マギー・サンズの呪い
「鳩と鷹はもう飛ばしたわ」
海のように青い瞳をきらめかせて、執務室の窓辺にたたずむ義姉は言った。
ねちねちとウェズリー侯爵家の格式と栄光について講釈を始めた家令を兄に任せ、ナタリアは離脱した。
兄は、とてもとても忍耐強い。
もはや神業と言うくらいに。
廊下で待機していた侍女の報告では、婚姻届けを預かった騎士がものすごい勢いで馬を駆り、屋敷を後にしたらしい。
さもありなんだ。
「そろそろお義父さまたちも戻られるはずよ」
両親はちょうど領内回遊に回っていた。
もうすぐ農作物の大規模な収穫の時期になる。
そもそも今日はナタリアたちも現状把握のためにそれぞれ手分けして領民の声を聴きに行くことになっていた。たまたま河川整備の話し合いを午前中に設けていたため在宅してしまい、ウェズリー侯爵の家令につかまってしまったのだ。
「ありがとう、お義姉さん」
礼を言い終えないうちに廊下を幾人かが走ってくる音が響き、ばーんと扉が開く。
「ナターシャ!大丈夫か!」
「ナターシャ!なんてことなの!」
父のジャックと母のヘンリエッタが髪を振り乱して駆け寄り、愛称で叫びながら左右からがしっとナタリアを抱きしめた。
どうやら、姉の飛ばした鳩は無事に両親の元へたどり着いたらしい。
「・・・これは、マギー・サンズの呪いよ・・・」
ナタリアの右肩に顔をうずめたまま、地を這うような声で母はぽつりと言った。
「へ、ヘンリエッタ・・・。またそれを言うか」
「何度でも言いますわ、ええ。この婚姻をマギー・サンズの呪いと言わずして何だと言うのですか」
「いやいや、まて、ヘンリエッタ」
サンドイッチされたまま両親が痴話げんかを始め、ナタリアはげんなりする。
マギー・サンズの呪い。
それは、何か運のないことが起きるたびに母が持ち出す言葉である。
マギー・サンズとは、父が若いころ摘まんでポイした男爵令嬢の事だ。
父は今も昔も平凡な容姿である。
だがしかし平凡というのはある意味利点で、きらびやかな容姿だと何かと気後れするものだが、地味な父は令嬢たちに警戒心を持たれずにするりと距離を詰め、たやすく親交を深められた。
そして次第に調子に乗った父はこっそり入れ食い状態だった。
親が婚約者として異国から呼び寄せたヘンリエッタが登場する瞬間まで。
母、ヘンリエッタは花の女神と讃えられたほど美しい。
一目ぼれした父は速攻ですべての令嬢を切り捨てた。
その中の一人がマギーだったのだ。
捨てられて自棄になったマギーは派手に男遊びをして身持ちを崩し、慌てた親が年取った子爵の後妻に売り飛ばした。
さらにそこで愛人の子を妊娠し、出産の時に赤子もろとも亡くなった。
ジャック・ダドリーを呪いながら息を引き取ったという噂が今も語り継がれている。
結婚して以来ほぼほぼ領地に閉じ込められていた母がマギーの顛末を知ったのは、ナタリアのデビュタントの年であった。
次々と起こる厄災に、うっかり親族が漏らしてしまったのだ。
「ジャックが、マギーなんかをヤリ逃げするから・・・」
地味で誠実だと思い込んでいた夫が実はかなりの下種だったと知った母は激怒、隣国に嫁いだ長姉の所へ家出した。
しかし時は風水害の真っ最中で、その対応に追われていた父は事故に遭い、意識不明の重体になった。
慌てて長男のトーマスが当主の座を引き継ぎ、経営に当たったがそれに付け込んだ悪徳金融業者に引っかかり、多額の借款を追う羽目に。
更に迫りくる冷害と病害虫。
踏んだり蹴ったりもここに極まれりで、まさに呪われているとしか言いようがなかった。
知らせを聞いて戻った母の看病と周囲の協力で父は意識を取り戻し、驚異的な回復を遂げた。
回復ついでに母を妊娠させた時には、この親父をどうしてくれようと兄弟で内心こぶしを握ったが。
生れてきたアリスは超絶可愛かった。
天使だ。
なので、全ての災厄は終わったかに見えたのだが。
「ここにきて、これか・・・」
まだ背後でいちゃいちゃ押し問答をしている両親は放置して、義姉と婚約届の写しを見つめる。
「とりあえず・・・。まずは客人を全員、酔い潰させましょうね」
月の女神と讃えられている義姉は深い闇のような笑みを浮かべた。
「今夜は、長い夜になりそうだし」
ダドリー家の女は、強い。
呪いなんかにたやすく屈するほどやわじゃない。
「そうね」
ナタリアは窓の外に視線をやった。
鷹の声が空を駆けていく。
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