だっこう
――やったよ、ついに書き上げたよ――
真夜中の自室で、ノートパソコンを前に思わずガッツポーズを取る。そのときの僕は、言いようのない達成感に満たされていた。
最後の最後まで書き終えて、「(了)」の字を打ち終えた瞬間は感慨もひとしおだ。こればかりは、創作に携わる者にしか理解できない絶頂感だろう。
思い返せばここまでは長い道のりだった。
なんとなく思いついたアイデアを、色々な小説やら小説以外の本やテレビ、インターネット上から掻き集めた情報によって補強して。そこからさらに具体化するために世界観やキャラなどの設定を決めて。いざ書き出したら迷子にならないように何度もプロットを練り直して。
書き始めてからも、納得いかなくて書き直すなんてざらだ。時には一万字以上を全部没にしたこともあった。場合によってはプロットから設定まで見直した。そんな面倒で無駄にしか思えないことも、この物語を仕上げるために必要なことならば不思議と苦にならなかった。
書く時間を捻り出すのも大変だった。高校生の僕は、日中は当然学校の授業があるし、学校はそこそこ進学校だからか家に帰ってからもやらなきゃいけない課題も多い。そこで課題をほっぽり出せるほどの度胸はないから、僕は粛々と課題もこなし続けた。実際に執筆に充てる時間といえば放課後の文芸部の活動時間と、自室で床に就くまでのわずかな時間しかなかった。ついつい熱中して、ノートパソコンをつけっぱなしで何度寝落ちしてしまったことか。この一年間は慢性的に睡眠不足だった。
だがそれもこれも、この傑作を生み出すためだったと思えば良い思い出だ。
今までインターネットの小説投稿サイトに何本か自作小説を公開したことはある。でもどれもこれも二千字からせいぜい三万字程度の短編ばかり。思いつくままに書き殴った小説ばかりだからか、はっきり言って反応もイマイチだった。
だが今回は違う。総字数は十三万字超の、ちょうど文庫本一冊並の長編だ。しかもネット上に一話も公開せずに書き上げた。全ては某出版社の公募に出すためだ。
ファンタジー小説の公募ではおそらく日本で最も権威あるその公募は、完全未発表作しか受け付けない。その条件を満たすため、投稿サイトに公開したい欲を抑え込むのが最も大変だった。昔は小説投稿サイトなんてなくて、作家を志すなら一人で黙々と書いて、新人賞に応募したりせいぜい持ち込みするしかなかったという。それを聞いたとき、読者の反応もなしに書き続けるなんて、モチベーションの保ちようがないだろうと思ったものだ。
だがそんなことはないのだと、こうして書き上げたからこそ言える。たとえ一人きりで書き続けようと、この作品を完成させたいという情熱があればなんとかなるものだ。
でも、と僕はノートパソコンからインターネットに繋ぐ。作品を公表せずとも、せめてこの喜びを叫ぶぐらいなら許されるだろう。いくらなんでも自室で誰にもこの感慨を共有できないのは寂しい。幸い今の世の中には、SNSという素敵なツールがあるのだから。
さてなんと書き込もうか。ひと思案した僕の頭に「脱稿」という文字が浮かんだ。「草稿ができあがること。原稿を書き終えること」を意味するその言葉を、僕は今まで使ったことがない。これまで書き散らした短編に使うには、なんだか分不相応に思えたからだ。
――だけど今は堂々と胸を張って言える。僕は今、「脱稿」した!――
だから僕はただ一言、『だっこうしたぜ!』と力強く書き込んだ。
そう、『脱稿したぜ!』と書き込んだつもりだったんだ。
でもフォロワーの反応は、僕にはあまりにも予想外――いや、ここまで読んだあなたには、ある意味想定内かもしれない。
『脱肛?』
『脱肛したのか!』
『まだ若いのに、ご愁傷様』
『ウィキペディア「肛門脱(こうもん・だつ)とは、肛門管が肛門を超えて、体外へ脱出する疾患のこと。脱肛(だっこう)ともいう。」』
『程度によっては要治療だって』
『早く病院行け』
なんでこんなリプばっかり返ってくるんだ。と思ってモニタを見返せば、そこには――
『脱肛したぜ!』
という僕の書き込みが燦然と輝いている。
「あああああ!」
原稿を書き上げた高揚感など吹き飛んで、その後の僕はフォロワーたちにいちいち否定して回る羽目になったのは言うまでもない。
でも世の中は、何がどう転ぶかわからないものだ。
こんなただの変換間違いが思いのほかバズってしまい、それがまたちょっと美味しいと思って削除もしないでいたら、そこで僕のアカウント名=ペンネームを知った編集者がいたりするのだ。やがて僕は「初稿の誤字脱字が酷すぎます」と怒られながらも、曲がりなりにも作家デビューしてしまったりするのだが――それはまた別のお話。
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