第十話

 結果から言えば、イングリットがなんとかタクシーを拾って部屋に戻った時には、フレーゲルはもう寝る支度を終えていた。


 ミュラーの車でどんな風に遇されていたのか戦々恐々としていたイングリットだったが、少女の表情からそれを読み取ることはできなかった。おかえりも言わずイングリットを出迎えてからパジャマ姿で部屋へ消えていくまで、いつもと変わらぬ落ち着いた無表情。

 タバコの残り香が鼻をついたが、少なくとも外傷はないようだった。たぶん何事もなかったのだろうとイングリットも自分を納得させる。


 そして翌日の水曜日、社長室に集った三人は顔を突き合わせて机を囲んでいた。


「さて、そんじゃ作戦会議といこう」


 黒いオフィスチェアに背を預け、エレナは音をたてて紅茶を啜る。その片膝にはなぜかフレーゲルが座らされており、腰を抱かれて人形のように沈黙していた。杏子のジャムが甘い匂いを充満させている。

 真昼の陽射しはカーテンに希釈され、うっすらと部屋を包みこんでいるだけだ。国家保安省にまつわる話をするときはいつもこうだった。民間人に擬態しているとはいえ、どこから誰が見聞きしているか分からない。


「まず、少佐が渡してきた書類。中身検分したけど、段取りとしてはこんな感じ」


 数枚の紙を机に放り投げる。脇に立つイングリットや膝のフレーゲルがそれに目を通す間もなく、エレナの説明が入った。


米国ヤンキーの工作員がポーランド野郎ポラッケと仲良し会してる間に見張りを制圧して出入り口固める。そんで殴りこむ。あとは状況に応じて制圧確保……まあ単純明快だよ」


 つまり段取りといっても形だけで、細かなところはこちらで詰めろということだった。

 本部が指示してくるのはスケジュールや厳守事項くらいだ。自分たちに大きな裁量を認めてくれているようにも思うが、誰も責任を負えずこちらに回しているようにも感じる。イングリットとしては複雑だった。


「ちなみに優先事項はまずアメ公、次に『連帯』。ポーランドの連中は最悪取り逃がしてもいい。新しいネットワーク作る前にシメればいいし、なんならポーランド当局やKGBが捕まえてくれるかもしれない。

 逆に米工作員は絶対に逃すな。西の帝国主義者ファシストに正義の鉄槌を、とまあこういうこと」


 以上、と締めくくり、エレナは紅茶を飲み干す。イングリットもお茶請けのクッキーをひとつかじった。さっくりとした甘みで心をあやしながらも、口は思わず本音をもらしている。


「なんだか、極端ですね。確かに私たちが追ってた本命も『連帯』じゃなくて工作員の方ですけど、今回の話も急でしたし……あ、いえ単純に疑問なだけなんですが」

「まあ敵国への警戒もあるんだろうが、相手がアメリカっていうのが輪をかけてんだろうね」


 にやりとエレナが意地の悪い笑みを見せる。しっとりと艶やかな、あるいは可憐に鮮やかな彼女の魅力は、こういう顔をすると一気に悪い方に転がる。フレーゲルの頬を撫でると、壁にかかった書記長ホーネッカーの肖像画に一瞥を投げた。


「親愛なる書記長殿はヨーロッパの平和をお望みだ。だがアメ公の奴ら、友邦ソ連がアフガンを「救助」したことにケチつけてきただろ。大統領も変わったし、雪解けの時代はおしまいってわけ」


 エレナの言う通り、近ごろの国際情勢はだいぶ危うい。

 一昨年――七九年の末、ソ連によるアフガニスタンへの軍事介入が行われ、アメリカはそれを厳しく非難した。「弱腰外交」と誹られたカーター前大統領ですら強硬姿勢を示したのだから相当だ。今年一月に大統領の座に就いたレーガン氏はより反共的な姿勢を見せており、米ソの二大国は着々と険悪を深めていた。


「米ソ関係は冷え切ってるし、欧州にもその影響は出かねない。ほら、一昨年の暮れにNATOで二重決定ってあったじゃん。アフガンの件でみんな忘れてるけど」

「え? ええと……東側こっちに核を捨てろって言いながら西ヨーロッパに核ミサイルを配備する話、でしたっけ。ずいぶん挑発的だなあと思いましたけど」

「挑発? 怯えてるだけだよ。ソ連のミサイルは西ヨーロッパになら簡単に届く。だから西欧にも切り札をくださいって話。西ヨーロッパとしてはこのまま平和路線でゆっくり東側われわれを弱らせていきたいってのが本音なんだわ。だから米ソの争いが燃え上がると飛び火が怖い」


 フレーゲルの頬から首筋に指を滑らせ、もう片手で脚に触れながらエレナがうそぶく。フレーゲルは一見無反応だが、やはり表情が硬くなっていた。

 この人絶対分かってやってるな。そんな確信を抱きつつ、イングリットは上司の肉体的接触セクハラをやんわり押しとどめる。エレナは不満げにするでもない。背もたれに身を預けて肩を竦める。


「よって、ヨーロッパの平和を乱してるのは米帝だ。アメリカ牽制の材料はあればあるだけいいわけで、ソ連と友誼を深められるならもっといい。上手くいきゃDDR――ひいてはヨーロッパは、戦闘狂アメリカに巻きこまれずに済むってこと。偉大なる平和主義者だよ、党は素晴らしいね」


 と仰々しく党を称えてはいるが、実際のところは遠回しな揶揄だろう。


 東ドイツことDDRはヨーロッパの平和を望んでいる。そのことに間違いはないのだろうが、その「平和」とは要するに現状維持だ。

 米ソが相争って火の粉が飛ぶのはDDRも同じであり、むしろ西ドイツとの交易に頼る部分が大きいだけによりリスクが高い。かといって宥和ゆうわを進める気もないだろう。西側の影響が及ぶことを恐れているのは『連帯』への反応でも分かる通りだ。

 このままカネとモノのやり取りを続けながら、ヒトや思想については鉄のカーテンでシャットアウトしておきたい。それがDDRにとっての平和だった。


「で、参戦メンバーについても言及があった。読み上げてしんぜよう」


 懐からまた書類を引きずりだしてエレナは笑う。皺くちゃのそれを、エレナは雑に広げて読みあげはじめた。


「私はまあ当然。ランゲと、あとは任意で五名前後。イングリットは近辺に待機してサポート役。そんでもって……」


 このあたりはいつも通りだ。エレナは前線で指揮を取る。本部への報告役としてランゲが同行し、普段は民間人に偽装している何人かも参加する。そして戦闘能力が皆無のイングリットは支援に徹するという、この布陣が基本だ。

 しかしエレナの言葉はここで止まらず、もうひとりの名を告げた。


「フレーゲル、ご用命。お前も参戦するようにってさ」


 冗談だろう、とまずその可能性を考えた。

 嘆息で受け流そうとしたところで、エレナの翠の目が笑っていないことに気がついた。

 そこでやっと今の言葉が紛れもない決定事項だと理解して、イングリットは絶句に喉を震わせた。


「ちょっ、ちょっと待ってください。フレーゲルちゃんが参戦って」

「そのまんま。まあそうなるよ」

「ならないですよ普通! フレーゲルちゃんは子どもですよ、子どもをそんな危ないところに……」

「イングリットさ、忘れてる? フレーゲルは選抜されてここにいる、国家保安省の子どもだよ」


 横目で冷たくこちらを捉え、指を唇に当てるエレナ。赤いマニキュアがいやに目につくその仕草に、イングリットははっと我にかえった。

 。滅多なことは言えない。そうイングリットが怯んだ隙にエレナは畳みかけてくる。


「フレーゲルがここにいるのはあくまで実験。子どもを特務に使えないか試してる。なら実戦投入の必要だってあるし、危ないからって理由で許してくれるわけないじゃんか」

「そ、それは」


 反論できない。盗聴器への萎縮もあるが、エレナの言は正論そのものだった。

 フレーゲルは特務に投入されるためここにいる。もし使えない駒だと判断されれば、立場が危うくなるのは彼女だ。自分たちのためにもフレーゲルのためにも、命令に背くという選択肢はなかった。


(だからって、こんな……)


 やりきれない思いでフレーゲルの方を見やる。少女は覚悟を決めているのか途方に暮れているのか、エレナの膝で静かに俯いていた。特に抗う意思はないのだろう。その気力もないのかもしれない。


「って言っても使い方は考えるよ。そのへんは一任されてるし。さすがに最前線で突っ込ませるのもアレだし、こういうのはどうよ」


 と告げられた「使い方」は意外と現実的で、しかしエレナの正気を疑わざるを得ないものだった。


「大尉、あの、それ本気ですか?」

「本気だよ。やれそうじゃん」

「そう、なんですけど。でもそれって……」


 確かにエレナの作戦に無理はない。堅実な内容だし充分に成功確率は高かった。フレーゲルへの危険も比較的少ないだろう。

 問題はそれ以外の部分だ。盗聴器の存在もあって声高には問い詰められないが、エレナは何を思ってこんな……


「できるわな、フレーゲル?」


 エレナが小さなおとがいを持ち上げ、自分の方に向けさせる。少女はじっと動かない。

 感情のない瞳で至近距離のエレナを見つめ、されるがままになっている。ただひとつ、唇をきゅっとかすかに引き結んでいるのだけが、彼女の心を語っている気がした。

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