第20話、本の世界でのファーストバトルと逃げたい現実



やがて辿り着いた場所は、背の高い木々もまばらな湿地帯だった。

その、一際大きい濁りの深い沼地のひとつに、馬を失ったらしい大きな幌馬車が半ば引きずりこまれようとしているのが見え、何かが燃えているのか、鼻の曲がりそうな、あまり嗅ぎたいと思えないいやな匂いのする白ではない煙が幌の中から上がっているのが分かる。

おそらく、この幌が遠目から見えたのだろう。



「ヒヒ、考えてみれば妙だな? こんな水辺の多い場所で煙なんて」


見た感じ水没しかけた馬車以外には何もなく。

首をかしげてふらふらと馬車へと近づいていくジャックの後に、晃も続く。

そして、革靴に感じる生温かい水をかき分け、幌の中を覗き込んで。


晃を襲ったのは後悔ばかりだった。

声を上げそうになるのを何とかこらえて、だけど目の前に広がる光景から目を背けることは止められなかった。


「火薬でも投げ込まれたのか? 魔物のヤツラの仕業にしちゃ、やることが狡猾すぎるな」


苦いジャックの呟きが聞こえる。

そこには、晃の求めてはいなかった残酷な現実があった。

ジャックの言葉通り、火薬か何かを投げつけられたのか、ひどい火傷を負って折り重なるようにして倒れる、一様に黒い翼を生やした人々、魔精霊たちがそこにいた。

煙の正体はこれだったのかと思うと、こみ上げてくる吐き気。


それは、ずっと求めてきた幻想の世界だからこその衝撃によるところもあったのかもしれない。


逃げ出したい。

晃がまず思ったのはそのことだった。

その思いのまま、そこから一歩下がろうとする。


「う、うぅ」


だけど。

幌の中から、生きていることの証であるかのような、呻き声が聞こえてきて。

ぴたりと、晃の足が止まった。



(俺が今しなければならないことはなんだ?)


辛いことや面倒なことから逃げ出したい。

そうだとするなら、それはあまりにも情けなすぎて。

そんな弱い自身を叱咤するように。

魂のうちから溢れてくる感情のままに、晃は叫んだ。


「早く、助けなければっ!」

「そうだな。取りあえず馬車からおろそう。このままじゃ馬車ごと燃えちまう」


助けるための方法すらろくに考えないままに言葉を発してしまった事に晃が気づいたのはそれからすぐのことだったけれど。

ジャックは、それすら見透かしたかのように、さっきまでとは違う笑みをこぼしつつ、そう答えてくれる。


「分かった」


晃の方もさっきまでの自分が嘘のように、それに頷き返して。

沈みかけた幌の中へと、一歩足を踏み入れた。

そして、以外にも慣れた手つきで、倒れている一人を抱え込もうとした、その瞬間。



「……っ!」


いきなりドン! と地面の底から突き上げられるかのような衝撃が、晃を襲った。


「ちっ!」


足元を見ると、馬車の底板を突き破って青黒い何か(それは、言うなれば蛸の足のようなものだった)が、蠢いているのが分かる。

途端、充満する濃い水の匂い。



「ラキラっ!」


そして、ジャックが鬼気迫る声で叫んだのとほぼ同時に、底板にいくつもの亀裂が走り、気がつけば晃の視界には薄青の空が見えていた。

かち上げられ幌を突き破って、そのままの勢いで水辺に叩きつけられる晃。


「ぐぅっ」


呻いて、それでも何とか起き上がると。

目の前に鎮座するのは、全身青のそれ自体が別個に生きているようにも見える、いくつものうねる足と、鈍い赤の瞳を持つ、巨大な軟体生物だった。


「ギァアアアアッ!」


そいつは、怒りとも悲鳴とも取れる咆哮を発している。

よく見ると、そいつは血だらけの満身創痍にも見えて。

身体のあちこちに刺さるようにして出ているのは木の根、だろうか?



「あれはっ」


晃はそれに、目を奪われる。

いや、正確に言えば目を奪われたのはその巨大生物にではなく。

伸び上がったそれの足……触手のひとつに巻きつかれて動かない一人の少女にだった。


花飾りにしては大きな、その栗色の髪に咲き誇る紫の花。

闇色染みる、影のような翼。

まさしく天の使いか何かが身に纏うような、儚いほどの細身を示す、純白の羽衣。

それらは一様に濡れそぼり、傷ついて尚美しく。


別人であること一目瞭然なのに。

だけど、タローに良く似たジャックと同じように。

晃には、その少女が自分の知っている人物に見えてらなかった。



「香澄さんっ!」


晃は、無意識のまま少女の名を呼び、走り出していた。

目の前の少女が香澄だと認識してしまったら、もう止められない。

全身が沸き立ち、沸騰する感覚。


それは怒りだろうか?

あるいは、それを超越した苛烈なほどの名もなき感情、とでも言えばいいだろうか。

猛烈な勢いで近づいてきた晃に、巨大な青きものすぐに気づいたようだった。

感情の読み取れない濁った瞳を、しかしそれでも確かに晃のほうへと向けていて。



「……っ」


すくみにも近い感覚で、晃は立ち止まる。

あるいはそれは予感、だったのだろう。

刹那、それの蛸のような口が膨張し、その標準を晃に定めて


はっきりそれと分かる、砲撃のような発射音。

わずかに、何かの燃える匂いを感じて。


晃はその時、確かにそれと目があった。

撃ち出された赤く透き通るもの。

それに貼り付けられているかのようについていた、虚ろな目と。


感じるのは戦慄。

漠然と浮かぶ、爆発のイメージ。

根拠などないのに、馬車の人たちが傷つき倒れた原因はそれなのだという確信があって。

それに対抗するかのように、まるで生きているかのごとくざわめき震える、晃の足元にある水。


しかし、赤く透き通る何かを見据えていた晃は、そのことに気づかなかった。



「ラキラっ、投げ返してやれっ!」


何故ならば、鋭い耳鳴り音がしたかと思ったら、そんなジャックの声が聞こえたからだ。

晃が顔を上げると、いつの間にかジャックが、意識失ったままの少女を助け出し、その嘴で抱えていて。

そこで代わりに気づいたのは、世界の異常。

晃に向かってくるはずだった虚ろな目をした赤いやつが、中空で凍りついたように止まっている。


ジャックは、自分のことを時の魔精霊だと、そう言ってたから……きっとその力を使ったのだろう。

時を止める、その力を。

それは、ジャックがそう名乗った時点で、そうだろうとは期待していたことだったけれど。

中々どうして、目の当たりにすると感嘆のため息しか出ない晃。


しかしそんな晃も、そう言われてからの反応は目を見張るものがあった。

自分から一歩踏み出し、赤色のそれを手で掴んで。


「はっ!」


気合い込め振りかぶり、投げ返す。

すると、ちょうどそのタイミングで時が動き出して。

同時に気づく、自分がノーコンだという事実。

赤く透き通るそれはまっすぐとは行かず、青い巨体のすぐ前、水面に落ちるように炸裂して……。



すさまじい勢いで水は抉られ、それにより起こった水しぶきがあたりに霧を生じさせる。

衝撃で穿たれた水は意思を持ったかのような濁流と化し、小さな沼地がいくつもあったはずの地形を、ひとつの大きな湖へと変えてしまった。


その衝撃で跡形もなくなったのか、霧に紛れて逃げたのか、今までそこにいたはずの青い巨体の姿はなく。

それでも尚水は勢いを止めず、離れた場所で傾いていた馬車すら飲み込んでゆく。


晃が我に返ったのは、その時で……。



             (第21話につづく)






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