第9話
翌日。
不意の来客。
目は醒めているものの、意識はまだ眠りの岸辺に半身浴をしているこの感じは眠っているよりも気持ちがいい。
そこから現実に引き戻される。
通常、気分を害するものだが、訪ねてきたのが奈々だと聞くと、それは夢の続きのような気がする。
「タミオさん。いつ奈々ちゃんに手を出したんですか?まったく、隅に置けないな。コノコノ」などと幇間の如く囃し立てられていると嬉しいような、立場がないような、十センチほど宙を歩いているような気分になる。
俺の豪快な寝ぐせを見たからなのか、奈々は「タミオさん。厭じゃわ、そんなん」なんてはにかんでいる。
「奈々ちゃん。おはよ。どしたん?」
「あのう。ウチ、今日、取材で広島に行くんで、いっ、一緒に、そのう」
真っ赤になって俯いてしまった。
しかし、それを嗤ってはいけない。
キョウジュが加奈子とまともに口を利けるようになるまでのプロセスを見ているので、今日ここに来ることだって、眠れない夜をのたうち回って過ごしたことが安易に想像がつく。
「十五分待って。シャワー浴びながら、歯磨いて、髭剃って来るけぇ」
「そんなに急がなくてもいいですよ」
「奈々ちゃん。フランスでは『スープと女は待たしたらいけん』って言われとるんで。ほいじゃぁ、十五分後に」
慌ただしくシャワールームに駆け込む俺を奈々は笑いを嚙み殺しながら見ていた。
尾道から糸崎、三原へと抜ける海岸通りは渋滞もなく、左を向けば、青く、母なる瀬戸内海に太陽の光が銀色に煌めき、鏤められて、海鳥が気持ちよさそうに水面で羽を休めている。
赤いアウディの運転席には奈々。
誰が見ても草臥れた中年と若い恋人だろう。フランス映画では訳ありで偏屈な中年女と若い芸術家の卵というこれの逆パターンは散見されるが、草食動物の多い日本の若い男どもにそんな粋な恋愛はできまい。
奈々は、意外なほど運転が上手い。
キョウジュの運動神経のなさは散々見てきているので、「ヤレヤレ。途中で運転を代わることになるのかな」と覚悟していたが、これが全くの杞憂で、ステアリングさばきなど、この道三十年の運送屋のそれなので、この分なら煽られたり、狭い道やパーキングでもたつくこともないだろう。おそらく、元々、運動神経がいいのと尾道の細い路地や坂道を毎日運転することで鍛えられたのだろう。
爽やかな海風が奈々の栗色の髪を躍らせる。
この時が永遠であると感じる。
この道は小一時間ほどで広島ではなく、何時間も、いや何日もかけて楽園へと続いているのではないかと思う。
そんなものは小沢健二の歌詞の中にしか存在しないものと思っていたが、ここに存在することが奇跡のようだ。
嘗て、加奈子をバイクの後ろに乗せて走った道。
あの季節の風、幻想のように揺れるテールランプ、潮の香りと加奈子の体温と体臭に包まれる幸福感…
長い旅を経て、俺は再びそれを感じている。
寡黙で、シャイで、あまり笑わない奈々という加奈子とよく似た娘と。
「で、今日は何の取材をするん?新井監督に来シーズンの意気込みと展望を訊くとか?」
別に冗談を言ったつもりはないのだが、奈々は「イ」の口で笑って、「パパがようゆうてましたよ。『タミオは優しいけぇ、知らん人の前では冗談ばぁ言う』って。ウチなんかに気を遣わんでもええですよ」
「別にそうじゃないんじゃけど…」
「何か喋ってないとママを思い出すんでしょう?」
「奈々ちゃん」
「別に忘れることないですよ」
俺は気まずくなったので、二秒ほど奈々の唇をふさいだ。
好意というよりも場が持たなくなってしまったからだ。
奈々はキリっとした目に焦燥の色を滲ませながらもそれを受け入れた。
それが恋の始まりであることなど誰も信じないほど、運命はうねり出さず、まだ金であるべき沈黙を守っていた。
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