から困惑の声がこぼれかけたのを、イングリットは寸でのところで堪えた。
何を言い出すんだこの人は。ただでさえ撃ってきた第三者の存在を黙っているのに、それを前提に背後関係を進言するつもりでいるのか。嘘にデタラメを重ねてどうする。
案の定、ミュラーは怪訝そうに目を眇めた。黒いスーツの腕を組むと、柔らかそうなオフィスチェアにもたれかかる。
「妄想ね。確たる証拠がどこにもないわ」
「そんなものひとつもありませんよ、現場全焼しましたもん。残ってるのは黒こげ射殺体五体と爆散した約三人分の遺体と焼けた教会だけ。だからこそ、どうにでもやりようはある」
「こうやってお前が作り話をするように?」
「ご想像にお任せします。何にせよ証拠はないもので」
半ば以上確信しているような問いもさらりと流し、エレナは勝手に話を進める。イングリットには絶対に無理だ。
「たとえば――そうですね、この件をポーランド政府にリークして『連帯』への危機感を倍増させるとかどうです? ああ、ポーランドは西側から食糧援助とか受けてますし、ソ連にリークしてポーランドへの軍事介入を煽る方が効きますかね。そういう風に色々思いつきますよ、有効利用の方法は」
にっと笑みを吊り上げるエレナ。デタラメにデタラメを上塗りしてできた策略図に、イングリットは感心するより恐怖するより呆れてしまう。この上司、舌が最初に生まれてきたに違いない。
(そのための皆殺しで、そのための教会全焼ってことか……)
証拠の少なさを盾に取って事件時の状況をブラックボックスに変え、極限まで都合のいい方向に持っていけるジョーカーにした。
横槍の存在を隠す意味は相変わらず分からないが、想定外の事態になった時点でこの絵図を思い浮かべていたのだろう。この上司はそのまた上司に対しても食わせ者なのだと、イングリットは初めてミュラーに同情した。
「そもそも今回の主目的は、米工作員と『連帯』による国内での反革命運動波及の阻止です。これは関係者の死によって達成済みでしょう? おまけにポーランドに西側への危機感を呼び起こして、間接的に社会主義陣営の団結も図ることができる。我々から指揮権を奪うよりよっぽど党のためになりますよ」
さらにダメ押しをひとつ。最低限の作戦目標は達成した上、国際関係にプラスにもなりうる材料を持ち帰ってきた。それらを切って捨てて第十三部隊から指揮権を奪うか、全てを受け入れ部隊の存続を認めるか。
党の利益を思えば、ミュラーに選択の余地はない。
「……もういいわ、下がりなさい。現場検証と神父への尋問ののち、後日改めて沙汰を伝える。くれぐれも自分の立場を心得なさい、
事実上の敗北宣言。それに悠々と「ええ、
そのまま軽やかに踵を返し、すたすた出口へ歩み去っていく。完全に呆気に取られていたイングリットもはっと我に返り、ミュラーに礼をして上司を追った。この流れで置いていかないでほしい。
廊下に出て扉を閉めようと振り返る。ミュラーの鋭い眼光は静かにエレナの背を追っていて、イングリットはことさら強くドアを閉じた。
***
「あー疲れた疲れた。早く帰ろイングリット」
「疲れたのはこっちですよ……寿命が縮まりました」
恨みがましく言って、イングリットは肩を落とす。午前四時半の街路は暗く寒い。国家保安省本部から出てくる二人を見咎める者は警備員以外になかったが、それでも肝が冷える思いがした。
本部の中であんなやり取りを見せられればなおさらだ。マフラーに埋めた唇を尖らせる。
「それで、どうしてですか」
「どうして?」
「どうしてエレナさんは少…ええと、あの人にあんな出まかせを? バレたらただじゃ済まないですよ」
いくら人通りがないとはいえ、少佐、とは言えない。エレナを大尉と呼ばないのと同じように。
飛び飛びに灯る街灯に近づくと、エレナの吐く息が白くきらめく。その口元には珍しいことに、悪ふざけよりも苦笑の色が濃かった。
「まあ、司祭館も延焼したし薬莢も回収したしランゲも言いくるめてるし、多分大丈夫だよ。それに仕掛けてきたのはあっちだからさ。これくらいの意地悪はしていい」
「仕掛けて……?」
意味が分からず首を傾げる。それを横目に一瞥したエレナは街灯と街灯の間、もっとも光の遠い地点で立ち止まる。夜明け前の闇のせいか、その笑みはうっそりと昏く、自嘲めいて見えた。
「イングリットさあ、もしかしてこう思ってる? あの爆弾と狙撃は悪意の第三者が仕掛けたもので、国家保安省へのタチの悪い嫌がらせだとか」
「え? あ、はい。てっきり反体制派の人がどこかから話を聞きつけてきたのかなって。違うんですか?」
「あっはは。のーんーきー」
くすくすこぼす笑い声も、いつもよりどこか空虚だった。しばらく笑い続けたかと思うと急に遊びのない眼つきになり、その存在感から温度が消えていく。周囲の気温が一段下がった気がした。
「そんなわけないじゃん。この国でそんな真似してたら即行で監視対象だし、わざわざ爆弾を撃って起爆させるなんて真似しないよ。ましてやあの教会、うちらが前から集会場所として特定してたんだし。できるとしたら当事者か国家保安省だけ」
「でも、だからってあの人の仕業だとは……ころ、処理する相手は選べって言ってましたし」
「ああ言っときゃ、米国人が死んだ時点でうちらの大失態になるじゃんか。指揮権奪い取る口実にもってこい。だからあれ以上背後取られないよう先手打って手土産用意したんだよ。こっちはなんとか凌ぎきっただけ、あっちは濡れ手で粟ってね」
いつもの口調で、しかし淡々と。白い息へ溶けていく言葉にイングリットは背筋が凍るのを感じた。
つまり先までの会談、力関係はイングリットが思っていたものとまったく逆だったことになる。エレナが攻撃を仕掛けていたのではなく、むしろ防戦一方だった。力技で押し切ったのも余裕のなさの表れだ。
ならば、ミュラーのあの苛立った様子もすべて演技。認識が塗りかえられていく感覚に怖気を覚えながら、最後の砦を守るように抗弁する。
「でも、それならどうして狙撃で爆破なんて……あの人が仕掛けさせるなら、時限爆弾とかでいいじゃないですか」
「まあ爆弾はともかく、狙撃の説明は簡単だよ。そうすりゃ第三者の存在をアピールできるからってのがひとつ。国内製の弾使うなんていかにもあからさまじゃん。それが本部に知れれば、お偉いさんはどう思うかな」
問われ、考える間もなく答える。現時点の材料だとこれくらいしか思いつかない。
「反体制派の人の仕業だと考えるかと」
「そ、さっきイングリットが言ったのと一緒。で、それはどういうことを意味する?」
「……」
それは、イングリットも薄々考えていたことだった。第三者が関わるとしたら答えはひとつしかない。
「特務機関の作戦が漏れている」。上はそう考えるだろう。そして責任問題を追求するとすれば、基本は蜥蜴の尻尾切りだ。
「で、情報が漏れるとしたらどこからだろって考えると、まあ私らが真っ先に疑われるわけだ。
アメ公と繋がり持ってた反革命勢力なら私らも張ってたし、そいつらとツルんでたって筋書きにするつもりだったんだろうね。性急なタイミングでの作戦命令もこのためってわけ。ああでもしないと逃げ切れなかったよ」
つまり、ミュラーは指揮権を奪う――いや、第十三部隊に冤罪を被せるつもりですべてのレールを敷いていたのだ。レールそのものを剥がしてしまう荒業以外、自分たちに逃げ道はなかった。
冷たい空気が気道に刺さる。想像以上の窮地にあったことを今更ながらに理解して、ぞっと心臓が縮こまった。エレナが口を出すなというのも道理だろう。
「でも、なんであの人がそんなこと……そもそもこの隊の指揮権を奪ってどんな得があるんですか? 証拠だってありませんし」
「まあそのへんは色々思いつくんだけど、教えてやーらない」
「なんですかそれ……」
飄々とした口調に戻り、また歩き出すエレナ。イングリットも続く。
街灯から離れ、また近づくにつれて、陰影が強弱を繰り返す。先導するトレンチコートの裾がはためいているのをただ見つめて、いつの間にか自分が俯いていると気づいた。未だに事態を呑みこめていないのだ。
「にしても、分からないのはこれだよ」
エレナの声に顔を上げると、なにか透明な袋を持っているのが目についた。中は一見空のようだが、街灯にかざせば分かる。
「髪ですか? 例の、狙撃してきた部屋にあった」
「うん。女の髪っぽいけど、こんな髪の人間あの人のまわりにいたかと思って」
「エレナさんのじゃないんですか? 下見に行ったとき忍びこんでたとか」
エレナとほとんど身を寄せあうようにして袋をのぞきこむ。根元から抜けたらしく小さな毛根も見えた。ややウェーブがかっているものの、色艶はエレナの金髪とよく似ている。
「行ってないし」とあっさり一笑しながら、エレナも自分の髪を一本取って袋の毛と見比べている。エレナの滑らかな直毛と下手人の柔らかな猫毛。髪質はまるで違うが、それ以外はやはり似ていた。まるで姉妹のようだ。
(大尉の姉妹、か)
こんな人が二人もいたら身がもたない――そう嘆息して、イングリットはエレナとともに帰路につくのだった。
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