前の前のわたし
夢を見る。平たい土地に背の低い草が茂り、それを馬が食んでいる。栗毛の馬はわたしを見つけ、食事をやめて寄ってくる。風が強い、わたしの、黒い三つ編みがなぶらればたばた顔に当たった。
刺繍のきれいな袖が長くて、日に焼けた指が中ほどまでしか出てこない。影が顔に落ちる。栗毛の彼には名前がない。
ふと、体が持ち上げられて、滑らかな毛並みのうえに乗る。倍になった視界の高さはこの世のすべてが見えるみたいで、身が震える。
指が空を掴む、イヴァロ。呼ばれたので振り向く。青い衣を纏った父が、笑顔を向けていた。
首を回して世界を見る、白の天蓋が点在していて、右からふたつのゲルのなかには母さんがお茶を入れているだろう。
舌に乳茶の味が広がり、懐かしいな、と思う。
「という夢を見たんだ」
コーンスープをすすりながらわたしはそう言う。
太陽が差すダイニングのなか、木のテーブルで向かいになりわたしたちは朝食をとる。
「まえはアラスカン・マラミュートだったねえ」
夫の
「そう。マラミュートの子犬がね、丸くて。たぬきみたいでね」
「鼻が視界にあるって言ってたねえ、自分の」
「そう。すごい。びっくりしたのよ、起きてから」
眼鏡を戻した真夏は、まばたきをして、頬をゆるめる。彼が口に運ぶバターロールの照りの部分が、陽の光に当たってつやつやしている。マラミュートの暖かさと、極寒の地の積雪の重みが、皮膚に薄青くよみがえるのでスープをまたひとくち飲んだ。
マグのなか、コーンスープがとろりとたゆたう。あたたかな黄色が広がる視界に鼻は見当たらない。四匹の子犬に囲まれていたわたしの鼻とはおおちがいだ。
「まえのきみかもね」真夏が言う。
「ああ、前世的な?」つい、笑みがこぼれる。真夏は、幽霊やUFOとか、そういうたぐいのものが好きだから。
「そう。まえのきみ、はたまた前の前のきみ」バターロールがもぐもぐ、されてゆく。
「ずいぶんとワールドワイドだね」
「そうだねえ。きみが毎日コーンスープを飲むのも、前の前の前のきみの影響かも?」
つい、マグを眺める。しげしげと、この少しだけ粉っぽい、小さなクルトンが浮いているほうのコーンスープをじっと、見る。
そうなの?わたしはわたしに、わたしのなかにいまだいるかもしれない、かすかな前の前の前のわたしに聞いてみる。
にゃあ。テーブルの下から、返事が返ってきた。
黒猫のエレが、じっとわたしを見つめる。少したつとすぐ飽きて、彼はソファに乗る。背後にある四角いクッションが額縁のように重なった。
わたしはなにか、愉快になって、弾む声で真夏に返す。
「そんな前にコーンスープ、ないでしょう」
「そうかあ。じゃあクルトンのほうかな?」
「あ、それかも。サラダのクルトンも大好き」
「それだ」真夏が、人さし指をぴんと立て、くるくると回す。
たっぷりのレタスのうえの、大きいクルトンを思い描いた。シーザーサラダドレッシングがたっぷり染みたクルトンを、口の中に想像してみる。それがすっかりばれていて、真夏は軽やかに笑う。
「前の前の前のきみは、フランス人かあ」
「じゃあ、あなたはアメリカ人かドイツ人だねえ」
「そうかも。テーブルロールは偉大だよ」
三つめのバターロールを、掲げるようにいちど持ち上げて、真夏は大層美味しそうにほおばる。薄色の瞳が日に透けて、前の前の前の真夏も、まだそこにいるような気がした。
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