第10話
「本、好きなの?」
図書室のカウンターで隣に腰掛けた彼女に持月がそう問いかけると、雑誌のページを捲っていた百瀬は視線を落としたまま「別に」と静かに答えた。
図書委員は当番制で放課後に貸出カウンターの係りを受け持っている。新たに書籍が入荷した際にはそれらを本棚に陳列し、その際に乱れた配列も正す。持月は昔から本に囲まれるのが好きだった。自室にも壁一面に本が並んでおり、インクの匂いや紙の感触は彼の心を落ち着かせた。
つまらなさそうに頬杖をついた百瀬は、ファッション雑誌を眺めている。手隙の際の読書は事前に許可を得ていたが、それでも持月は業務中に娯楽に走ることには少なからず抵抗があった。本棚の前で書籍を眺める生徒や、カーテンに隠れて何やら怪しげな動きを見せるカップルなどはちらほら見られるものの、カウンターにやって来る気配はない。彼は念入りに周囲を確認したのち、ひっそりと文庫本を開いた。
「私ね、君がいるから図書委員にしたの」
唐突に放たれた彼女の発言はおよそ誰に向けた台詞なのか、顔を上げた持月は再び周囲に目を配った。
「どこ見てるの?」
隣を見遣ると、百瀬はまっすぐに彼を見つめていた。
「僕に言ったの?」
「他に誰がいるのよ」
気づけば彼ら二人を除き、図書室に人の姿は見当たらなかった。
彼が言葉を詰まらせていると、「ねぇ。明日の放課後って、暇?」と彼女は尋ねた。「私の部室に来なよ」
「えっと……」
日直当番だったあの日、持月は勢いで彼女の部室を訪れる約束をしたが、いざ誘われると彼の心の中にはまるで怯えにも似た感情が騒ぎ始めていた。通学路での買い食いや無断欠席、遅刻すら今までにしたことのない彼は、百瀬の誘いにどこか不穏な空気を感じ取っていた。
されど好奇心というものは、およそ抑えの効かないものである。未知の分野に対する知識欲にも等しい衝動を胸に抱いた彼は、悩んだ末に結局それを了承した。
「じゃあ、明日の放課後に。待ってるからね」
そう言って口元を緩める百瀬の横顔を眺めた持月があの日の放課後を何気なく思い返していると、図書室の扉が突然音を立てて開け放たれた。
「モモ、カラオケ行くよぅ!」と場違いな大声が室内に響き、見るとそれは休み時間に教室で騒いでいた須藤玲奈とその取り巻きだった。
「えぇ、カラオケ? 良いなぁ!」
百瀬は大袈裟な声でそう答えると、「でも私、委員会が終わるまではここ動けないから、今日は無理かなぁ」と心底残念そうな表情を浮かべた。
「おぉ、可哀想なモモよ!」
「ていうか、拘束時間長すぎぃ」
「それじゃあ、来れそうだったらラインしてねぇ」などと好き勝手に騒ぎ立てる取り巻きの女子に対して彼女は嬉しそうに笑顔を振りまきながら、「うん! 絶対連絡するね」と答えている。
要件が済むと、連中は来た時と同様に嵐のごとく勢いでその場を立ち去ったが、終始無言で彼女を眺めていた須藤玲奈だけは、どこか不満そうな顔で図書室を後にした。
「仲、良いんだね」
静まり返った室内で持月がそう言うと、彼女は雑誌に視線を戻しながら「別に」と冷ややかな声で答えた。その後に続けて、「あんなの、友達じゃないし」と彼女が呟いた言葉は、持月の耳には届いていないようだった。
「なぁ、薫。今日帰りにお前んち寄ってもいいか?」
「えっ……。ど、どうして?」
翌日の放課後、教室からこっそり抜け出そうと思ったところへ嶋田に声を掛けられた持月は、動揺して声が上擦っていた。
「何驚いてんだ?」と嶋田は首を傾げつつ、「休憩時間の暇つぶし用にさ、漫画貸してもらいたんだよ」
「あぁ、バイトの?」と答えた持月は、いつもの調子でつい了承しかけたが、咄嗟に思い直して首を振った。
「何か用事あんの?」
「あ、うん、そう! 図書委員の件で藤井先生に呼ばれてて……」
あからさまに怪しげな様子で答えた持月だったが、嶋田は一切疑う様子もなく、「なら、しょうがねぇか。また今度にするわ」と言った。
「じゃあ、僕はこれで」
教室を出た持月が足早に階段を降りようとすると、背後から嶋田に肩を掴まれ、「図書室に行くんじゃねーの?」と尋ねられた。図書室は彼の教室のすぐ真上にあった。
「はっ、えっと、とりあえず職員室に来るようにって、藤井先生が」
持月が咄嗟にそう答えると、「はぁ? どうせ図書室に用があるんだろ? また何か運ばせる気だぜ、あいつ!」と嶋田は怒りを顕にして言った。
「まぁ、僕は慣れてるから」
下駄箱まで嶋田と階段を降りた持月は、どうにも良心が痛んだ。革靴を放り投げる友人の姿を見ながら、彼は俯いて手を揉んでいる。その仕草に気づいた嶋田はふっと短いため息を漏らすと、「別に薫のせいじゃないだろ。図書委員に推薦したのも俺だし」とあっさりした口調で言った。
「……うん」
「でもさ、いつまでも良いように使われてちゃ駄目だぞ」と続けて持月の肩を叩いた彼は、下駄箱から外に向けて駆け出した。「――じゃあな!」
嶋田を見送った持月は重たい足取りで階段を上り、写真部の部室の扉をノックしたが、応答はない。ドアノブを握ると鍵は掛かっておらず、そっと開いて中を覗くと、足を組んでパイプ椅子に腰掛けていた百瀬が手に持った携帯電話からちらりと顔を上げた。
「遅かったね」
素っ気なくそう呟いた彼女の表情は、教室に居る時に比べどこか大人びているように感じられたが、どこがどう変わったのか持月には分からなかった。「来ないのかと思った」
「えっと、色々あって……」
「どうせ嶋田くんでしょ」と冷めた声で答えると、百瀬は携帯電話に視線を戻した。
「どうして分かるの?」
「いつも一緒に帰ってるじゃない。持月くんって、嶋田くん以外の人と話さないよね」
「苦手なんだ、自分から話しかけるの」と俯きながら持月が答えると、彼女はあくまでも興味なさげに「ふうん」と頷いている。
持月は落ち着き払った様子の彼女を眺め、「何だか、クラスで見る時と雰囲気違うよね」と言った。
それを聞いた百瀬は僅かに口元を緩めると、「そんなにいつも、私のこと見てるの?」と彼に視線を遣った。
続いてそばに置いた鞄から例の仮面を取り出した彼女は、「人前ではこういうのを被ってるし」と言って顔の前に半分だけ翳してみせた。
「誰だってそうでしょ」
白い仮面を被った彼女の漂わす妖しげな気配に、持月は思わず息を飲んだ。
「ねぇ、これ見て」
机の上に仮面を放り投げた百瀬は、携帯電話の液晶を彼の方に向けた。ずり落ちた眼鏡の位置を正した持月が目を細めてそれを覗き込むと、画面には仮面を被った制服姿の少女が映っていた。
先ほど仮面を翳した彼女とは違い、ウェーブがかった長い髪をしたその少女は、仮面の奥からねっとりした視線をカメラに送りながら太股の辺りに手を遣り、今にもスカートの裾を捲り上げようとしていた。
「ちょ、ちょっと!」持月は目元を手で覆いながら顔を背け、その場から一歩退いた。
彼女は携帯電話も机の上に投げ捨てると、「私ね、SNSの裏アカウントにこういう動画アップしてるの」と言った。
「どうして、こんな……」
顔を歪めた持月は不信感を露わにしたが、「そんなの、面白いからだよ」と飄々とした表情で答えた彼女は上目遣いに彼を眺めると、僅かに股を開きながら自身のスカートを捲り、黒いストッキングの太腿辺りに着けたガーターベルトを覗かせた。
「男子って、こういうの好きでしょ?」
「ぼ、僕のことからかってるんだろ!」
赤面しながら声を荒げた持月は、急いで部屋から逃げ出そうと思った。
「ふふ。そうかもね」と背後から彼に声を掛けた百瀬は、不敵な笑みを浮かべて立ち上がり、「でも、君のことは信用できると思ったから、きちんと打ち明けることにしたんだよ」と言った。
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