第87話 凶つ獣達の名は
意識が戻るのは存外に早かった。何度も気を失った成果なのだとしたら、次は簡単に気を失わない身体になってほしい。何故時間がそれほど経過していないのが分かったのかと言えば、
気絶する程の痛苦から目覚めると、身体中に汗を掻いているのを自覚する。口元に残る妙な感触と、口の中に残る苦味に比べれば大した不快感ではなかったが。
「……どうかしてる、エヴァ様は。どうするつもりだったの? わたしが解毒薬を持っていなかったら」
起き上がって始めに目に入ったのは眉根を寄せたアレンの顔。私の策は彼女にも伝えていなかったのでさぞ驚いた事だろう。
「けほっ、持っていない筈が無いわ、貴女は優秀な狩人だもの。だけどそうね……少し捨て身が過ぎたかもしれないわ。本当は包囲した毒矢で倒すつもりだったのよ」
「任せれば良かった、槍の人に。エヴァ様が無理をする必要は無かったはず」
展開は目論見通りに進んだ。そろそろ私の本音を伝えてもよかろう。いや、既に本音は伝えているので再交渉といったところか。
「貴女に手柄を分けたかったの、アレン。今度は真剣に訊ねます、
それを決める権限など持っていないが、父との約束という切り札がある。護衛ないしは武術教室の生徒として面倒を見るのがいいだろうか。
「…………どうして、わたしを? 狩りしか能がない、わたしなんて。苦手だし、他人と話すのも」
人付き合いを苦手とする孤独な狩人は、しかして孤高ではない。馴れ合いを好まないのも偽りの無い本音だろうが、それでも他者と繋がりたがっている。相反する性質に苦しむ姿はとても人間らしい。表情以上に、彷徨う視線と、僅かに紅潮する頬が彼女の逡巡を示している。
「あら、私とこうしてお話ししてくれているじゃない。それに貴女の弓の腕は無二のものだわ、それしかないだなんて卑下するのは悲しい事よ。どうかその力で私を守って欲しいの。立場柄、遠間から命を狙われた事もある。貴女のような人材が居てくれたらといつも思っていたのよ」
天涯孤独の身の上で、村に馴染む事も出来ない多感な少女だ。初対面から好意を向けてくる相手の言葉は無視出来ない。寝食と危険を共にして信頼も築いた。そんな相手が、自らに非は無いとはいえ、自らが作った毒で死にかけた事は大きな動揺を招いた事だろう。
「い……言った、はず、わたしはそんな人間じゃ」
「アレン、貴女は自分が思うより優しい人だわ。シャストルへ赴いて既に二度……いえ三度、貴女に生命を救われた。狩人としてしか生きられないというのなら、私を脅かす者を狩って欲しい。でないと私は、またこんな無茶をするかもしれないわ。貴女にとって居心地の良い距離で構わないの、共に居てはくれないかしら」
私は今、穏やかながらも真剣な眼差しをアレンへと向けられているだろうか。答えは揺れる彼女の瞳に映っていたが、どうにも判別が難しい。しかし、二の句が継げないのを見るに効果は敵面のようだ。冷たく震える両の手を取って畳み掛ける。
「もう孤独である必要は無いのよ。私の生命を預かって、アレン」
震えが収まるのと同時に、手の甲に柔らかな感触。生温い湿り気でそれがアレンの舌先だと気付いた。臣従の証にはやや歪だが、彼女なりの返答なのだろうか。
「……報酬はもらう、わたしは狩人だから」
「もちろんよ。トゥールーズ家の紋章に誓うわ」
その程度、公爵家であれば造作も無い。働きに見合う報酬であれば父に払わせてみせよう。見合わなければ己の見る目の無さを恥じながら始末をつけるだけだ。
「エヴァ様の命令しか聞かない、公爵様の家来になる訳じゃないから」
「それで構わないわ。必要と判断すれば私経由で命を下すけれど、私の意に沿わない事は決して命じない」
必要なら死地にでも送るが、死なない限りは有効活用するとしよう。
「契約は死ぬまで、エヴァ様かわたしのどちらかが」
「"死が2人を別つまで"……ね。いいわ、貴女の最期を看取るのは私で、私の骸を埋葬するのは貴女よ、アレン」
私の汚らわしい死体をクロエに触らせる事など出来ようか。そんな役目をお望みなら喜んでくれてやる。クロエに触れる事の出来ない器など好きにすればいい。
指の付け根の辺りを濡らす舌が離れ、僅かに熱が奪われる。同時に離れるアレンの顔から送られる視線が私を捉えた。褐色に一滴の血を混ぜたような瞳から放たれる鏃の如きその視線。あやまたず私の眉間に深々と突き刺さるかのような錯覚に、我知らず首が仰け反った。
「わたしはアレン。貴女の、エヴリーヌ・トゥールーズの狩人。わたしが居る限り、貴女に弓は届かない」
※※※
手駒がまた1つ増えて目的の成就に一歩近付いた私が次にすべきは、"シャストルの獣"の騒動に始末を付ける事。
アレンの手を借り、ふらつきながら"獣"の元へ近寄ると、集まった者の内の数人が言い争っていた。どうやら"獣"の処分について揉めているらしい。始めはカミラが私に獲物を横取りされて激怒しているものと思ったが、どうやら違う。周囲の意見に異を唱えているのは意外にもアルフレッドだった。横取りとはいえ私が毒で決定打を喰らわせた"獣"に、アルフレッドは問答無用でとどめを刺そうとしている。私の意識がいつ戻るのか分からない以上迅速な判断ではあるが、拙速とも言える。
討伐隊と銘打った以上は対象を滅ぼすのが役目だ。しかし、死体からでは得られない情報もある。この"獣"の生態も分からぬ内に殺してしまう事は、イァロの手掛かりをみすみす手放す事にもなりかねない。
「そうね、問答は必要無いわ。私の判断は決まっているのですもの」
父・レーモン公以上に起伏に乏しい顔のアルフレッドはしかし、構えた双剣で己が意志を雄弁に語っている。そんな彼の背に向けて、出来るだけはっきりと言い放つ。
「エヴァ様……! お身体はもうよろしいのですか?」
振り向いたアルフレッドの顔に変化は無いが、"獣"に意識を向けたままの剣先が僅かに下がったのを私は確かに見た。張り詰めた空気も少しは抜けただろうか。アレンに身体を支えられたままでは頼りなく見えるかと、彼女に目配せして自らの足で立つ事にする。
「彼女……アレンが持っていた解毒薬のおかけで命を拾ったわ。私を信じて欲しいと言ったでしょう?」
「それは……」
「エヴァ様がお目覚めになったのなら話は早い! 今なら討ち取る事も容易いでしょう、いかがなさいますか?!」
いつもは喧しいディンの声も、益体も無い会話を断ち切るのには役に立つ。今すべきは様子のおかしいアルフレッドへの対処ではなく、荒い吐息で倒れ伏す"獣"をどうするかだ。
「その通りだわ。先ほども言ったように判断は決まっているのよ。少し"獣"と2人に……いえ、1人と1匹にしてほしいの」
「何を仰せなのですかエヴァ様?! 血に飢えた忌まわしい"獣"は即刻首を刎ねるべきです!!」
人垣を掻き分け、剣を杖のようにして進み出たのは騎士隊のフィッシャー。今まで姿を目にしていなかったので、てっきり村に残ったものと思っていたが。
「……貴方も居たのね、フィッシャー。そんな風に叫んでは傷が開いてしまうわ、下がりなさい」
「いいえ、下がりません。どのような形であれ奴を討つのならと口を慎んでおりましたが、どういう事なのですか?! 奴は村人をはじめ騎士隊や狩人まで手に掛けた害獣です!!」
そう来るだろうとは思っていた。もっと言えば想定内の反応が真っ先に飛んで来て助かった。離れた場所に居る者にも伝わるよう、大きな声と大袈裟な身振りであらかじめ用意していた答えを返す。
「そうね、紛れもなく人に仇なす凶獣だわ。けれど! 自然が生み出したモノならば、それを分析して御する事こそ人間の使命だと私は考えます。国父フレイスが身罷られ、遠き彼方からご自身の代わりに我々を導く試練をお与えになっている事は誰もが知る教えです。であれば、短絡的な解決はフレイス様への不敬にあたるのではなくて?」
「そ、それは……」
良い事はフレイスの祝福、悪い事はフレイスの試練。盲目的かもしれないが、それで誰もが日々を迷い無く過ごせるのならそれは真理だ。私にとっては使い勝手が良いだけの教えが騎士達を唸らせるのだから、その影響力には感謝しなくてはならない。
「も……もしも人為的なものであれば、それこそフレイス様が定められた自然の摂理に反する事! それを放置する事こそが不敬ではないのですか?!」
「ならばこの"獣"は悲しき被害者という事になるわね。愚かな人間の手で生き方を曲げられてしまった命を……フレイス様からの賜り物である命を奪ってしまえと貴方は言うのですか、フィッシャー?」
他者を論破する事ほど快感で、無駄な行為が他にあるだろうか。論破すれば議論が終わる。解釈の押し付けに成功した方の意見がまるで正義かのように扱われ、敗者は口を噤まされる。そうして人は最善かもしれなかった結論から遠ざかっていく。更に私は詭弁を並べているだけなので快感すらも感じない。だが私の利益だけを求めるなら話は別だ。
歯軋りをして戦慄いていたフィッシャーは怒りのやり場を失ったのか、手にした剣を抜きかける。口を噤まざるを得なくなった者が次にするのがこれだ。そうして人間からも遠ざかる。
「そうヤケになるもんじゃないよ。その身体じゃアンタ、"獣"どころかお嬢の首だって刎ねられやしない」
剣の柄を槍で押さえ込むカミラは落ち着いた口調だが、目には獲物を横取りされた怒りが沸々と煮えたぎっているのが見て取れた。これは後が恐い。
「それにね、万に一つでもアンタがお嬢に斬りかかろうなんてした日には、その前にアタシ達が八つ裂きにしてやる。機嫌が悪いんだ、耳障りだから黙ってな」
実力と人数の差を理解したのか、あるいは公爵令嬢である私の決定に異を唱える意味が分かる程度の冷静さは残っていたのか、フィッシャーは苦い顔で引き下がる。
「ありがとう、分かってくれて。悪いようにはしないわ」
依然危険な相手には変わりないが、私の言葉で憐憫の情が湧いたのだろうか。"獣"の元へ歩み寄る私を止める者は居なかった。私をよく知る親衛隊候補者達だけは変わらぬ様子で警戒をしていたが。
「また会ったわね、私を覚えているかしら。覚えているでしょう?」
虚空を彷徨っていた視線がこちらを向く。それと同時に、破けた革袋から漏れる空気のような呼吸が静まった。
「……やっぱり覚えてた。それじゃ、話をしよう。残念ながら貴方の言葉は分からないけど」
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