進め、軟体生物
井ノ中蛙
第1話 地を這うちっぽけなもの
ーーあー、お腹減った……
ズルズルと地を這うように進む小さなスライムがいた。
深い森のおくのおく、珍妙な姿をした生き物が跋扈する世界。
半透明なイカの見た目をしたものが宙に浮いているかと思えば、三葉虫のような生き物がシャカシャカと高速で横切っていく。
その中で言うなら、スライムはおとなしい部類と言えなくもない。
ーーーんっ!?
私は、魅惑的な臭いが風に含まれているのに気づいた。
この甘い臭いは一体何だろう。
一転して進む向きを変える小さなスライム。
ズリズリと遅いながらも移動し続け、着いた先は木が切り倒され、少しだけ開けた場所だった。
そしてそこに、人影が見えた。
ーーーわっ! 人だ! 人がいる!
慌てて木の影に体を隠して、様子を伺う。
人間は武装して見えた。
その数、4人。
3人は男らしく、ひとりの女も混じっている。
いい匂いは、その女のものだと分かった。
「ρωζ∏≧∝⊕△ντ……」
「⊄⊄δπ∈∝ψ∅√√∂ 」
彼らは何か会話しているようだけど、その言葉はまるで分からない。
その身なりや振る舞いから、ある程度の文明を持つと推察はできる。
しかし、それ以上は何も分からなかった。
人がいると言う事が分かっただけでも大収穫と言える。
しばらく、彼らの様子を見て過ごした。
半透明な体に髪などないが、小さなスライムは後ろ髪惹かれる思いで、その場を後にした。
ーーー人になりたかったな……
この世界に生まれ落ちて、初めて人の姿を見た。
とても進んだ文明社会の出身には見えなかったが、それでも人には憧れがあった。
どういう訳か私には、前世の記憶があった。
前世は人だった。
スライムとして生きて行くのに、なんの役にも立たない記憶だと思っていたが、人を見て初めて懐かしさで胸が焦がれる思いになった。
"この体も悪くない"
はじめはそう思っていた。
まず、食事に苦労しない。
そこいらじゅうに生えている草でも、落ちてる葉っぱでも食べられた。
腹いっぱいにはならないけれど、酷い空腹感に苛まれる事もなかった。
そして、何より排泄がない。
まだ生き物を食べた事はないが、葉っぱや草をいくら食べても排泄したくなるようなことはなかった。
強さで言ったら、極めて貧弱。
だからだろうか、身を守る術には長けていた。
他のスライムは体を透明近くにまでする事が出来たが、私は更にその上を行く。
地面なら地面のような見た目に体を変えられた。
なぜそんな事が出来るのか、理由は分からない。
そもそも自分がスライムだと認識できたのは他のスライムを見たときだった。
母親から産み落とされ、育てて貰えたなら、そんな事はないと思う。
しかし、私は意識が覚醒した時から独りだった。
手もない足もない。
はじめは自分が何なのか、見当すらつかないでいた。
目は見えた。
音も聞けた。
臭いも分かる。
鏡でもあれば、ひと目で分かるだろうけど、こんな森の中に、そんな文明の利器などあろうはずもなく。
酷く低くて地上すれすれの視点。
自分の体を見ようとすると、まるで水の中に入ったように視界が滲んだ。
真上を見ない限り常に視界の下の方は滲んで見えたのは、それが自分の体だからだと薄々勘づいていた。
他のスライムを見て分かった。
スライムには体内に "核" かある。
その核が視覚、聴覚、嗅覚、を担っているのだろう。
他に感覚器官を見つける事など出来なかったから。
声は出せない。
呼吸もしてないし、発声器官もない。
文字も持たないから意志の疎通は無理だと思われた。
他のスライムを観察すると、ただ本能的に動いているだけのように見えるから、ゾウリムシやミジンコのような原始的な生き物なのかもしれない。
意思を持っている私の方が変異種なのかもと思ったり。
覚醒して数日は他のスライムの真似をして木の幹や草の影に身を隠して過ごした。
近くにあった葉を食べてみたら、意外に無害そうだったので、それで空腹を誤魔化した。
他のスライムの食事は虫や小動物らしくて、それはさすがに真似出来なかった。
代わりに木の実を見つけてみたり、ゆっくりとではあるものの木も登れたので、枝の上に食べ物になりそうなものを探したりして過ごした。
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