ヴォイス―最愛の人の声が聞こえる―

YあおばY

第一部 声

第一話 幸福なふたり1

 目覚める直前まで、夢を見ていた。何かに追われているような感じの夢だった気がするが、いつもどおり思い出すことはできない。光陽みつひろの隣では、穏やかな寝顔の真由美が、規則正しい寝息を立てている。

 横になったままの格好で、光陽はカーテンを捲った。

 

 青空に、虹がかかっていた。窓をそっと開けると、微かに残る雨の匂いがした。


「綺麗ね……」

 背後からの真由美の声に、光陽は振り返った。


「ごめん。起こしたか?」

「ううん。ちょうど起きるところだったのよ。虹なんて久しぶりに見たわ」

「俺も、かなり久しぶりに見たと思う」

「朝の挨拶がまだだったわね。おはよう」

「ああ、おはよう」


 真由美は髪をかきあげながら、ナイトテーブルに置いてある目覚まし時計を手に取った。


「七時半か……。ご飯は何にする? パン?」

「いや、コーヒーだけでいいよ」

「ダメよ。ちゃんと食べないと」

「知ってるだろ。朝は食べないんだ」

「今まではそうでも、これからはきちんと食べてもらいますからね。もうすぐ私の夫になるんだから。朝食を食べると身体に良いって知ってるでしょ?」

「それは知ってるけど……。ずっと朝食を取らない生活だったから、胃が受け付けないんだよ」

「だから、今日から徐々に慣らしていくのよ」


 真由美はベッドを出ると、カーペットの上に脱ぎ捨てられていたパジャマのパンツを穿き、洗面所に向かった。三分ほどして戻ってくると、台所に立って朝食を作り始めた。

「食パン二枚とハムエッグ、あとはサラダも作ってあげるわね」


 いやいや、そんなにいらない、食パン一枚だけでいいよ。そう返そうかと思ったが、真由美はすでに食パン四枚をトースターの中に入れ、フライパンでハムエッグを焼き始めていた。


 光陽は溜息を吐きながらベッドを出て、煙草とライターを持ってベランダに進んだ。遠くの空にかかる虹を見ながら、煙草に火を点けて吸い込む。この瞬間の煙草が、一番うまい。多くの喫煙者が、寝起きの一服が一番うまいと答えるのではないだろうか。


「煙草も、徐々に吸う数を減らしていかないとね」


 煙を吐き出しながら振り返ると、真由美がマグカップにコーヒーを注ぎながらこちらを見ていた。視線が合うと、彼女はにこりと微笑んだ。光陽はその言葉には何も返すことなく、肩をすくめて顔を正面に戻した。

 そう簡単には止められないだろうが、真由美に何度か言われていた。


『あなたの身体は、もうあなただけのものじゃないのよ』と。


 確かに、そのとおりだ。だから時間はかかっても、いずれ煙草を完全に止める日がくるだろう。


「朝食、できたわよ」


 光陽は煙草を灰皿の上でもみ消して室内に戻った。


 食パン二枚とハムエッグ、そしてサラダ。これが昼飯なら全然足りない量だが、朝食を食べること自体久しぶりの光陽としては、超大盛りとも言える量だった。

 それにしても、この朝食の量で「徐々に」なら、結婚する頃にはどのくらいの量のご飯が並べられるのだろうと思った。


 光陽が食パン二枚を飲み込んだ時には、真由美は完食していた。


「ねえ。今日、式場での打ち合わせが終わったら、どこか遊びに行きましょうよ」

「そうだな。今、凄く怖いって評判のホラー映画が上映されてるんだけど、それ観にいかないか?」

「イヤよ、怖いのは」

「いや、そんなに怖くないよ」

「たった今、凄く怖いって評判のホラー映画って言ったじゃない」


 真由美は、ホラーものが大の付くほど苦手だ。どんなに誘っても、決して観ようとはしない。地上波のテレビでやっているような、家族で観られるものでも怖いと言うのだ。


「じゃあ、海で泳ぐか」

「本気で言ってるの? 九月の下旬よ?」

「だよなあ。やっぱ無理か。あーあ。もっと真由美の水着姿見たかったのにな」


 毎年、両手で数えるほどには海に行っていたのだが、今夏は二回しか泳ぎに行けなかった。両者の仕事が多忙だったこともあるが、光陽が真由美にプロポーズをしたので、それに関連した物事が自由に遊べる時間を奪っていた。


「私も、せっかく買ったんだから、もう少しあの水着で泳ぎたかったな。結局二回しか着られなかった」

「まあ、俺的には、あのビキニを見られただけで、今年の夏は燃え尽きることができたけどな」

「アレ、そんなに良かった?」

「うん。男のロマンが詰まってた」

「どういう意味よ」

「そのまんまの意味だよ。ただ、ロマンが詰まりすぎて、他の男どもがじろじろ見てたのがマイナスポイントかな」

「来年の夏は、もっと落ち着いた感じの水着を買うわ」

「何で? じろじろ見られるのがイヤだから?」

「あの水着は、独身最後の思い出に買ったのよ。人妻になったら、アレはちょっと着られないわ」

「そっか。残念だな。まあ、俺はアレ以上のものを見てるから別にいいけどな」


 ニヤニヤして光陽がそう言うと、真由美は無言で笑みをつくった。

 そんな話をしながら、光陽はやっとの思いで食パン二枚とハムエッグ、そしてサラダを胃の中に収めた。


「それじゃ、どこに行こうか。どこか行きたいところあるの?」

 真由美は頬杖をつき、視線を右斜め上に向ける。

「式場の少し先に、新しくできたショッピングモールがあるでしょう。あそこに行ってみたい」

「OK。打ち合わせが終わったら遊びに行こう」

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