第九章

第18話

 休み時間になると座席で文庫本を開き、こっそりと彼女を眺める。持月にとってはそれが日々のルーティンと化していた。


 彼以外の前に立つ百瀬は何者かが憑依したように人格が変わり、集団において誰にも憎まれず、かつ無害な人柄を演じている。須藤玲奈の取り巻きからは終始馬鹿にされ、ややお調子者といった立ち位置だが、持月と二人きりになった途端に彼女はこの上なく落ち着き払った姿を見せ、冷笑的な冗談も数多く口にした。


 どちらが彼女の本性であるのか、今では一目瞭然だった。そのせいか持月は公の場で一度だけヘマを犯したことがあり、そのことで彼女に責め立てられた経験がある。


「持月君って、他人に興味のないふりして油断の出来ない人よね」


 図書室の利用者が一人残らず立ち去った瞬間を見計らい、百瀬は意地悪な視線を彼に送った。今ではすっかり彼に対して本音を隠さなくなった彼女の自然体は、思いのほか攻撃的である。


「でも、事実じゃないか。百瀬には忙しい時専用の笑顔があるだろ?」


 百瀬は他人を相手にするのが面倒な場合、または自身のことで頭がいっぱいになった時には振る舞いが少々雑になる。先日行われた調理実習で持月が偶然同じ班になった際、間近で会話を聞くうちに気づいたことだった。


 てきぱきと実習をこなし、普段はお調子者を演じる彼女もそのパフォーマンスを際限なく発揮できるわけではない。


 いくつもの作業を同時にこなしながら器用に愛敬を振りまき、調理も佳境へ突入した頃合いに周囲の女生徒から冗談を振られた百瀬は、(ほんの刹那のことではあったが)白けた表情を浮かべながら皮肉屋の顔をちらりと覗かせた。


 料理が完成して一息ついた時、彼はそのことをみんなの前でつい口にしてしまった。


「じゃあ事実だからって、太った人にはデブって言っていいの? 足の短い人には短足、遅い人には鈍足、君のような鈍い人には鈍感だなんてフィルターも掛けずに言っちゃっていいの? ケチな人は守銭奴、頭の良くない人は馬鹿なんて呼ばれて、ブスな子には面と向かって――」


「あぁ、もう。僕が悪かったよ」


 持月が一言述べると、それに対して彼女は三倍ほどの言葉を用いて報復を試みる。そういうところもまた、徹底していた。


「私の地位を貶めたいのかと思った」


「そんな大層な言い方しなくても」


「だって、あの班には須藤玲奈もいるんだよ? あの子に睨まれたら大変なことになるんだから。それくらい分かるよね?」


 そんな彼女の警戒心をよそに、彼が漏らした言葉に注視する者は誰一人としていなかった。百瀬が咄嗟に上手く誤魔化したこともあるが、そもそも彼女が本性を隠しながら周囲に気を配っていることすら誰も気づいていない。


 百瀬という子は自らの属性を明確に定め、誰にも決して本性を悟られまいと徹底的にその役柄を演じている。持月にはそれがどうにも痛々しく、儚げに思えた。


 表裏の使い分け(とりわけ、女同士の紆余曲折した意思の疎通や、その裏に隠された覇権争い)に免疫のない彼にとって、彼女の表向きの顔にはどうも好感を抱けなかった。


「持月くんには、……分かりっこないのよ」


 時おり意味深な発言と共に悲痛な表情を浮かべ、ため息を漏らす百瀬が彼は苦手だった。とてつもない重荷を抱えているような、そんな悲劇的な雰囲気を醸し出す彼女に掛けてやるべき言葉が何一つ浮かんでこなかったからだ。


 それでも彼女は、しばらくするとけろっとした顔で再びファッション雑誌を捲り始める。実に女という生き物は、当時の持月にとって理解しがたい存在だった。


「何読んでるの?」という具合に、時間を置くと百瀬は親しげな声で彼に話しかけた。


 持月は読んでいた文庫本を閉じ、「浴室っていう本だよ」と答えた。


「お風呂ってこと? どんな内容なの?」


「浴室に篭った男が一度は外に出るけど、また浴室に逆戻りする話」


「なにそれ。変な話。篭るならもう少し広い所で過ごせば良いのにね」


「……うん」


 問題はそこかと内心で疑問に思ったが、報復を恐れた持月は何も指摘しなかった。


「あ、ここ素敵。見て」と言いながら百瀬が見せたのは、とある寺院の特集ページだった。


「ハート型の窓だって。めっちゃ映えそう」


「あぁ。ここなら僕、前に行ったことあるよ」


 持月がそう答えると、彼女は目を丸くしながら「うそ? 誰と?」と興味津々に尋ねた。


「一人だけど」


「こんな所に男ひとりで行ったの? ちょっとイタくない?」


「いいだろ、別に。好きなんだから」


 持月がつい感情的になってそう答えると、彼女は珍しく間の抜けた表情を浮かべながら彼を見つめていた。


 ほどなくして「持月くん」と改まった声で百瀬に呼ばれ、またも言葉による報復を受けるのかと肩を強ばらせた彼は、「……はい」と答えた。


「今度、デートしよっか」


「えっ?」


 意表を突く台詞に動揺した持月は、「どうして?」と頭では尋ねようとしていたものの、何故だか「どこへ?」と口にしていた。


「そりゃ、お寺巡りでしょ」


 彼女は雑誌のページをトントン指差し、「私もね、実はお寺とか神社とかを巡るのが好きなの。綺麗な風景を撮影したくて、時々カメラを片手に一人でお出かけしたりするんだから」


「へぇ、写真が趣味なんだね」


 持月が何気なくそう言うと、彼女は目を細めてじっとり彼を睨みつけ、「一応これでも写真部の部長なんですけど」と答えた。けれどもすぐに親しげな表情へ戻し、「カメラもね、前のお父さんから貰った古いやつ使ってるの。ピントは合わせにくいし、フィルムの現像は面倒だしで正直使いづらいんだけど、何となく新しいのを買う気がしなくて」


「……そう、なんだ」

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