名無しの旅人

@k_momiji

名無しの旅人


 気付いたときにはここにいた。

 自分が何者なのかも分からない。どこから来て、どこへ向かうものなのかも見当がつかぬ。

 帰る場所も無く、仲間というものも居ない。ただ毎日どこかしこを彷徨い、冷たい床で横になる。

 そんな毎日だった。

 

「あなた、お腹がすいているでしょう」


 ある日、誰かに声をかけられた。振り返ってみると、そこにいたのは見るからに裕福そうな婦人だった。

 当然、その婦人は縁もゆかりも無い人間である。突然話しかけられたのは、それほどまでに腹が減っているように見えたからか。

 こうして施しをする人間は嫌いだった。特に、このように金を持っている連中は。

 気まぐれで施しをしたかと思えば、気まぐれで道端に捨てられる。以前、同類から聞いた話によると、我々のような浮浪者が街に溢れかえるようになったのは、金持ちの人間の無責任な行動が所以らしい。

 

 だが――腹が減っているのは事実であった。

 どこから来たかも分からず、向かう当てが無くとも、生きてさえいれば腹は空く。

 生憎、まだ野垂れ死ぬつもりもない。

 プライドを切り売りする。金を持っている人間に媚びへつらう。馬鹿にしたければ馬鹿にするといい。

 

 婦人に着いていくことにした。

 米と、焼いた魚が振る舞われた。

 食べ終わると、片付けもせずふいと外に出た。

 婦人は、それを咎めることもしなかった。


 久方ぶりの食事。心地良い満腹感。足取りは軽い。

 そうして暫く歩いていると、喉が渇いていることに気が付いた。

 水溜まりの水を啜って飲むほど落ちぶれてはいないが、今日のように良い天気だと水がないのは事実である。

 このような時とりわけ良い方法は、比較的裕福そうな人家の庭に侵入することである。

 そういった家では、かなりの割合で、庭に動物が飼われている。近くに水道があることが多く、そこから垂れる水を拝借するのだ。

 

 そうして、ある民家に入り込む。満を持して水を飲もうとした、その時だった。

 

「出て行けーーーーッ!!!」


 箒を持った男が、縁側から飛び出してきた。

 驚いて飛び上がるが、男はそれほど足が速いというわけでもない。少し走れば、裕に逃げることができた。

 

 振り返る。もうあの男はいない。再び歩き始める。

 水を飲むことはできなかった。まあ、他を当たろう。きっとまた、すぐに見つかる。

 どこから来て、どこに行くのかも分からない。だがきっとこの四本の足で、どこへだって行ける。

 

 我輩は猫である。名前はまだない。



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