契約を結びます
「ではまず、一つ目。
私、ナタリア・ルツ・ダドリーと、貴方様、ローレンス・ウェズリー侯爵との婚姻は、ローレンス・ウェズリー侯爵がマリア・ヒックス子爵令嬢との間にもうけた子供を嫡子として届け出を出すためのみの契約結婚だと明記させていただきます」
本当は、初顔合わせの時に交わしてしかるべき内容だった。
しかし予定より早く着いたのはナタリアで、予定が狂い準備が整わなかったとばかり思っていた。
あくまでも主導権はウェズリー。
そう思っていた。
ところが待てど暮らせど正式な交渉は一切なく、ナタリアは愛妾どころか道端で拾った娼婦のような扱いをされるだけで、心身ともに疲弊する羽目になった。
しかし、何とか耐えた。
こちらの札がそろうのを待ち続けた。
まずは少しでも優位に交渉するのが先決。
何度も気がせいたが、なんとなく勘が働いたのだ。
この政略結婚は、なにかあると。
そしてマリア・ヒックスの情報を手に入れて、心は決まった。
マリアと、自分の両方を救う。
彼女を、見捨てるわけにはいかない。
「よって契約上、私とローレンス様の関係は、あくまでも『白い結婚』を貫くこととします。これが二つ目の条項。」
「え・・・」
ローレンスのみならず、パール夫人以外の全員が驚いた顔をする。
「ローレンス様は初夜のベッドで私にきちんと事情を説明し、指一本触れないと誓うべきでした」
「そんないまさら」
そう。
今更だ。
つい先日など娼館じこみの技まで駆使してすっかり爛れきった関係だ。
そんなこと、壁の中に潜むネズミですら承知だろう。
しかし、これをなかったこととする。
「私たちの間は、何もなかったのです。あってはなりません」
深い関係だったのに『白い結婚』だと契約書に記載し、マリアの子供の生母と届け出を出す。
矛盾だらけだ。
しかし、これだけは譲れない。
「これは、ローレンス様とマリア様の夫婦生活がこれからも円満に続くためには、一番なくてはならないことだと私は思うのです。なぜならマリア様は今、心の底からローレンス様を尊敬し、愛しておられます。それは彼女の知る世界がまだ、修道院とこのウェズリーの箱庭だけだっただからです」
まだ今は、隠し通すべきだ。
ローレンス・ウェズリーのどうしようもない軽さを。
「ずいぶんないいようだな・・・」
ローレンスが剣呑なまなざしでナタリアを見据えた。
美男はこういう時ですら、ひとにらみすればさまになってしまうからいけない。
つい雰囲気にのまれて、能ある者だと錯覚してしまう。
本人を含め、誰もが。
彼は、演じているにすぎない。
大公閣下の寵愛と期待を一身に背負った美貌の後継者という役を。
「だって、マリア様はご存じないのでしょう?挙式当日から今まで、あなたが妻と恋人の間を都合よく往復していたなんて。彼女は、これが真実の愛だと信じているからこそずいぶんと年の離れた男のそばにいます。しかし事実を知った時、どうなるかを考えたことがありますか」
「本当に…言いたい放題だな」
「冷静な判断をしていただくためにも、いわせてもらいますとも。貴方が十三歳の時、もうすぐ三十歳になろうとする男性を若いと思えましたか?二十歳でもずいぶん大人に見えたはずです。マリア様の同世代は、二十代半ばでももうすでに恋愛事からは足を洗い、性衝動と程遠い老成した日々を送っていると思うのが普通です。だって、どちらかというと親の年齢に近いですから」
心を鬼にして直球を投げ続ける。
書記官は三十代のため、少し涙目になっていた。
四十代のパール夫人には、この暴投を心の中で深くわびる。
「それでも、マリアは貴方を選んでその腕に飛び込んだ。一生に一度の男だと信じたからです。彼女の世界を守ってあげるのが、その愛に報いることであり、今あなたのすべきことではないのですか」
説教する立場にないのはわかっている。
本当は、人の恋愛になんか嘴を突っ込むべきではない。
自分は今まで一度も恋愛をしたことないのにたいそうなことだとも思う。
だが、この馬鹿には必要だと心底思うからとことんやると決めた。
「あなたに足りないのは、自覚と責任です。今後のためにも、明文化し頭を整理してもらいます」
お前はどうしようもないポンコツだと付け加えたいが、そこはなんとか飲み込む。
「そのようなわけで」
とん、と机上の紙を叩いてローレンスの瞳を見据えた。
「まずは今後の憂いを払う為にも、私たちの関係の清算が必要です。お判りいただけましたか?」
「・・・わかった」
不承不承ではあるが、言質をとった。
これで、閨仕事は卒業だ。
ナタリアは心の中で喝さいを上げた。
本当は、本館の端から端まで走って叫びたいほどうれしい。
だが、ぐっとこらえて次へ進む。
「マリア様とお子さまの健康など状況によっていろいろ変わるかと思いますが…。ウェズリーがダドリーへ多額の融資をしてくださったからには、別の部分で仕事をしようと思います」
「仕事?」
「はい。よってこれが三つ目の条項になります。
マリア様が無事成人し、私がお役御免になるまでのおよそ二年間。私が侯爵夫人としての仕事を整備したうえで全うし、その引継ぎと貴族としての教育をマリア様に施します」
「教育?」
「ロザリア修道院できちんと習得されておられるため、王宮の侍女もしくは伯爵以下の女性としては申し分ありません。しかしこれがウェズリー侯爵夫人となると別です。大公閣下の息子の妻として社交界でふるまわねばならないのですから。その少し足りない部分を徹底的に洗い出して補填し、誰からも後ろ指をさされず自信をもって今後暮らせるように手助けをさせていただきたいと思います」
「しかし・・・」
ちらりと、夫はナタリアの顔をうかがう。
「辺境伯爵令嬢の私が何を言うと思われたでしょう。それはごもっともです」
王都など、数えるほどしか滞在したことがない。
デビュタントですらほんの数時間で終了し、社交界経験はゼロに等しい。
金銭的余裕がなくて王立学院へも通えなかったのだ。
こうなると山猿以下だ。
「だからこそ、こうしてメアリー・パール夫人に同席していただいたのです。この件を了承していただけるなら、彼女の知人を紹介いただき最高の指導者をマリア様に付けます」
名前の挙がったパール夫人が優雅に一礼して口を開く。
「ローレンス様、改めてご挨拶します。私はもともと王妃様付きでした。王太子妃決定後は妃教育の責任者を務めまして、そのまま王太子妃様の専属となっております。なので、お任せいただければ最高の教師を手配することが可能です」
「そういうことか・・・」
ここでようやく、王太子妃の侍女がここに列席したのか理解できたらしい。
本来なら、貴族教育はウェズリーで行うべきことだ。
各国の要人と交わる侯爵の正妻として据えるつもりならなおさら。
そうしなかったのは、恋に溺れていたからなのか、それとも。
「詳細はおいおい話し合いを持つこととして、四つ目の条項へ移りましょう」
紙を手に取り読み上げた。
「ナタリア・ルツ・ダドリー
マリア・ヒックス
マリアの出産した子供
そして、今回の契約の立会人
メアリー・パール行政官
ティモシー・トロント行政官
チャールズ・セロン執事
ナタリア側護衛騎士・アベル・トリフォード
ローレンス側護衛騎士・マシュー・パリス
侍女・アニー・ソウ
および、この契約結婚に関わったすべての人間の命の保証を約束すること」
一瞬、部屋の中が静まり返り、まるで時が止まったようになった。
やがて窓の外で鳥たちが縄張り争いの声を鳴き交わし羽ばたく音がして、ローレンスは我に返る。
「・・・命の、保証?」
子供の洗礼式が終わればいずれナタリアを病死か事故死させるつもりだったことを、快楽に負けて口走ってしまったことをローレンスは思い出す。
それを聞いてなお、平然とそれを口にして交渉するかりそめの妻に驚きを隠せない。
彼女は、ようやく二十歳になったばかりだと聞いているのに。
「はい。これはもちろん私自身命が惜しいからですが、ウェズリーの存亡にもかかわるので最も重要な条項と言えますね」
「なぜ、ウェズリーが揺らぐと言い切れる」
ウェズリーは長い間安泰だった。
父が、どれほどの横暴を働いたとしても。
「邪魔者を片っ端から始末したらどうなると思います?とくに、この件で」
ナタリアは新たな書類を提示した。
小さな字で埋め尽くされているのは、人の名前だ。
「こちらは住み込みの使用人たち、次が通い、その次が臨時雇い、そして出入りの業者、ダドリー領へ交渉にきたグラハム一行とかかわりを持った人々、そしてこの王都の貴族たち・・・ざっと数えて数百人・・・いや、もっとですね。そもそも、王族の皆さんもご存じですし」
なんといっても、ここに王太子妃の部下がいるのだ。
パール夫人はナタリアの個人的な頼みを受けたのではない。
王太子妃直々の指示の下、有給で行政官として仕事をしているのだ。
「話が振出しに戻りますが、貴方たち親子の立てた計画は穴だらけなのです。私を使って体裁を整えようとした時点で」
「・・・」
ローレンスの顔に不満げな色がにじみ出ている。
簡単には頷きたくないはずだ。
貴族の矜持が揺らいでしまう。
「使用人など替えが効くとお思いですか?セロンほど貴方に忠実で善良な執事はいませんし、彼が手を尽くして揃えた人々も驚くほど優秀です。今が一番良い組み合わせだからこそ、何もかも上手く回っていますが、少しでも刃こぼれしたら総崩れですよ」
父親に溺愛され、ぬくぬくと今まで過ごしてきたローレンスは考えようともしない。
今こそが人生最高の時かもしれないことを。
「ウェズリーから頂いたお金でダドリーは確かに持ち直し、この冬を無事に過ごすめどが立ちました。その感謝のしるしに、私はウェズリー侯爵家の善き未来への橋渡しという仕事をこの二年で誠心誠意努めさせていただきます。そのためには、命の保証をお願いします」
たとえここでローレンスが了承したとしても、状況が変われば覆ることなど百も承知だ。
多くの人を圧迫し屠り続けたからこそ、ウェズリー大公は王より強いとささやかれるほどの力をつかんだ。
しかし、今のところ父と息子は別物だ。
少なくとも、身分も低く血筋も不確かで美貌と人柄だけの幼い少女を正妻に据えようと本気で思う時点で、野心ゼロだ。
天と地ほどにかけ離れている。
そこに、つけこもうとナタリアは思った。
この契約書は、ちょっとした保険であり、まじないのようなものだ。
少しでも効力があればそれに越したことはない。
「・・・一つだけ聞く。ナタリア、この契約書の要は何だ」
「マリア様とお子様の幸せ、そして円満な離婚ですね」
「なぜ、そこまでマリアにこだわる。会ったのはあれが初めてだったのだろう。ふつうはマリアを押しのけて名実ともに侯爵夫人の席に座り続けたいと思うものじゃないのか」
確かに、そうしたくなるものなのかもしれない。
だが、ナタリアはまっぴらだ。
こんな男と関わるのはせいぜい二年と思うからこそ頑張れる。
正直、許されるなら今すぐにでもダドリーへ帰りたい。
胸からあふれでる郷愁をぐっと抑え込んだ。
「そうですね・・・。ああ、そうだ。マリア様があまりにも可愛らしいので、お仕えしたくなったのが理由の一つですね」
「は?」
「たぐいまれなる原石を磨いて最高の淑女に仕立て上げる。ロマンだと思いません?」
にいっと笑って見せたら、ローレンスは頭を抱えた。
彼自身、同じことを思ったからこそ、今に至る。
「・・・。とりあえず、現状に照らし合わせて今回はこの条項で、ということでいいか」
「はい。たぶん、これを読んだらお父上が激怒なさるでしょうし」
「それもこみなのか」
この契約書を目にしたら、必ずナタリアを呼び出すだろう。
来年の春には消すつもりの女と会うつもりはさらさらなかっただろうが、多少の脅しをかけずにはいられないはず。
それも、狙いの一つだ。
ウェズリー大公と直接交渉する。
「ええ」
グラハムたち子飼いからの報告を受けて、めちゃくちゃに怒ればいい。
激怒ついでに息の根も止まってしまえばいいのにと、ひそかに呪う。
「わかった。その内容で合意する」
「ありがとうございます」
とりあえず、今やるべきことは終わった。
ナタリアは署名をしながら息をついた。
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