第十一話

 そしてあっという間に一週間が過ぎ、作戦決行日は訪れた。


 会合場所はベルリンから南東約一三〇キロ、穏やかなる都市コットブスの郊外。ポーランド国境ともほど近く、ソルブ語という珍しい言語が併用されている。ポーランド語も同じ西スラヴ語群だから、ややポーランド訛りがあっても目立たない。米工作員や『連帯』はそうした意図でここを選んだのだろう。

 小ぢんまりとしているが風光明媚で、ベルリンよりもなお静けさのある街だ。こんな用で来たのでなければゆっくり身を休めることができただろうし、こんな用で来たことを市民の人に申し訳なくも思う。だからイングリットは、せめて誰も巻き込まないようにと願うのだ。


 今夜ここは、人知れず戦場となる。


「まあ、こんなしみったれた街で仕事も不満かもしれんけど我慢しろ。自分で縛りつけて遊ぶのも楽しいもんだし」


 拳銃にマガジンを装着し、情緒も何もないことを言うエレナ。Cz75の細身のシルエットはエレナの手にしっくり馴染んでいて、銀色の引き金が鋭く光を反射していた。

 円座の中心のカンテラが車内を照らす。エレナ、イングリット、フレーゲル、それからランゲと応援の四名。残り一名は前で運転を担当していた。ガタゴトと不安定な振動を感じながら、配送車に偽装した窓のないバンの中で各々準備を進める。


「ってもまあ、やることはしっかりやるように。何と言ってもまずは党への忠誠、次におまんま、最後に命。我々は社会主義の殉教者ゆえに」


 言って、脇のホルスターに銃を収めるエレナはいかにも気怠げだ。しかし切れ長の瞳はどこかギラリとした光を放っており、言葉も態度も作りものでしかないと気づかされる。

 牙を研ぎ澄ませた獣の眼。にっと唇を歪め、無機質な灰色の上着――国家保安省の制服に袖を通した。


「場所も場所だ、ちょうどいい。欲深い帝国主義者ファシストども、カビ臭いキリスト教徒どもを矯正してやれ。以上、作戦行動開始」

了解ヤヴォール


 フレーゲルを除いた全員が唱和する。あるいは弛緩した笑みを浮かべ、あるいは緊張のあまり舌を噛みかけ、あるいは腕の注射痕を押さえて口だけを動かしていても、皆がエレナを頂きとするひとつの群れだ。

 ガタつく車体がゆっくりと止まる。ややあってバンの戸が開かれる。扉から見えるのは純度の高い闇だ。外気がひやりと肌を撫で、嫌でも緊張をあおった。月はない。影がひとつ、またひとつと昏い夜へ踏みこんでいく。


 レヴィーネ機関第十三部隊の作戦が、始まった。


***


 その夜、コトッブス郊外にある教会の神父はジリジリとした不安を覚えていた。

 十一月のこの季節、夜の気温は壮年の身にいささか堪える。市街からだいぶ離れているここは周囲の景色からして寒々しい。木々の陰がいくつもいくつも重なって、夜の暗さに奥行きを作っている。

 しかし彼は教会に戻らない……いや、戻れないのだ。万が一にも、いまこの教会に踏み入られることのないように。


(誰かにこのことを密告されれば、一巻の終わりだ)


 はあー、と白い息を吐き出し、手の皺をこすり合わせて暖をとる。それでも胸の焦燥は際限なく膨れあがり、矮躯とカソックを食い破らんとしていた。


 社会主義政権下において教会というものは腫れ物同然だ。政権が宗教を排したいと思っていても、今の国際情勢であからさまに信仰の自由を侵すことは許されない。ゆえに聖職者や信者を社会的に不利にするくらいの嫌がらせしかできないのだが、教会を支える側からすると真綿で首を絞められるようなものだった。

 就職や進学で邪魔になる、そんなどうすることもできない理由で人々は信仰を奪われつつある。政府の措置は教会組織そのものを揺るがすほどではないものの、いち聖職者としては心苦しく歯がゆい。


 だからここを訪れる人々は信者であろうとなかろうと受け入れてきた。そしてこんな状況である以上、教会に来るのは少なからず現体制に不満を抱いている人間ばかりだ。そのことも承知ではあったのだが……


(まさか、このようなことに手を出す時が来るとはな)


 無意識に十字を切り、手を祈りのかたちに組んでいる。神よお導きください、と口髭の下で呟く。それを天へと届けるように寒風が吹きすさんだ。

 いま教会にいるのは司教でも信徒でもない。ポーランドの民主化グループが支援を求めに東ドイツへやってきたのだ。別の教会から紹介された、彼らとの話し合いの場に使わせてくれと頼んできた男も一緒だった。


 懸念がないでもなかったが、だ。この国を良い方向に変えようと努力しているはずだし、ならば自分も出来る限り手を貸すだけだった。だが当局はそれを許さないだろう。ことが露見すれば、教会への締め付けがより強まることも考えられた。

 その想像に改めて身震いし、また神への祈りを唱える。どうか何事もなく終わりますように……そう願って目を開くと、夜の闇にうごめく影が見えた気がした。


「……うん?」


 老眼鏡越しにじっと目を凝らす。光源の乏しい視界の端、見間違いかと思ったが間違いない。なにか小さなものが近づいてくる。

 この時間に人が通りかかることはほとんどない。野良犬や獣といった風でもなかった。まさか当局が嗅ぎつけて――と血の気が引きかけた寸前、衰えた視力がやっとその風貌を捉える。


 少女だ。十歳そこそこに見える。舗装されていない道路をとぼとぼ歩き、俯きがちにこちらへ向かってくる。教会からもれる光に気がついたのか、ふっと顔を上げ、感情の見えない瞳で神父を捉えた。


「……」


 立ち止まった少女と神父、ふたりの視線が交錯する。この状況で部外者と関わることへのわずかな躊躇い。だが少女の縋るような無言、そして聖職者としての使命感が、神父の足を突き動かした。


「どうしたんだ、お嬢さん。もう寝る時間だろうに。お父さんとお母さんのところへ帰りなさい」


 少女の目線に合わせて中腰になる。するとふいと目を逸らされた。大きめのコートに口元を埋め、一言も口をきかない。どこかバツが悪そうにも見える。


(迷子か、家出か……?)


 そう当たりをつけてみると、この時間に出歩く不自然にも見覚えのない出で立ちにも納得がいく。市街の方から出てきたが、何らかの理由でひとりでは戻れないのだろう。

 肩に手を置くと肉付きの薄さがよく分かった。安心させるために柔らかく微笑み、ゆっくりと頷いてみせる。


「なにか家に帰れない理由があるなら、あの建物で暖まっておいで。私はしばらく戻れないがお茶でも飲んで待っていなさい」


 振り返り、教会の隣にある小さな建物を指し示す。司祭館――現在の自分の家だ。閉め忘れたのか二階の一室で窓が開いており、カーテンの裾がはためきながらこぼれていた。

 この状況で軽率な行いだという自覚はあったが、教会の中が見られなければ問題はないだろう。それにまだ子どもだ。警戒するのも馬鹿らしい。


「ああそうだ、中の電話は使って構わないからね。親御さんか、電話のある近所の家でもいい。きっと心配しているだろうから……」


 言って少女の手を取ると、彼女の視線がちらりとこちらを向く。それに誠意が通じた気がして大きく首肯しようとした瞬間、背後からなにかが首を絡め取った。


「っ!?」


 声を出す間もなかった。万力が喉仏を圧迫し、気道を締めつけてくる。呼吸ができない。痛みと酸欠と吐き気が一挙に押し寄せ、首に巻きついた腕らしきものを無我夢中で掻きむしった。

 一体誰が――振り向こうとすると無理やり前を向かされる。黒くぼやけていく視界の中央、あの少女が自分を見上げていた。一歩も動かないまま立ち竦んでいる姿。それを目にして、神父は自分のすべきことを理解した。


「に……げ、なさ……」


 声にならない声で手を伸ばす。少しでも少女を遠ざけなければ。それだけが薄れていく意識を支配している。今自分を締め上げているのが誰なのか、当局の者なら今後どうなるのか、そんなことはもう頭になかった。

 自分は聖職者だ。ならば、いま危機に晒されている幼子を第一に考えなくてどうする。


 逃げろと喘ぎながら繰り返す。それでも少女の足は動かない。細切れになった思考の中、神父は彼女へ腕を伸ばして、伸ばして。


「――――」


 そして、神父の意識は暗転した。


***


「あっは、聞いたフレーゲル。電話だってさ。無茶言うもんだね神父様も」

「……」


 地に崩れ落ちた神父を見下ろして、締め上げた当人――エレナが冷笑する。周囲の暗がりからイングリットやランゲらが音もたてずに出てきた。それもよそにフレーゲルはわずかな息苦しさを感じている。


 自分が首を絞められながらも、逃げなさい、と何度も囮のフレーゲルに訴えていた神父。しかしもう罪悪感を覚えることもできない。『試験』では世話になったエマさえ陥れたのだ、そんな気持ちは忘れてしまったのかもしれない。

 悪魔エレナに近づくために、自らも悪魔に変わりつつある。そんな自覚を噛み締めて神父を見ていると、なにか勘違いしたらしいイングリットがフォローを入れてきた。


「だ、大丈夫ですよ。殺してないです。教会関係はアンタッチャブルなので。気絶させただけですし、ちょっと拘留されておしまいですよ」

「ま、それからのことは知らないけど。今回の件で脅して非公式協力者IMにされるくらいで済むんじゃないかな。教会は潜在的反革命分子の巣だし、こいつも実際アメ公なんかに丸めこまれてるし」


 興味もなさげに言ってのけるエレナ。細いスラックスの脚が、神父の身体を跨いでこちらに近づく。背後のイングリットを顎でしゃくった。


「イングリット、神父様縛って車に運んどくように。そんで反対側の道路は封鎖。部外者が来たら引き返させる。あとは車で拾いに来るまで打ち合わせ通りに」

「りょ、了解です。皆さん、どうかご無事で」

「ういうい。で、フレーゲルはこれ」


 こちらに向くと、イングリットが持ってきたスーツケース――車輪とキャリーハンドルのついたもの――をこちらに突き出してくる。これも打ち合わせ通りだ。

 できるだけ彼女に触れないよう、おずおずと手を伸ばす。そして指が取っ手を握ろうとした矢先、エレナが前屈み気味にこちらを覗きこんだ。


「あ、もっと無茶なことも言ってたね」


 生ぬるい体温に手首を掴まれ、全身が総毛立った。

 そのままぐいと引きこまれて、なすすべなく一歩を踏み出す。彼女の肩に埋もれる鼻先、香る女の匂いに吐き気がした。髪の先が頬を撫で、硬直する耳元を囁きが侵す。


「お父さんとお母さんのところに帰れ、なんてさ。もうどこにもいないのに」


 悪意と玩弄の笑みが見えた気がした。


 かっと激情に火がついたのを、数十分前に注射した薬が蓋をする。ただ唇を噛んで無力な子供のふりで震えるだけだ。それに満足したのか、エレナのしなやかな指は絡みつくように取っ手を握らせ、逆光に明滅する髪を翻した。

 星ひとつない闇夜の、小さな教会からこぼれる光、その中央に浮かび上がる女の背。灰色の上着を身につけた姿は両親を失ったあの日と同じで、フレーゲルの決意はより深く刻みこまれていく。ポケットの中を意識して、スーツケースの冷たい取っ手を強く握った。


(――今夜、きっと、ううん必ず)


 フレーゲルは彼女を殺す。

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