第4話 三人目

「オイッ」


 と。

 テニスコート中に響き渡る罵声が飛んだのは、伊織と雅久の試合がはじまっておよそ五分。40-15で伊織のゲームポイントをむかえたころのことだった。声を聞いたとたんに凛久と遥香の身体は硬直し、やべ、と蓮が小声でつぶやいた。

 声の出どころは遠くから駆けくる初老の男。男は拳を振り上げて革靴のままコートにずかずかと踏み入り、眉をつりあげて一同をぎろりと睨みつけた。しかしゲームを邪魔されたのがよほどムカついたのだろう。雅久も雅久でいまにも男に殴りかかろうと拳を構えている。気づいた凛久があわてて駆け寄り、雅久の腕をしっかと掴んだ。

 痩せぎすの男は落ちくぼんだ目をカッと見ひらく。

「貴様ら何様のつもりだ。指導者である私の指示もなしに、勝手にテニスコートを使うなと言ったはずだぞッ」

「…………」

「いまテニス部は部員もおらず廃部も同然。部員じゃない人間はもちろんだが、部外者まで勝手に連れ込んで──貴様らは日本語も理解できんのか? 私は部員でない人間や卒業生を含む部外者はみな神聖なテニスコートに立ち入れるなと言ったんだぞ」

「で、ですが野呂コーチ。桜爛テニス部の顧問はわたしで──」

「たった半年だけ担当したくらいで、顧問面をしないでもらいたい。このテニス部のしきたりやメニューなどは私が数年かけて作りあげたんですぞ。まったく、最近の若者は軟弱者ばかりで……ついていけないからと逃げ出す奴ばかり。桜爛も落ちたものだ」

「っ」

 早口でまくしたてられ、遥香はシュンとうつむいた。

 早くも涙を浮かべる凛久とふてぶてしく黙り込む蓮を見て、男──例の野呂コーチは、それすらも気に障ったか荒々しくガンッ、と審判台を蹴り倒した。

 審判台のそばに立っていた蓮と遥香はあわてて身をよける。遥香のからだは小鹿のようにふるえて止まらず、蓮が安全なところへ連れ出した。

 野呂はかまわず腕をひろげて下卑た笑みを浮かべる。

「バカバカしい。そう簡単に指導者が見つかるとでもいうのか? 明日までだぞ。往生際がわるいんだよ。私に『指導者として続投してください』と頭を下げるなら、校長に掛け合って廃部撤回を進言してやらなくもないが」

「そ、……」

 凛久の瞳に涙がたまる。

 そのときテニスコート上に一陣の風が吹く。直後、コート脇で野呂がひっくり返った。突然どうしたのかと見れば彼の足もとにテニスボールが一球ころがっている。野呂が足首を抑えてうめいた。どうやら先ほどの風──ボールが彼の足首を直撃したらしい。

「あ、……」

 一同は唖然とした。

 ボールが飛んできた方には、試合中であったサングラスの女──伊織がラケットを片手にサーブの構えをとっている。二球目もぶつける気らしい。ちょっと、と遥香が声をかける間もなく、伊織はひょいとトスをあげ、高い打点からサーブを放った。的はふたたび野呂の足首。

 バチンッとはげしい音を立てて履いていた右の革靴が吹き飛ぶ。


「じゃかあしゃァ!」


 伊織はさけんだ。

 ずかずかと野呂へ歩み寄ると、身をかがめて彼の左足の革靴を脱がす。

「ひいっ」

「テニスコート上に土足であがる阿呆に、テニスを指導する資格はないんやで──おっさん」

「き、貴様」

「審判台も、そない乱暴に倒したらぶっ壊れてまうやろ。衝撃でコートにヒビ入ってもたらどないすんねん。そんなことも分からんヤツが、天下の桜爛テニス部にズカズカと」

 伊織は審判台を元の位置へもどした。

「栄華も名誉も踏みにじってからに──」

 キレている。

 伊織は猛烈にキレている。かけていたサングラスを前頭部へ押し上げて、手中のラケットをコートにころがる野呂へ突きつけた。


「おっさん、勝負しようや」


 へ、と野呂がころがったまま口を開ける。

「うちから一ゲームでも取れたらアンタの勝ちにしたる。でもその代わり、うちがストレートでアンタに勝ったらいまこの瞬間から」

 ──桜爛指導者交代や、と。

 地の底から響くような低い声で、伊織は言い放った。遥香も、蓮も、雅久も、そして凛久も。みなその威風に気圧されてことばをうしなう。野呂は弱々しく立ち上がると「上等だ」と喧嘩を買った。

 ひと足先に我に返った蓮が「大丈夫なんすか」と尋ねる。

 伊織は「だれに聞いとんねん」と答えた。


「天下の七浦伊織様やで。負けるわけないやろ」


 瞬間、雅久の喉がヒュッと鳴った。


 ※

 無敗の女王。

 などと大仰なあだ名が彼女についたのは、およそ十年前のこと。所属校関係なく参加できるジュニア選手権大会において、当時高校三年生であった七浦伊織は春秋二大会のシングルスでダブル優勝。また夏におこなわれた高校総体──インターハイ個人戦に初出場し、見事大差をつけての優勝を飾った。

 その大会では、同校の男子テニス部員のひとりとアベック優勝。その華々しい成果により雑誌のインタビューを受けたほど。雑誌を読んだ当時多くのテニスキッズたちが、自分たちの目標選手としてふたりの名を挙げた。それほど学生テニス界では伝説と謳われたのである。

 しかしその後、七浦伊織は雲隠れ。

 だれひとり行方を知らぬまま、いつしかテニス界からもその名は薄れて──いまに至る。とはいえ、話題に出ないだけで当時の活躍に沸いたテニスキッズたちの記憶から消えることはなかった。

 ──それは高宮雅久もおなじ。

 ここまで書き連ねた内容を、厳つい表情はそのままにつらつらと語りだしたのである。語るあいだは野呂と対戦する七浦伊織へまばたきひとつせぬ熱視線を送る。不良めいた見た目のわりにかなりオタク気質なところがある、らしい。

 へえ、と凛久は呑気な声を出した。

「雅久って七浦コーチのファンだったのか!」

「ファンとかじゃねえ、カン違いすんな」

「えェ」

「むかし読んだ雑誌に載ってたから覚えてただけだ」

「だってそんな、何年前の雑誌だよなあ」

 と、蓮は困り顔の凛久に顔を寄せてつぶやく。

 雑誌インタビューで、と雅久はさらに独り言をつづけた。

「プロ入りはまったく考えてないって答えていたけど……プロ大会どころか国内のテニス大会にも一度だって顔を出してなかった。いったい今までどこにいたんだ? でもあのコントロール力、この十年テニスをしていなかったとは考えにくい。ふつうにテニスコーチとかか、あるいは──」

「……ファンっていうか、ガチ勢?」

「ていうかやっぱりテニス好きなんじゃん」

 凛久と蓮は本人に聞こえないようささやき合った。


 ──試合開始から十五分、気がつけば試合は終了していた。

 手前のコートにころがる屍と、ネットを挟んだ向こう側で髪ゴムをほどく伊織のすがた。ここに記すまでもないような試合内容で、ゲームカウントはストレートの6-0。野呂は恥ずかしいやら悔しいやらで立ち上がれないらしい。……一番の理由は加齢にともなう疲労だろうが。

「しょーもな」

 伊織はつぶやいた。

 野呂の前に立ちはだかって、「お疲れさんでした」と妙にうやうやしく頭を下げる。

「悲しいことに一ゲームもそちらへ差し上げられませんでしたので、約束どおり、いまこの瞬間から、桜爛テニス部指導者をこの七浦伊織に交代させてもらいます。文句ないですよね?」

「ぐ、……」

「王者桜爛も、このレベルの指導者が五年もコートにおったら弱体化しよるんですなあ──よう胸に刻ませてもらいます。それでは、五年間のご指導ご鞭撻どうもお疲れさんでした」

 と、嫌味たっぷりにふたたび頭を下げた伊織に対して、野呂は吐き捨てるように言った。

「お、桜爛の校長に告発してやる。私と彼は付き合いが長いんだ。こんな勝手を彼が許すはずはないッ。い──いまにおぼえていろよ。その顔で世間を歩けなくすることだって出来」

「うるせえな」

 突然の低い声。

 雅久だった。地面に尻もちをつく野呂の胸ぐらをひっつかんで無理やり立たせると、そのままぐっと顔を寄せてメンチを切る。

「桜爛テニス部の指導者から外れたいま、テメーはただの部外者だろ。部外者は神聖なコートにあげるなって桜爛テニス部の決まりは、たしかテメーがつくったんだったな?」

「う、うう──」

「勝負に負けたのならごちゃごちゃ喚いてねーで、さっさと消えろッ」

 とそのまま野呂を突き飛ばす。

 先ほど自分で蹴り飛ばした審判台に強く背中を打ち付け、野呂は呻きながら逃げるようにコートを立ち去った。凛久と蓮はよっしゃあ、とガッツポーズを決めたが遥香はうれしいやらあとが怖いやら。顔色を赤くしたり青くしたりといそがしい。

 フ、とひと息ついてから、伊織が雅久へ向き直る。

「お待たせ。つづきやろか」

「いや、もういい」

「え?」

 伊織が目を見ひらく。

 対する雅久は憮然とした顔で凛久の腕を引き、蓮の肩をひき寄せて。


「合格だ。三人目、入ってやるよ」


 と高慢な態度で伊織を見下ろした。

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