第5話
キョウジュと初めて会った日のことは忘れもしない昭和六十一年三月二十日のことだ。
ハレー彗星が最も地球に接近したあの日、尾道は快晴だったが、気温の上がらない肌寒い一日だった。
そもそも、星にも宇宙にも興味のない俺がなぜあの日「ハレー彗星を見たい」と思ったのか?まるで記憶がない。義晴にせがまれたのか?仲間に自慢したかったのか?はたまた気になっている女の子がそういうことを口にしたのか?
謎でしかない。
日の暮れた凍てつく千光寺公園へと続く険しい坂道を不安がり、手をかじかませながら登ったことだけは今でもハッキリと覚えている。
千光寺山荘の向かいのアメリカ人の富豪が地中海沿岸に持ってそうな白を基調とした地元の人間が「千光寺山荘別館」と揶揄する邸宅に俺と同い年くらいの子供がいることは噂では知っていたが、海沿いでばっかり遊んでいた俺は山手に住んでいる子の顔と名前は一致していなかった。
二階の広いヴェランダで天体望遠鏡を覗き込んでは、黒縁の眼鏡を指で何度も上下に動かして何か考え事をしている。子供でありながら、学者のように見えた。黄色いふわふわのフード付きのパーカーを着ているあたり金持ちの子だと一発で分かる。
「なぁ、ハレー彗星は来よるん?」
俺の地声の大きさに驚いたように下を見下ろして俺の存在を確認すると「先月の九日はよう見えたんじゃけどね。今日は木曜じゃけ、夜更かしができんのがいけん」と肩をすくめた。
俺は北風に抗えず大きなくしゃみをした。
「寒いじゃろ。上がってき。展望台は人でいっぱいじゃけつまらん。父さんは広島で会議じゃし、母さんとおさきさんはドラマに夢中じゃけ向こう二時間くらいなら平気よ」
俺は厚意に甘えて、お邪魔し、住居部分がほとんど戦後のバラック小屋と変わらない我が家とは別世界があることを幼心に刻みつけながら、その子と対面を果たした。
初対面でどんなことを話したのか?
あまり覚えていないが、一時間後に西の空に現れた青白いハレー彗星を共有したこの子とは一生の友達になる気がしたのと同時に、その風貌から、当時、巨泉のクイズダービーに回答者として出演していた学習院大学仏文科の篠沢秀夫教授を彷彿とさせることからこの子のことは「キョウジュ」と呼ぶとことにした。
しかし、この「キョウジュ」という仇名には後日譚がある。
二年後、俺や周囲の予想と期待に反して中学受験をしなかったキョウジュは俺と同じ長江中学に通うことになった。
一緒に遊んでいる時はそんなことはおくびにも出さなかったが、キョウジュはよくいる人のいい金持ちのアホボンと違って、かなり高度な英才教育を受けていて、勉強のできる子的な「知識」ではなく、立派な「教養」を持っていた。
中学生でありながら、小倉百人一首をそらで諳んじることができ、サリンジャーの小説やギンズバーグの詩を原書で読み、志ん生の「らくだ」や三木助の「芝浜」で笑わし、日ユ同祖論から古代史を語ることもできた。
ピアノもそんな中の一つだった。
音楽の授業にキョウジュが何か一曲弾くのはもう学校公認のレクリエーションになってしまったほどで、女子のリクエストで光GENJIやTMネットワークを弾いたり、フォーク好きの音楽の教諭のリクエストで吉田拓郎や加川良なんかも弾いて、すっかり人気者になっていた。
あれは九月の第三週の曜日は忘れたが、朝からやたらと雨の降った日があった。
その日は皆気分が沈んでいて音楽の授業どころではなく、教諭も投げやりで、「藤井。好きに弾いていええぞ。先生、職員室でタバコ吸うてくるけぇ自習じゃ」などと言うものだから、キョウジュがニヤリと笑って弾き始めたのが坂本龍一の『Rain』だった。
心地の良い雨音が次第に冷たい豪雨になって我が身に迫ってくるような緊迫したメロディとタッチ。ポップスではなく、クラッシックの歌曲としても成立しそうな曲だ。またそれが窓の外の天気とフィットしている。
俺はまるで麗人とすれ違い、言葉と呼吸をなくしてしまったように聞き入った。
ふわふわして地に足がつかない。
不安定でありながらも美しい。
俺は確信した。
「キョウジュ」は「キョウジュ」でもこいつは坂本龍一のほうの「キョウジュ」だ。
友を尊敬するなど、最初で最後のことだった。
そのキョウジュに会うのは二十三年ぶりだ。
俺と違って、立派な社会人として、亦、父親として年を重ねたキョウジュがどんな頼もしい奴になっているか?
刻まれた時が高潔で尊いものならその面相はさぞかし自信と慈愛に溢れたものになっているはずだ。
それは楽しみであると同時に恐れている。
泣き虫で気の弱いところがあったキョウジュが果たして加奈子を失った悲しみをちゃんと乗り越えられたのか?悲観も絶望も卑怯なふるまいもせずに生きてこれたのか?嘘や保身があれば必ず顔のバランスがおかしくなる。尤も、世の中は圧倒的にそっちのほうが多いわけだが…
いや。俺ごときが批評することではない。
汝の友を信じたい。
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