半銅貨一枚、黒パン一個





 明け方まではまだ遠い。

 冬の闇の冷たさを暖炉の火で払いのける。


「ナタリア様…」


 枕元に椅子を寄せて座り、痛みが落ちついて呼吸も静かになってきたマリアの額の汗を拭ってやると、大きな瞳を開いてナタリアを見つめてきた。

 陣痛の間隔はまだゆっくりだ。

 出産はまだ先になるだろう。


「どうしましたか。腰が痛いのでは? さすりましょうか」


 うるさい男たちを追い出し、真昼のように灯されていた照明を消し、侍女たちも最小限に抑え、スコット医師も隣室で休んでもらっている。


 現在この部屋にいるのは侍女長のアルマ、ナタリア付き侍女のアニー、出産立ち合いの経験があるデイジーのみだ。

 騎士たちはローレンスの護衛と言う名の監視をしてもらっている。


「ありがとうございます。今は大丈夫です。ただ…。ずっと聞きたかったことがあって…」


「そうなのですね。なんでもおっしゃってください」


 マリアが手を伸ばしてきたので、両手で握る。


「さきほど……。ナタリア様がローレンス様をお叱りになっていた時……」


「ふっ……。そうですね。しかり飛ばしておりましたわね」


 ナタリアが吹き出すと、マリアもひそりと笑った。


「私と息子を殺す気なのかと…仰っていたような気がするのです」


「ああ……はい。そういえば言いましたわね。たしかに」


 少し考え、ナタリアは返す。


「ナタリア様はどうして『息子』と? この子が男の子だとおわかりになるのですか?」


「わかる…というか、勘です。確証はありませんけれど、わりと当たるのですよ、私の予想って」


 ふふふと笑いながらナタリアはマリアの額ゆっくりと手巾を当てる。


「マリア様のお身体の調子も落ち着いてきたことですし、次の陣痛を待つ間ちょっと私の話を聞いていただけますか」


「はい。ぜひお聞かせください」


「ありがとうございます。では」


 手巾を脇に置き、マリアの手をゆっくりさすりながらナタリアは語り出した。


「私の育ったダドリー領は辺境で気象条件も厳しく、とても……とても貧しい土地です。そんなところは領主領民一丸となって様々なことを乗り越えねばなりません。そうしているうちにみな家族のような間柄になっていって……」


「……はい」


「とにかく娯楽のないところなので、賭けでもしないとやっていけないのです。世間話ついでに様々なことを賭けるようになりました。たとえば水車小屋の夫婦が喧嘩した。さあ、仲直りするのはいつになるのか、またはどちらが謝るのか…とか。とても些細なことを半銅貨一枚で賭けます」


「半銅貨一枚?」


「我が領内では黒パン一つの値段になります。それくらいの金額なら、ちょっとした冗談で出せる程度にはなんとか盛り返しましたね…」


「黒パンですか」


「はい。このくらいの」


 ナタリアは拳を握ってみせる。


「…懐かしいです。修道院の食事は黒パンでした」


 ふわりとほおを緩ませるマリアに、ナタリアは一瞬言葉に詰まった。


「そう、でしたか…」


「塩が少し多めで、噛み応えがありますよね」


「ええ。酵母の風味がきいていて」


「ふふ。なんだかまた食べたくなりました」


 マリアが過ごした修道院は預入金によって多少待遇が違うという噂だ。

 父親のヒックス子爵は最低限の金額しか払わなかったのだろう。

 そんなからくりをおそらく知っていながら、マリアは黒パンを懐かしむ。


「たとえどんなに貧しくても、パンと水があればなんとかしのげるでしょう? おおがかりな飢饉があった時から、ダドリーではパン屋で使う薪とライ麦は切らさぬよう領主が管理していたのです」


「ああ…。パンを焼くにはある程度の火力が必要ですものね」


「その通りです」


 領民が飢えて死ぬような事にはならないように努力するのが領主の努めだ。

 間違っても瑕疵を訴えられ賠償金を払わねばならないような事態は避けたい。


 本当ならば、ナタリアは首を突っ込むべきではなかったのだ。

 大人しく本館でことが終わるのを待つべきなのだろう。


 しかし、この少女とお腹の中の子を放っておけなかった。

 このままでは、ローレンスの愛に潰されてしまうと案じているだけに。


「そんな毎日ですが、鍛冶屋の犬のお腹が大きくなった。さて何匹生まれるのか、雄は何匹、雌は何匹、柄はどんな? と、話題は尽きません。そこで遊び半分に賭けるのです。そして皆、ちょっとした小遣い稼ぎをしたり、お祝いをしたり、幸せを分かち合うのです。そうしたら少しだけ毎日が楽しく感じるでしょう」


 ナタリアが片目をつぶっておどけて見せると、マリアはくすくすと幼い子どものようにあどけない笑顔になる。


「素敵なところなのですね、ダドリー領は」


「ええ。何でも賭けてしまう癖がついたのは困りものですが」


 明日の天気や釣果、時には子供まで森で収穫した木の実で賭けあう始末だ。


「そうして場数を踏んでいるうちに、なぜか的中率が上がっていったのですよ。私だけ」


 にいっとナタリアは唇を釣り上げる。


「え……?」


「私の予想では、今、貴方に会うためにせっかちにも一月早く出てこようとしている赤ちゃんは男の子だと思います。きっと旦那様にそっくりの甘えん坊に違いありません」


「ええ…? 本当に?」


 首をかしげて、瞬きを何度も繰り返しながらマリアは尋ねる。


「はい。…せっかくなので、ここにいる皆で賭けませんか? 赤ちゃんはどんな子なのかを。もちろん掛け金は半銅貨一枚で」


 半銅貨など、貴族が持つ貨幣ではない。

 しかし、ナタリアの意図に気付いた侍女長がすぐに頷いてくれた。


「面白そうですね。私は、マリア様に似た可愛らしい女の子だと思います」


「あ……。私も。私はそうですね。旦那様そっくりの美しい女の子で」


 アニーも素早く同調する。


 戸惑いながらもデイジーはおそるおそる手を上げた。


「では、私はマリア様にそっくりな愛らしい男の子ということで」


 全員がそれぞれ違う答えを挙げるなか、マリアの身体から力が抜けていく。


「みなさん…」


 青い貴石のように透き通った瞳が潤むのを、みな、気付かぬふりをして賑やかな声を上げた。


「さあ、マリア様。どうなさいますか。賭けますか? 賞金は半銅貨もしくは黒パン一つです」


 ナタリアが軽く手の甲をつついて見せると、喉を鳴らして笑いながらマリアは口を開く。


「では、私は―――」


 女たちだけのなごやかな笑いが部屋をゆっくりと暖めていき、やがて夜は明けた。

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