とりから(ノベルバー2021)

伴美砂都

とりから

 からあげ屋「からりと」は、大学二年のおわりまでバイトしていたレンタルビデオ屋の、道を挟んですぐ向かいにあった。

 道、といっても中央分離帯があるようなどーんとした道じゃなくて、車が来てない隙を見計らってさっと渡っちゃえるぐらいの道。少し離れたところに信号があるのだけれど、そんな道だから、だいたいの人はさっと渡ってた。


 地元と大学の中間地点ぐらいの駅で、駅裏から十分だった。どちらかというと車で来る人が多いような立地だ。「からりと」は夜八時までで、ビデオ屋は深夜0時までだった。わたしはラストまでは滅多に入らなかったけれど、夜九時までのシフトはあった。レジに立っていると、ときどき、「からりと」の店長がDVDを借りに来た。ビデオ屋、とみんな呼んでいたけれど、もうビデオは全然置いてなかった。

 なぜ「からりと」の店長だとわかったかというと、少し油の香りがして、ニワトリのイラストがついたTシャツを着たままで、名札もつけっぱなしで、そこに店長と書いてあったからだった。お店にはまだ行ったことがなかった。

 名前は石井明日と書いてあった。あした、と読むんだろうか、とひととき、まじまじと見てしまった。あ、俺なにか延滞してましたかね、と言われて、ハッとしてレジを打った。


 十九歳だった。何度か顔を合わせるうちに、顔見知りになった。石井さんは二十六歳だった。教えてくれたけど、その前に知っていた。レンタルのカードを通すと、レジ画面に年齢まで表示されるのだ。

 若いのに店長なんですねと言うと、茅乃かやのちゃんのほうが若いよ、と言われて、でもわたしは店長じゃないです、と言うと、笑った。


「茅乃ちゃん、おもしろいね」


 おもしろいと言われたのは人生で初めてだった。嫌な気持ちではなかった。九時にバイトが終わってから、ビデオ屋の隣のコンビニの前で、ときどき話した。お店が終わってから締め作業があるのだといった。


「朝からずっと働いてるんですか」

「そんなことないよ、朝はだいたい兄、ふたりで経営してるんだ、一応兄が社長で、僕が店長、一応ね」

「お兄さんは朝専門なんですか」

「兄には子どもがいるからね」


 石井さんは優しい話し方をした。男の人は強そうで偉そうだから嫌だと勝手に思っていたけれど、そんなふうではなかった。コンビニで温かいミルクティを買ってくれた。ふだん割安なパックのばかり買っていたから、「ホット」の箱の中のものを取る仕草はすごく大人に見えた。



 冬の晴れた日に、初めて「からりと」に行った。赤字に白抜きの「からりと」、大きな文字の看板。シンプルであかるい店内だった。石井さんが入ってくるときかすかに香る油の匂いが濃く漂った。大きなフライヤーがじゅわじゅわと泡立っていた。

 お昼と夕方の間でひまな時間だったのか、ほかにお客さんはいなくて、カウンターの中には石井さんがひとりでいた。からあげは本当にからりと揚がっていて美味しかった。山盛りにサービスしてくれた。


「本当にからりとしてますね」


 言うと、ひとりしかいないのに石井さんは声を潜めた。


「本当は、“とりから”の予定だったんだ、店の名前」

「え」

「看板の文字、まちがえて発注しちゃった」

「えー!」

「まあ、からあげっぽい名前だから、いいかなって」


 笑わそうとして冗談を言ったのかもしれなかった。そのときはそんなこと思いもせずに、わたしは爆笑した。「とりから」も、「からりと」も、からあげっぽいといったら、ぽい。


 アドレスを交換して、よくメールするようになった。ラインはどうも苦手で、と石井さんは頭をかいた。マンガみたいな動きだなと思った。メールは新鮮だった。石井さんは家でハムスターを飼っていた。「今日の」というタイトルで、よくハムスターの写真を送ってくれた。


 わたしたちは恋人と思われたこともあった。一緒にいるところをアルバイト先の先輩に見られていて、少しひやかされた。

 恋人同士ではなかった。付き合うとか愛しているとかセックスとかそういう言葉も行為もなにもなかった。そうしたいとも思っていなかった。けれどちがいますよと言って笑いながら、わたしは少し嬉しかったし、毎日ずっと誇らしかった。横柄なおじさんや乱暴そうな金髪を接客するたび、石井さんがそういう人でないことが、まったく的外れなのだけれど、わたしは誇らしかった。

 春、石井さんはわたしの誕生日にパンダの顔のイラストの、PANDAとロゴの入ったトートバッグをくれた。ニワトリじゃないんだなと思った。なんですかこれ、とわたしは笑い、バイトのときはいつもそれを使った。夏、ビデオ屋の数人と石井さんと、石井さんのお兄さんとその奥さんと子どもで花火をした。秋、「からりと」の看板を見上げたとき、なんだか色あせてきたな、と思った。その次の週、看板は「とりから」には変わることなく、「からりと」のまま塗り替えられた。



 風が強くて外をからからとなにか転がるような夜だった。石井さんとは相変わらずメールだった。「からから」という題名だった。


〈心がからっぽで、からから転がるような気持ちになるんだよ〉


 ふーっと気持ちが冷めるのがわかった。恋ではなかったはずの気持ちだ。窓を開けると乾いた冷たい風が入り、すぐ閉めた。


〈ごめん、二十七の男がハタチの女の子に言うことじゃないよね〉


 強い男が嫌いな自分を、自慢するような気持ちがどこかにあった。わたしも男の人に「弱くないこと」を求めていたのかもしれないと思ってしまったら、もっと冷めた。大丈夫です、とすぐ返した。ありがとう、と返事が来た。三日後にメールをした。


〈もうあんまりメールできないかもしれません〉


 それから石井さんを見かけることはなくなった。メールも一度もこなくなった。「からりと」は閉店したわけではなく駐車場にはいつも結構車が入っていた。だから、うまく避けてくれていたのだろう。そういえば石井さんは一度もAVを借りなかった。わたしがいないときにこっそり借りていたりしたのだったら、あるいはわたしは恋と呼んでもいいかたちで、石井さんを好きになっていたかもしれない。でも、石井さんはそれはしていなかったような気がした。醜いものが好きなのだろう。わたしの気持ちはいつでも少し冷めた。

 アルバイトは三月までで辞めた。というか、働いていた店舗が閉店してしまった。DVDも借りる人がだんだん減って採算がとれなくなってきたのだろう。残った系列店は微妙に遠くて、つぎのアルバイトは大学の近くで探した。



 「からりと」の前を一度だけ通った。車の窓から見ただけだ。「からりと」の看板は「からりと」のまま、また色あせていた。石井さんが店にいるかはわからなかった。ガラス張りなのに、大きく貼られたニワトリのシルエットの、あれは何というのか、ガラスに貼るための大きなシールのようなもの。あれも、何度か貼り替えられたのだろうか? 遠目ではきれいに見えた、あれに阻まれた。阻まれたようなふりをして、たしかめなかった。

 寒い日で、窓は閉めていたのに一瞬だけふっと油の匂いがした。「からりと」の店内ではなくて、石井さんがビデオ屋に入ってきたときぐらいの。エアコンから入り込んだのだろう。そういえば石井さんの下の名前、明日の読み方をわたしは知らないままだ。ビデオ屋の跡地はリサイクルショップになっていた。


  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

とりから(ノベルバー2021) 伴美砂都 @misatovan

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る