第88話
声を潜めれば周囲の者には聴こえない程度の距離。この"獣"を相手に令嬢ぶる必要はあるまい。
およそ自然界に存在するとは思えない青色をした瞳が
「最初にはっきりさせておきたいのは、私は今すぐにでも貴方を殺せるって事。それに分かってると思うけど、このままだと貴方は毒で死ぬ」
眼から光線でも出せるなら話は別だが、流石にこの体勢から狙われて反応出来ない私ではない。荒い呼吸が静かになったのは私を認識したからというだけの理由ではなく、それが途切れ始めた事を意味していた。果たして毒で殺しきれるものかと考えていたが、這い寄る死の気配は近付けばすぐに感じ取れる。
語りかけながら"獣"を改めて観察すると、巨体以外で尋常の生物とは異なる点がすぐに分かった。
生殖器が無い。欠損したのではなく、恐らく生まれつき存在していない。この"獣"に感じたどうしようもない孤独、その一因はこれか。つまり何らかの要因で生まれた突然変異種の可能性が非常に高い。どうあれ生物として生まれたのなら母体が必要だが、母体に生殖器官が無くては生まれようが無いのだから。そして目の前で息も絶え絶えに倒れ伏す存在は紛れも無く生物だ。
「ところで、どうして同じ毒を受けた筈の私がこうして平気な顔をしているか分かる? これだよ」
私への臣従を誓ったアレンから回収しておいた解毒薬。彼女が予め作っておいた最後の一服を"獣"に見せる。青い瞳に負けず劣らず不自然なほど黒いその丸薬が何なのかはすぐに理解したようだ。
「ねぇ、貴方……食べられるのは肉だけじゃないよね? 黒い獣達と違って」
これはミシェルが資料から読み取り、キシュアが現場の状況を観察して分かった事。
シャストルで栽培されている茶葉と、生活に必要な農作物。それらの畑で襲撃を受けた事例は数多く報告されていたのだが、奇妙な事に人的被害のみの場合と、茶葉や野菜が食われた場合とがあった。まるで人間を食った後の口直しかのように。
そういった二次的な被害があった現場から白い体毛を見付けて来たのが、別の調査を任せていたキシュアである。私とて2種類の獣の存在をこの目で見ていなければ単なる偶然と片付けていただろう。
「そんなに憎い? 私達人間が。大勢で手を取り合って笑う存在が許せない?」
山や崖下の森には動植物が豊富に存在している。生命が溢れる季節にはまだ早いが、武装して抵抗するようになった人間をわざわざ襲う理由が無い。この"獣"は並外れて賢いのだ、それこそ人間並に。もっと大きく狩り易い対象を探す選択肢を採れたはず。
孤独は死に至る病の1つだ。困った事に知能が高いほどその病に侵され易い。やがて孤独は他者への憎悪に変わり、危険因子として社会からの排除という結末を迎える。時には速やかな死を以て。
「私はクロエを愛して、求める為に行動するだけで良い。もちろん手に入れる為に動くけど、目的じゃない。どうしてこんな話をすると思う?」
手に持った丸薬を差し出す。横たわったままでは口にする事は出来ず、手から落ちても口には入らない位置で。どうすれば自らの生命を繋げるのかは通常の獣でも理解出来るだろう。
「
青い瞳を持つ眼が見開かれる。選択肢はほぼ1つだったに違いない。この"獣"に生物として残された唯一の、それでも生きたいという本能があったから。
痙攣する前脚がゆっくりと、毛虫が這うような緩慢さで地面を踏みしめる。上体を起こしたら今度は後脚……を伸ばそうとして失敗し、再び身体を起こす。それだけで意思を示したようなものだが、私は待った。周囲の者達を納得させなければいけないからだ。多くの者の目に、"シャストルの獣"が私に屈服し、許しを乞うたと印象付けなければいけないからだ。
震えながら、4つの脚でどうにか大地を踏み締める"獣"が私を見下ろしている。少し前までそれだけで生命の危機を感じたものだが、もう誰も私に逃げろと言わない。
「お行儀が悪いわよ。私に飼われるつもりがあるのなら"お座り"くらい出来なくてはね」
そのまま手の中の丸薬を飲もうと近付けられる鼻先を軽く叩いて、最初の躾を行った。この世界で飼い犬の類を見た事が無かったのでそういった概念があるのかは分からなかったが、意図が伝わったのか"獣"は前世の記憶にあるような尻を地面に着ける体勢に落ち着く。
「よく出来ました。さぁ、飲みなさい。小さいけれど効くそうよ」
私が飲んだ丸薬の大きさは知らないので比べようも無いが、アレンが言うのなら間違いなかろう。ざらりとした感触の舌が手の平をなぞり、丸薬を絡め取っていく。巨体に比べてあまりに小さなそれを嚥下して、"獣"は再び私を見た。
「もう"獣"なんて呼び方は出来ないわね、名前を付けてあげましょう。考える間、静かに待っていなさい」
"獣"の全身の毛が、引っ張られるように逆立つ。やはり私の時と同じく副作用が起きるようだ。双眸が限界まで見開かれ、前足は大地を抉らんばかりに踏み締められる。小刻みな呼吸に時折混じる唸り声、きっと今すぐ声を上げたいだろうに。
それでも"獣"は耐えた。私などは無様にのたうち回るしか出来なかったその痛苦を堪えるだけの、人間よりも遥かに強靭な忍耐を持っている証拠だ。
と、ここで私には起こらなかった変化が始まる。"獣"の全身から湯気のような白い気体が立ち上り始めたのだ。
「堪えなさい。貴方の在り方を変える為に必要な苦しみよ」
と言ってはみたものの、この現象がどういった変化をもたらすのかは皆目見当もつかない。だが、どうやら私にとって悪い方向には進まないようだとすぐに分かった。
白煙に包まれた身体が、見上げて尚余りある巨体がみるみるうちに縮んでいく。どういう理屈かさっぱり分からないが、骨格や内臓もそれに合わせて縮んでいるらしい。それでも"獣"は重苦しい唸り声を上げるだけで耐える。再びその姿を目にした時には、馬ほどの体長にまで縮んでいるではないか。それでも大きい部類ではあるのだが、こうして座っていると、立っている私と目線が合う程度には小さくなった。
「後で首輪を着けてあげなくてはね。けれど……あぁ、特注になるのかしら」
まだ荒い吐息を漏らす口元から下、首の辺りを撫でて微笑んでやる。頭を撫でて欲しいのか、あるいは平伏を示しているのか、"獣"は静かに首を垂れた。
「首輪に彫る名前は決まったわ。私がその名を呼ぶのが聴こえたら、すぐに来て私に傅くのよ」
大きな耳に顔を近付けて告げる。この地で得たもう1つの手駒の名を。
「"ヴァルコ"。それが貴方の新たな名前」
小さく唸った"獣"……否、ヴァルコの頭をもう一度撫でてやると、限界を迎えたのか支えを失ったように崩れ落ちた。意識を失っただけで息はあるのを確認して踵を返し、固唾を飲んでなりゆきを見守っていた一同へ向けて声を張り上げる。
「この通り"シャストルの獣"は私に屈服しました!! 此度の異変を調査する為にも生かして連れ帰り、公爵家の管理下に置く事とします!」
ざわめきが走り、しかしすぐに収まった。フィッシャーとの問答のおかげでヴァルコに対する憐憫の情が湧いていたのだろう。身体が縮むという、分かり易い脅威度の低下もそれに拍車をかけたに違いない。
「無事トゥールーズ領へ帰還するまで気は抜けませんが、ひとまずご苦労様でした。小休止して村へ戻ります」
被害の拡大を阻止するという点では、討伐隊の役目は果たされた。後は村人と王国軍、そして父への説明が残っているがそれは私の仕事。安堵した表情で休息する騎士隊を弛んでいると責める事はするまい。
一層険しい顔で姿を消したフィッシャーの動向をこそ、私は気に掛けねらばならないのだから。
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