相原夫妻の朝――3

 清々すがすがしい空気を感じながらアスファルトを踏みしめ、住宅地を駆ける。


 早朝ランニングは、俺の昔からの日課だ。母さんが父さんと再婚する前から、体調・天候がいちじるしく悪い日を除き、欠かさず続けている。


 ……いや、続けてと言ったほうが正しいか。


 走るペースを保ったまま、俺は自嘲じちょうした。


 昔のように、明確な目標があるわけじゃない。どうしても走らずにいられないんだ。この習慣をやめたら、二度とコートに戻れない気がするから。


 俺はただ、諦められないだけなんだ。


 我ながら女々めめしいよなあ。


 自嘲する俺は、玲那とともに住宅地を抜け、国道に出る。早い時間帯のためか、車はそれほど走っていなかった。


 排気ガスの臭いがないのはありがたい。んだ空気がよごされないですむ。


 ランニングをしていると、いやおうでも昔のことを思い出してしまう。苦々しい記憶がよみがえり、いまだに乗り越えられない自分が情けなくなる。


 けれど、早朝の透明な空気や、日の出前の藍色あいいろの空、徐々に色づいていく景色は気に入っていた。


 やがて国道には傾斜がつき、坂道になっていった。俺と玲那は、緩い坂道を併走しながら上る。


「いつも言ってるけど、わざわざ付き合わなくていいんだぞ?」

「いつも言ってますけど、好きで付き合っているんです」


 肩で息をしながらくと、玲那は屈託くったくのない笑みを返してきた。紅潮こうちょうした肌にしっとりと汗がにじみ、どこか色っぽく感じる。


 玲那が前を見た。


「気に入ってるんですよ。早朝の透明な空気とか、日の出前の藍色の空とか、徐々に色づいていく景色とかが」


 俺は目を丸くする。


 そうか。玲那は、俺と同じものを気に入っているのか。


 自然と口元が緩む。


 自分の好きなものを好きと言ってくれるのは――そんな相手が隣にいてくれるのは、嬉しいもんだな。


「それに、ちゃんと目的があるんです」

「目的? 初耳だな」


 玲那がランニングに付き合いだしたのは、母さんが父さんと再婚してから五ヶ月ほど経った頃――俺に心を開いた頃からだ。


 しかし、目的があるなんて知らなかった。聞いたこともなかった。


 俺が目をぱちくりさせていると、玲那がはにかんだ。


「口にするのが恥ずかしかったですから」


 ぴっ、と玲那が人差し指を立てる。


「お兄ちゃん、『ばし効果』って知ってますか?」

「ホラー映画を観たり絶叫マシンに乗ったりしたとき、一緒にいたひとを好きになるってやつか?」

「そうです。あれは、恐怖や緊張のドキドキを、一緒にいる異性へのドキドキ――恋愛感情と勘違いするから起きるものなんです」

「へー。人間の脳って意外といい加減なんだな」


 披露ひろうされた豆知識トリビアに感心すると、「そうですね」と玲那が苦笑して、続ける。


「この『吊り橋効果』は恐怖や緊張だけに限定されません。コンサートに行ったり、スポーツを観戦したり、露出度の高い服を見せたり、とにかく、相手をドキドキさせたら起きるんです」

「ははっ、面白いな! 特別な効果じゃなくて、案外あんがい身の回りで起きてるのかも……」


 そこまで口にして、ハッとした。


『吊り橋効果』はドキドキしたら起きる。ドキドキさせれば意図的いとてきに起こせる。ドキドキしている相手のそばにいれば、恋愛感情を持たせられる。


 そしていま、俺はランニングによってドキドキしている。


「玲那……まさか、お前……」

「はい! わたしがランニングに付き合っているのは、ドキドキしてるお兄ちゃんと一緒にいることで、『吊り橋効果』が期待できるからなんです!」

「やり過ぎじゃね!?」


 ドヤ顔をする玲那に俺は仰天ぎょうてんした。


 ようするに玲那は、自分のことを好きになってもらうためにランニングに付き合っていたらしい。


 そりゃあ、打ち明けられないよな! 『あなたに好きになってもらうのが目的です』なんて、バレたら恥ずかしくて死んじまうわ!


 ていうかそれって、一年以上前から計画してたってことだよな!? 俺の妻になろうとしてたってことだよな!? ちょっと愛が重くないですかね!? 嬉しいって感じちゃう俺も大概たいがいだけどさ!!


「やり過ぎなんかじゃありませんよ」


 思いも寄らない真実に動揺していると、玲那が目を細めながら言った。


「好きなひとを振り向かせるためなら、わたしはなんだってやります」


 玲那の頬が赤いのはランニングのせいだろうか?


 俺の心臓がうるさいのはランニングのせいだろうか?


 恥ずかしさのあまり玲那の顔を見ていられず、俺は前を向く。


 坂道が終わり、てっぺんに到達した。


 開ける視界。眼下に広がるのは、広大な海と水平線。


 同時、俺たちの背後で、山々の影から太陽が覗いた。日の出だ。


 オレンジ色の陽光が、藍色の海を照らしていく。暗かった海があけぼの色に染まっていくさまは圧巻だ。


 絶景を前に立ち尽くしていると、玲那が俺の右手を握ってきた。


 白魚しらうおのようにしなやかな指と、女の子特有の柔らかい感触に、鼓動がますます加速する。


 ドキリとしているあいだに指を絡められ、俺と玲那の手が恋人繋ぎにされた。


「わたしのドキドキ、わかりますか?」

「あ、ああ」

「お兄ちゃんはドキドキしてますか?」

「……そっちのがわかるんだ。こっちのもわかるだろ」


 照れくさくてそっぽを向く。玲那が笑う気配がした。


「ランニング、これからも付き合いますね?」

「ああ」

「一緒に同じ景色を見ましょうね?」

「ああ」

「帰ったら一緒にシャワーを浴びましょうね?」

「あ……いや、アホか! お断りだ!」


 真っ赤になって玲那の手を振り払う。


 危うく「ああ」と口にしてしまうところだった。油断も隙もあったもんじゃない。

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