[2章4話-1]:人生初の生演奏
小学校1年生の音楽の授業。年度末に生徒たちは皆の前で歌ったり楽器を演奏することになっていた。
「茜音ちゃんどうする……?」
「うぅ……」
健の問いに茜音は困った顔をしていた。
茜音は事故のショックから言葉が話せない状況が続いていた。
声が全く出せないという状況よりかは少し改善し、声の状況である程度のコンタクトは出来る。
しかし、周囲の子たちからすれば、そこに至った理由などは関係なく、茜音を嘲笑することは続いていた。
そんな状況だから、彼女が当然歌うことは出来ない。楽器の演奏と言っても、1年生では、まだそれほど難しい楽器は想定されていなかった。
「佐々木さんはどうしようかぁ」
先生は二人のところにやってくる。休んでいる子を除いて評価の試験も終わって、残っているのは茜音だけとなった。
「佐々木はしゃべれないもん。歌えないよぉ」
「しゃべれないもんねぇ」
それぞれの番が終わってしまったので、がやがやと騒ぎ出す音楽室。
「どうする、佐々木さんは何か楽器でやってみる?」
そうだとしても、これまであまり練習など出来なかった状況では、とても演奏できるとは先生も思っていない。
とにかく何かをやった上での評価を付けなければならないと思ったときだった。
「うぅ……」
それまで黙って下を向いていた茜音が、突然顔を上げた。
「やってみる? なににしようか?」
先生の問いかけに茜音は、音楽室の前方に置いてあるものを指さした。
「え、ピアノ?」
茜音はこくりと頷く。
「茜音ちゃん、ピアノ弾けるの?」
健も彼女が楽器を演奏するところなど、これまで見たことがない。
茜音はそれには答えずに、ゆっくりと席から立ち上がって前に向かった。
グランドピアノの前に立つと、先生は椅子の高さを調整してくれた。
「これで高さ大丈夫?」
「……ぅん」
小さく頷き、鍵盤に手を乗せたまま時間が過ぎていく。
「やっぱ弾けないんじゃない?」
誰かがそう言いかけたとき、茜音は鍵盤の感触を確かめるように、一気に指を走らせた。
教室の中が、笑いに包まれた。
「静かにして!」
しかし、その様子を見ていた先生は子供たちを黙らせた。
「……佐々木さん。好きな曲でいいわ……」
音を聞いているだけの子供たちから鍵盤の手元は見えない。それに聞いただけでは単純な7オクターブの連続した音は遊びでも出すことは出来る。
先生が目にしたのは茜音が非常に素早い正確な動きで指を動かしているところだ。
しかも座っている姿がすでにさまになっていて、素人とは思えないほどの貫禄がある。
背筋を伸ばし、鍵盤に手を置いているところは、何かに集中しているように見えた。
「なにか楽譜いる?」
茜音は目をうっすらとあけて、頭を横に振ると、再びゆっくりと鍵盤の上に指を滑らせ始めた。
がやつき始めた教室の中がしんとなった。
ゆっくりとした、柔らかいピアノの旋律。
「佐々木さん、あなたはいったい……」
シューマン作曲のトロイメライ・子供の情景。
落ち着いた曲調は非常に親しまれ、名前は知らなくても聞いたことがある曲だろうし、音楽室にもCDはある。しかし小学1年生が弾いているとは思えないほど、それは完成しているように聞こえた。
しかも、譜面台には何も置かれていない状況でだ。
小さく鼻をすする音が聞こえる。見れば、茜音の目から涙がこぼれていた。
「佐々木さん、もういいわよ。ありがとう」
そのまま約2分半の1曲を弾き終えたところで、座っていた先生は立ち上がって大きな拍手を送った。
他の生徒たちも信じられないものを見たように呆然としていた。
もちろん、その時の茜音の通知票には最高得点が付けられたのは言うまでもない。
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