第6話
結局、俺はその日のうちにキョウジュのお袋さんに連れられる格好で「千光寺山荘別館」の敷居をまたいだ。
リフォームこそされているが、油絵の具のトウの立った匂いをクロワッサンが焼ける香ばしい匂いが包み込む。パリかニースあたりの老画家のアトリエに迷い込んだ感覚。
とても懐かしい。
残念ながら、ばあやのおさきさんは一昨年、九十四歳で眠るように亡くなったそうだが、市議会議員だった親父さんは今は県会議員として広島に単身赴任中だ。
一番驚いたのは、今でもダイニングに「あの絵」が飾られていることだ。
「あの絵」のモデルは俺で、ギャラはガトーショコラと甘いカフェオレだった。平成の初めごろまでキョウジュのお袋さんは子供を題材にした優しいタッチの絵をよく書いていた。
二十三年ぶりに対面した少年の俺は、異変種の猫のように目の色が左右で違っていて、太陽のように燦燦と燃え輝く左目と氷のように何物も受け入れない冷淡な右目をしているのが印象的だ。そんなことなどあの頃は全く気付かなかったが、キョウジュのお袋さんは俺の本質を見抜いていたということだろうか?
そんな他愛のない絵画論など交わしながら夕食の支度を手伝っていると、奈々が帰宅してきて、「タミオさん、なんでおるんですか?」と俺を二度見したが、それは招かざる客に向けた毒針を仕込んだ言葉ではなくて、サプライズに驚く初々しい少女のそれでなかなか気分のよいものだった。
「あら。あんたたち…ジュリー。吃驚したでしょ?」
「おばあちゃま、もう。ウチ、先にお風呂入る」
奈々は頬を赤らめて俯いて、自室に戻ってしまった。
これが加奈子なら「タミオさんったらママと間違えるってどんだけ!」などと腹筋が痙攣するほど笑い転げるところだが、このへんの内気さ加減がなんともキョウジュの娘という感じだ。
すると玄関の方から「おい。奈々。靴をよう揃えんような子はなんぼかわええてもつまらんで」と少し不機嫌で疲れ果てたようなキョウジュの声が聴こえてきた。
俺が唯一、この世で親友と認めた男の声を聴き違うわけがない。
「ほら。帰ってきた。行って驚かせてあげなさい」とキョウジュのお袋さんは悪戯っぽく笑って俺を促した。
流石に緊張感はないが、クリスマスを待ちきれない子供のように背中に羽が生えてどこへでも飛んでいけそうな気分になり、居ても立ってもいられなくなった。
俺は、わざとゆっくりと玄関のほうへと半身を乗り出し、「奈々ちゃんを虐める奴はワシが許さんど」とドスの効いた声で言った。
十秒ほどの放送事故の後、俺に気付いたキョウジュは回れ右ができなくて立ち尽くしているような不安定な感情で「タミオ!」と彼にしては珍しい大きな声で言った。
ここで初めてキョウジュの顔を見た。
すっかり白髪になっているので「変わった」或いは、「そこまで坂本龍一の真似をせんでもええのに」と言いそうになるが、それ以外は多少、額紋と目尻に皺が入った以外はほとんど変わっていない。衣装は相変わらず、黒ずくめだ。
紛れもなく、キョウジュだ。
「タミオ、生きとったんか?」
「おう」
「阿吽」ではないが、多くの言葉は要らない。それだけで分かり合えることもある。千里眼や読心術の類ではない。詳細や理屈を超越して、一つの大きな「肯定の泉」となる。その中で許されてゆく。その中で裁かれてゆく。そして、それは澄んだ水のような感情で素直に理解できる。
「タミオ。すまんかったのう。ワシ、なんてゆうてええか」
相変わらず、泣き虫なキョウジュ。
情けなくて、愛おしいくらいに泣き虫なキョウジュ。
何度見たか忘れてかけていた女のようなさめざめとした力のない涙。
全部わかっている。わかっているから、泣くなよ、キョウジュ。
「茶谷先輩からだいたいのことは聞いた。じゃけ、泣くなや、キョウジュ。ほら、立てや」
俺は、威厳に満ちた物わかりのいい父のように或いは、兄のようにキョウジュの痩せた肩を叩いた。
「部屋にさ、ごはんとお酒運んどくから、あんたたち、今日はゆっくりと話をしなさい。ね、ジュリー。そうしなさい」
「ほいじゃぁ、お言葉に甘えて。お母さん。ありがとうございます」
「総司のこと頼んだわよ」
キョウジュのお袋さんはにっこりと微笑んで片目を瞑ったと思ったら、身を翻し、「ちょっと、奈々。あんまり長風呂するんじゃないわよ」とすっかりお節介なおばあちゃまに戻っていた。
キョウジュの部屋は大きくは変わっていなかった。
ヤマハのピアノにローランドのキーボードにグレッチのギターが一本。作曲ソフトを入れたデスクトップのパソコン、壁を埋め尽くす楽譜と本とCD。天体望遠鏡はベランダに出ている。紫檀の机の上には二葉の写真。一葉は振袖を着た成人式の奈々、もう一葉は俺と加奈子と三人の写真。多分、九十五六年頃、向島の浜辺で花火をやった時の奴だ。
きっと、長い間、キョウジュの心の隙間を埋めるものはたったこれだけだったのだろう。
よく冷えたムートンガデの白をワイングラスに注ぎ、二十三年ぶりに酌み交わす酒はシャガールの青い夜のようにメロウで上質なチーズのように血液に溶ける。キョウジュもそれは同じようで、少しリラックスできたようだ。
「タミオが来るってわかっとったらクルン出したかったんじゃけど、パパが後援会の寄り合いで差し入れに持っていくけぇ、最近、ないことが多いんよ」
「ほう。キョウジュは普段、シャンパン飲んどるん?」
「いや。泡はあんまり好かん。来客用じゃ」
なんて話を聞いていると、我彼の生活格差を思い知るわけだけども、キョウジュは厭味も屈託もない。
「奈々のことは吃驚したじゃろ?」
「ワシ、二回も『加奈ちゃん』って呼んでしもうたで」
「ははは。あれでもこまい頃は顔も性格もワシそっくりでどうしょうかと思うたもんじゃけど、年々、似てくるんよ。DNAの神秘じゃ」
「そうじゃ。女は永遠の神秘じゃ」
「永遠の神秘に乾杯!」
理由をつけてはワイングラスを合わせる。
昔と何一つ変わらない。
変わったのは時代と年齢だけだ。
「キョウジュは再婚はせんのん?」
「加奈ちゃん以外の女とはありえんわ」
「気が合うのう。ワシも一緒じゃ」
また乾杯。
すると、不思議なもので心地の良い共感しか残らない。怨恨なんて恋も知らないガキの抱く感情だ。加奈子を失い、忘れられずに過ごした二十三年間の失望と後悔と望郷を表現する手段はない。仮に歌でも文章でもできたところで伝わるはずがない。それは形は違えど、キョウジュも同じだったのだ。
それは絶対に知られたくなかった特殊な性癖を知られてしまったみたいにうれし恥ずかしい一致だ。
「しかし、お互い大変じゃったのう」
俺がキョウジュの長年の労を労わると、キョウジュは遠近両用眼鏡をはずし、ハンカチでレンズを拭き、姿勢を正して、改まった。
「奈々が初めて熱を出した時、初めて生理になった時、反抗期で口利いてくれんようになった時、初めて男の子を好きになった時、ワシ、狼狽えることしかようできんかったわ。今ここに加奈ちゃんが生きとったらって、男親なんてよいよ役に立たん」
「そりゃしょうがなぁわ。浮気するし、しょうもない嘘つくし男はアホじゃ。アホじゃけん、しょうもないことに拘って、女に転がされながら生きていったらええんよ」
「タミオは強いのう。何十年も法施を積んだ徳の高い名僧みたいじゃ」
「筒井先生の影響かのう。まぁ、ゆうてもあのおっさんは名僧とは程遠いがのう」
そうではなく、達観と諦めなくして二十三年も海外で生きていけるわけがないのだ。正しいことや約束や常識がいとも簡単に蔑ろにされ、否定される世界でいちいち反論したり、執着したり、メランコリーになっていては身も心も懐もすり減ってしまう。
キョウジュは「先生、くしゃみしとってで」と苦笑して、パンオショコラを一つつまんだ。クロワッサンにビターチョコを挟んで焼いただけのフランスの家庭のお八つでよく出てくる奴だ。
俺は本棚に目をやり、「ふーん」と感心した。
「相変わらず、勉強家じゃのう。あいみょんや米津玄師はワシも好きじゃけど、アキモトグループやジャニーズやKポップの楽譜まである」
「弾けば生徒が喜ぶんよ。ワシらの頃と一緒じゃ。別に好きじゃないけど、こんなんでコミュニケーションが取れるんじゃったら安いもんじゃ。そもそも、ワシ、タミオみたいにあんまり喋るん得意じゃないし」
「そうじゃった。キョウジュの坂本龍一は最高じゃった!」
「なんか弾こうか?」
「ええのう」
自慢のミニカーを褒められたみたいに得意な笑みを浮かべると、ピアノの前に座り、「夜じゃけん、静かな奴な」と坂本龍一の『aqua』を弾き始めた。静寂でありながらも、生きる勇気の湧いてくる不思議で素晴らしいメロディだ。特に最後のリフが力強くなるところに生命の歓喜すら感じる。
生きてまたキョウジュのピアノが聴けるとは!
キョウジュには絶対に言えないが、加奈子を意識し、キスするまでの淡い青春の日々を思い出し、幸福に浸っていた。拍手をするのも忘れて…
「タミオもなんか歌とうてぇ。あれ、あれがええ」
「え?」
キョウジュはEのキーを弾き、「あれゆうたらあれよ」と前奏のメロディを鼻歌を歌うように軽快に弾き始めた。
『尾道スロウレイン』だ。
まさに、キョウジュの加奈子に対する切なる想いを聞いた時にまさに、このピアノを囲んで二人で作った曲だ。つまり、ビートルズの『サムシング』とクラプトンの『いとしのレイラ』を同時に作ったようなものだ。いや。ジョージとクラプトンがパティボイルドに贈る曲を競作したようなものだ。
そんな、普通ならば絶対にできるはずのない、まず作ろうと発想すらしない奇跡のような曲がこの『尾道スロウレイン』なのだ。
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