第7話 別れの後に
手にはバールのようなもの…いや、バールだ。男はそれを地面を引きずるようにゆっくりとこちらに進んでくる。顔は真っ白に近く血の気が無いようにも見える。ただ、体格だけは明らかに強そうな姿がわたしたちを怯えさせた。
「修也!車出して!早く!」
寝静まった山の鳥たちを目覚めさせるような声で叫んだ。
「あ、あ」
修也の声も確実に怯えていた。あたしはとっさに隣の女性を揺り動かしていた。
「起きて!早く起きて!」
動かない女性を精一杯の力で起こしていた。
「奈美、バックするぞ!しっかりつかま…」
修也の声をかき消すかのように、鈍くガラスが割れる音が聞こえた。そしてあたしの顔には水しぶきが飛んできた。
「修也、早く!」
顔のしぶきを袖で拭き、わたしはバールを持った男を見た。男はまだ前方でたたずんだままだった。ただ、違和感を感じた。修也虫が揺れている。車が動いていないのに、揺れていた。
「修也…?」
あたしはゆっくりおとなしくなった修也に目をやった。そこには、目をボウガンで射られた修也の息絶えた姿があった。声も出ないあたしは、ただ体の震えと戦っていた。逃げなきゃ…でも動かない…動けない… 修也…助けてよ… おかあさん…おとうさん…迎えにきて… 警察でも自衛隊でもヒーローでもいい…助けてよ
山と言うのは孤独なものに残酷だ。
そういえば、家族で登山したときに、休憩所でかった白いわたあめ、おいしかったなぁ。何となく似てるんだよね。あの人に。目の前のあの人に似てるんだよねぇ。
わたしは瞬きを忘れ、バールを持った男から目がはなせなかった。男はゆっくりと倒れこんでいる初老の父親に近づいていくと、バールを背中に突き立てた。一瞬だけ、ピクリと動いた気がしたが、わたしは悲鳴一つ出なかった。ヘッドライトに照らされた地面が赤く染まるのをじっと見ていた。男は、父親の背中を踏みつけ、バールを体から引き抜いた。そして、ふたたびゆっくりとこちらに向かって進んできた。
おじちゃん。このわたあめ、おいくら?
おじょうちゃんは何歳だい?
5歳だよ。来年から小学校だよ。
ほー、そうか!じゃ本当なら220円だけど110円でいいよ。おまけおまけ~
わー、やったー。110円払っても残りが110円もある~
110円… わたしはとっさに我に戻って握りしめていたスマホの存在を思い出した。
「警察。警察に電話しなきゃ。」ひとり言のようにつぶやきながらスマホを操作しようとした。その時、目をはなしていたわたあめがバールでフロントガラスに一撃をくらわせた。ガラスが粉々に飛び散ったのと同時に
「きゃああああ!」
人生で初めてあげるぐらいの大きな声が悲鳴としてお腹から飛び出した。その時、
「はやく!」
その声と同時に後部座席のドアが開きわたしは外に引っ張り出された。そして、手を引かれたまま走った。動きの鈍いわたあめを横目に、道に寝転がったつぶれたトマトを見ながらあたしは軽トラの横を手を引かれて走っていく。途中、ボウガンの矢がどこからともなく飛んできて、わたしの髪をかすめ軽トラのガラスを割る音も聞こえた。
「しっかりしろ!走れ!」
その声にあたしはただ引かれてついていく。途中で何度も風を切る矢の音が聞こえていた。さっきまで聞こえなかった冬眠前のカエルの声が、うるさく感じた。真っ暗な闇の中、もう走れない… 限界… 無理… 立ち止まろう…
そうわたしの体が思ったとき、ひっぱる手も止まった。
「ここで、しゃがんで…」
小さな声と共にわたしは頭を押され、草むらに隠れるようにしゃがまされた。
「静かに…」
男の声はあたしの横から聞こえる。一人じゃない!あたし今、一人じゃない。修也?
そんなはず…あるわけ…ん??
暗闇に目が慣れてきたのか、月のあかりが出てきたのか、水面がぼんやり見えた。沼のほとりにわたしはいた。背丈の高い草に身をひそめてしゃがんでいた。ぼんやりと見える水面をぼんやりとした半月が照らしている。ちょうど水面の反対側だろうか…あたしには見えた。小さな赤い光。いっしょにしゃがんでる男の背中を軽く叩くと、わたしの指で男の目線を赤い光に導いた。
「ゆっくりでいいからあそこまで行こう。」
男は再びあたしの手を引き、草薮から草薮へゆっくりゆっくり沼のほとりを移動し始めた。時々、何かが沼に飛び込む音が聞こえる。カエルやヘビが苦手なわたしは普通ならもう悲鳴を上げ続けているに違いない。ただ、今は違った。静かに1歩ずつ息を殺して進んでいく。必死で男性の腕にしがみつきゆっくりと。ただ、不思議なことにあたりは足音一つ聞こえない。あたしたちを探すのをあきらめたのだろうか…。
遠くに見える沼の反対側に車のヘッドライトが動き始めた。軽トラらしきライトとあたしたちが乗っていた車だろうか。2台ともゆっくりと。
そしてその明りは消えてゆく。ゆっくりと沼に向かって…沼の中に消えていく…
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