[10章8話-2]:封を開けられる者はひとりだけ
「健ちゃん!」
到着客が出てくるゲートで、茜音はすぐにその人物を見つけて飛びついた。
「茜音ちゃん、元気そうでよかった」
「うん、寂しかったよぉ」
挨拶代わりに、久しぶりのキスをする。空港という公共の場面なので、すぐに離れた茜音は真っ赤になって笑った。
そんな茜音を一目見た健は確信した。お互いに寂しかったけれど、彼女はこの地で確実に成長した。音楽家としても、教育者としても、そして自分の最愛のパートナーとなる女性としても。
研修の日程については、健がこちらに来られることになってから休日を返上して自己研究の部分を前倒した。この最後の週は見学施設もないので、事実上休暇にすることが出来る。
到着も早々に、彼の荷物をあの部屋に置いて、二人デートに出かけた。
昔、茜音の両親もこうして二人で歩いたであろう街を娘である自分が健と歩いているのは不思議な感じもした。
翌日のオペラの予約を取って、レストランでの食事。さすがに2ヶ月もいれば食事のメニューにも困らない。二人分の食事を頼んで、茜音は種明かしをした。
「えー、茜音ちゃんのご両親が暮らしていた部屋なの?」
「うん、まだわたしが産まれる前で、結婚もしていないときだけどね。今のわたしたちと同じ」
そして、この最後の一週間は、二人でその足跡をたどりたいと説明した。
「なるほどねー。そういうことだったんだね」
最初、茜音からのメッセージを受け取ったときは、彼女が寂しさに耐えきれずに助けを求めてきたのかと思った。真相を聞いてみれば真逆だ。両親の過去に対峙して、自分が未来に進むための糧にしようとしていた。
久しぶりに隣に温もりが戻ったベッドで、茜音は健の腕の中から抜けようとしなかった。
「健ちゃん、これって、わたしのことだよねきっと……」
昼間はレッスンに通ったアカデミーの練習室や校内を案内して、夕方は予約していたオペラを見て帰ってきたあとに、茜音は健にそのノートを見せた。
健がまだ寝ているときに、茜音が見つけた日記の項目だった。
「これ、そうだね……。だからだったんだ」
このページが書かれたのは、もう日本に帰国しなければならない時期が迫った頃だろう。
二人が今後受けるであろう困難にも、手を取り合って生きていくとの約束。そして、子育ての夢が書いてあった。
二人とも音楽家として成功することができたが、その裏では多くのものも失った。
音楽は人を悲しませてはいけない。そして、誰かに強要されて始めるものではない。
子どもが生まれたら、その子には音楽を楽しんでもらえる環境を作るだけで、英才教育などは行わない。他の道を進むのであれば、それを応援する。もし、自らが望んで同じ道を選んだときに、そこから始めればよい。
そして、記されていた。
『こんなわたしたちにも、天使が舞い降りますように』
そこで初めて、茜音は日付の横に書かれていた暗号のような数字の意味に気づいた。成実の基礎体温だと。
このまま日本に帰れば離されてしまう運命の二人。そんな別れを何とか回避するため、帰国したときには妊娠中にしてしまいたい。秀一郎が自分の子だと認知すれば、たとえ家から追い出されたとしても、三人で家族を作れる。その試みは本当にギリギリまで続けられたようだ。
「茜音ちゃんは、要らない子じゃないよ。必要としている人がたくさんいたし、今でも変わらないんだよ」
「うん……。そうなのかもしれないね……」
続きのページはなにも書かれていなかった。しかし、最後のページに折り畳まれた便せんが封筒に入って挟まれていた。驚いたことに封は切られていない。きっと日本語で書かれているこれらのノートには入念なチェックも入らなかったのだろう。
「どうしよう……」
「茜音ちゃんしか開けられないと思うよ」
健の言うことが一番正しいと思われる。茜音以上に封を切れる資格を持つ者などいない。
あの学長が知ったとしても、他の人物ではなく、茜音に開封を依頼するであろう。
部屋に備えてあったペーパーナイフを古い封筒の隙間に差し込んで丁寧に封を開けていった。
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