第11話
信用……。
その言葉にふと足を止めた持月は、ゆっくりと後ろを振り返った。百瀬はそんな彼のもとに一歩、二歩とじわじわ近寄り、「君は自分のために、誰かを傷つけたことはない? 例えば保身のため、利益のため、または誰かを守るためとかさ」
「ぼ、僕は誰かを傷つけたことなんて……」と自信なさげに答えた持月は、壁際に沿って彼女から離れ、「それより、あれはいけない行為だよ! 校内でその、下着姿を撮影して……。ましてやSNSに投稿するなん――」
「非道徳なのは誰にとって? 君? それとも、世間?」
彼の言葉を遮った百瀬は口元に笑みを浮かべたまま、「個々によって価値基準の差は生まれるものだし、だったら、道徳のニュアンスだって変わって来るんじゃない?」
「で、でも、常識的に考えておかしいよ」
「その常識は誰が作ったの? 君はそれを誰のために守っているの?」
彼女は机の上に放り投げた仮面を掴むと、「私ね、決まり事ってある程度の指標に過ぎないと思ってるの」とそれを眺めながら言った。
「もちろん、簡単に犯して良いものだとは言ってない。ただね、正しいことをすれば救われるものでもないと思う。正直に生きて、それで世の中の汚い欲望の渦に飲まれて自分だけが馬鹿を見るのは嫌なの」
「だからって、決まりを破っていい理由にはならないよ」
そんな持月の反論を聞いた百瀬は、「例えば<欲>は、誰しもが抱く感情でしょ?」と澄ました顔で答えた。「何かを通したいと思う感情そのものが欲と呼べる。赤ん坊が泣くのも、あなたが常識を守りたいと思う感情だってそう。私欲が罪だと言うのなら、この世界に罪のない人間なんていないと思わない?」
「そ、そんなの屁理屈だ! 間違いは間違いなんだよ」と彼は早口に述べたが、彼女は窓際の方に向かって歩きながら、「ねぇ、お昼の売店でパンを買ったことってある?」と尋ねた。
「え? ……ある、けど」
「チャイムが鳴り始めた途端、みんな我先に買い求めて廊下を駆け出すでしょ? あれは自分のため? 大体はそうだよね。でもひょっとしたら、誰かのために買いに行く人もいるかもしれない」
彼女の言わんとするところが今ひとつ理解できず、持月は首を傾げながら「それが、どうしたっていうの?」と思わず尋ねていた。
彼の反応に笑みをこぼした百瀬は、「それって、ひと括りに欲と呼べるものじゃない?」と答えた。
「自分の欲しいものが手に入れば、他人がそれを買えなくても良いと人は平気で考えている。でも私は、それを悪いことだとは思わないの。だって自然なことだから。誰かのために手に入れることは、他人の取り分を奪うこと。オブラートに包んで他人に何かを伝えることは、他人を騙すこと。いくら言い方を取り繕っても結局は同じことなの。保身のために嘘をついて、人を騙して、出し抜いて、それでも自らの欲望を叶えたい。それってとても、人間らしいことだと思わない?」
「人間らしい?」
「そう。人間はエゴの塊だから」
百瀬は彼の方に再びゆっくりと歩み寄った。
「正直に言うとね、私は男に好かれたいの。目立ちたいって気持ちもある。普段の地味で目立たない自分からは到底想像できないような人物になりきって、チヤホヤされたい。だって、画面越しの男は私に夢中なんだもん。そりゃ気分は良いよ」
彼女はまたも手に持った仮面を顔の前に半分だけ翳し、「私がこれで顔を出さないからこそ、みんなは欲望に素直になれる。だからこのお遊びは、上手く成り立っているの」
「お遊びって……」
「そうでしょ? 無邪気に動画を観ている男どもにとってはね」
そう答えてひと呼吸置いた彼女は、「でも、私は本気だから」と言った。「人に知られたら大変なことになるのを分かってやってるの。時々苦痛に感じる瞬間だってあるけど、それでもこの歪んだ憂さ晴らしを真剣に続けてる。どうしてだと思う?」
どうして……。
壁際に背中を押し付けていた持月は、気づけば先ほど彼女が腰かけていた椅子の前まで歩み出ていた。彼女の答えが気になり、堪らず前のめりになっている。「どうしてなの?」
仮面を翳してその場を歩き回る彼女は、興味津々に次の言葉を待つ持月を横目に「いざやってみたらね、意外と新鮮だったのよ」とあっさりとした口調で答えた。
「正直、薄荷キャンディを初めて食べた時みたいな違和感はあったけど、しばらくするとそれも慣れちゃった。何だか心の中をスーッと風が通り抜けるみたいな気分で、悪くないかなって。初めは制服姿のままポーズを決めたり、胸を触ってみたりとかそんな程度だったのよ?」
百瀬は胸をまさぐるような仕草を見せると、仮面から顔を覗かせた。
「それだけで胸がスッとしたし、視聴者の反応とか男どものコメントにも満足できた。でもね」とそこで一度言葉を切った彼女は、ニヤついた顔で持月を見つめ、「すぐに物足りなくなっちゃったの」と言った。
「背徳的な行為の後ろめたさやスリルが段々病みつきになって、もっと過激に、もっと色っぽく、そんな視聴者の要望に応えるうち、私の行動はエスカレートし続けてる」
「そんな理由で……」
持月がそう呟くと、足を止めた彼女は仮面を胸に押し当てながら、「君に見つかった時は、本当に焦ったんだよ」と俯いて言った。
「誰かに言いふらすんじゃないかって、内心ではすごく怖かった。でもね、それも同じ。時間が経てば麻痺しちゃうの。一定のラインを超えると、どうにでもなれって気持ちになれた。さっぱりした顔で挨拶もしてたでしょ? それからしばらくは、黙って君のことを観察していたの」
「えっ」
百瀬の放った言葉は、彼をひどく困惑させた。持月は陰ながら教室での彼女を観察し、その本質はどのようなものかと思案していたつもりだったが、まさかそんな自分自身を逆に彼女が観察していたとは思いもよらず、額の辺りに冷や汗が滲むのを感じた。
彼女は困惑する持月の方へ歩み寄ると、「もし君が話すとしたら、きっと嶋田くん以外にはありえないってすぐに分かったけど、誰にも言わないでくれたみたいだね」と微笑みながら言った。
「私たちのことばっかり見てたのも気づいてたよ。他の子が視線に気づかないかって少し心配だったけど、玲奈ちゃんを見てる男の子は多いから」
「ちがっ! それは……」
「何が違うの?」
彼女の見えない勢いに気圧された持月は、背後のパイプ椅子に腰を落とした。百瀬はそのまま前かがみになり、彼の顔を覗き込む。
間近に迫った彼女の瞳に、今にも吸い込まれそうだった。
「興味があるんでしょ」
「そ、そんなこと……」
彼女は化粧をしていた。頬は赤みを帯び、発色の良い唇は潤い、まっすぐに彼を見つめる瞳は色素の薄い琥珀色だった。瞼の上はほんのりと紫色に彩られ、光の反射によって時おりそれが宝石のように煌びやかな輝きを放っている。
「日直当番のあの日、正直ちょっぴり怖かったの。二人きりの時に私があの話を持ち掛けたら、君は待ってましたとばかりに豹変しちゃうんじゃないかって。脅されたらどうしようとかね。でも君は、あの話を始めても全然変わらなかった。どうして逃げ腰だったのかな」
舐めつけるように見下ろす彼女は、艶めいた笑みを浮かべながらゴムで縛った後ろ髪を解いた。その拍子に首筋から甘く芳醇な香りが漂うと、彼の思考は完全に麻痺した。目を逸らすことが叶わず、瞬きすら忘れるほど彼女を一心に見つめていた。まるで、あの時と同じように。
「私の共犯者になってくれる?」
細くしなやかな指先で彼の手に触れながら、彼女は耳元にそっと囁いた。
「共犯者……」
その言葉は彼にとって、悲しいほどに興味をそそられるものだった。
ひどく不穏で、胸のざわつく響きが含まれている。今すぐにその場を去るべきだと心は警鐘を鳴らしている。しかしながら持月は、その言葉の甘い響きに恍惚として聴き入った。彼の中にはすでに、抗いようのない好奇心が芽生え始めていた。
何時しか足元には一本の境界線が引かれ、その先には楽園か、それともただの闇か。あちら側にどっぷりと浸かりながら、まるで果実のように魅惑的な表情を浮かべる彼女の姿が奇妙に輝いて映った。
「何を、……するの?」
思わずあちら側へと一歩足を踏み出した彼は、光で覆われた何かに向けて手を伸ばし始めた。
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