第十六章 毎日の積み重ねで得る幸福

 時は六月二十日の水曜日の午後五時だ。英国特別捜査機関のスペイン支部の建物の近くから、こちらを窺っている、花柄の黄色いワンピースの上に、白色のカーディガンを着た、バレーシューズ風の薄い水色の水玉模様の靴を履いた女性が、サングラスを付けて、たたずんでいるのだった。その女性は鞄から携帯電話を取り出すと、建物に身を隠し、壁にもたれかかりながら、電話を掛け始めた。女性は、険しい顔をしながら、誰かに「アビーよ、エンリケスさんですか?あの今回のセビリア大聖堂での、金の強奪の件で使った学生が、逮捕された様です。なるべく早くお知らせしようと思って、電話をしました。困った事にならないと良いんですけれど」と携帯電話でいった。電話の相手はエンリケスだ。エンリケスは、低い太い声で、アビーに「まあ、まあ、落ち着きなさい。連絡ありがとう、一件が落ち着くまで、彼に対して眼を光らせておいてくれ。何かあったら直ぐに分かる様に、監視をお願いしたい。恐らくは何事も無く大丈夫であろうがね」と携帯電話でいった。アビーは、先程より元気の良い声で、エンリケスに「分かりましたわ、私がよくよく監視しています。またこの事に進展がありましたら、ご連絡差し上げます。それでは失礼します」と携帯電話でいった。すると間も無くアビーとエンリケスとの通話は終わった。

 ゆったりとした、夕べのロンドン市内にある大学の教授控室で、ビヤール教授がゆっくりとアールグレイティーを飲んでいると、胸ポケットの携帯電話が鳴り始めた。ビヤール教授は、携帯電話に応答すると、相手に「はい、ビヤール。エンリケスかい?僕の携帯電話に連絡するとは何かあったね?いったい何があったんだい?」と携帯電話でいった。エンリケスは、ビヤール教授に、セビリア大聖堂での金の強奪で、仲間に入れた学生のリカルド・デラが、逮捕された事について話した。ビヤール教授は、鋭い口調で、エンリケスに「リカルド・デラが逮捕された事で、何かまずい事になったりは、まさかしないだろうね。エンリケス、どうかな?」と携帯電話でいった。エンリケスは、確信を持った調子で、ビヤール教授に「ええ、それはもう心配ありません。私に任せて下さい、ご報告だけはしておこうと思った次第です」と携帯電話でいった。ビヤール教授は、嬉しそうに少し笑い、エンリケスに「そうか、それは良かった。少し心配してしまったが、君からその言葉を聞けて安心した。で他に僕が聴いておく事があるかな?」と携帯電話でいった。エンリケスは、声高に、ビヤール教授に「今の所は特に無いです。」と携帯電話でいった。ビヤール教授は、落ち着いた調子で、エンリケスに「ではこれで僕は失礼するよ、引き続き僕がお願いした任務の遂行を頼むよ、その件で嬉しい報告を待っているよ、それでは失礼するよ、エンリケス」と携帯電話でいった。ビヤール教授とエンリケスとの通話は終わった。ビヤール教授は、エンリケスからの電話が、来る前に行っていた、彼の執筆図書の『毎日の積み重ねで得る幸福』という本の続きを、書く事に専念し始めた。ビヤール教授は、この前この本の執筆をしていた箇所に、視線を落とした。すると、この前は第七章までの執筆で終わっているのが、眼に入って来た。内容はこうだ、「まず自分に対して、楽しいと思う事を一生懸命やる事だ。そしてその中で、他人との接触がどうしても生じてしまう、その接触の時に相手に思いやりのある行動を、欠かさない事で、相手から親切にされる事の積み重ねが、自分への小さな幸福となって、戻って来るのである」という内容だ。ビヤール教授は、次の章ではその小さな幸福を、積み重ねるのに具体的に何をする事が良いのか、指し示そうとしていた。例えば、誰かが「おはよう」など、小さな気遣いをしてくれた事を一つ一つありがたく思う事で、毎日が明るく幸せに色づいて行く。また自分も相手の素敵な所を、本心から伝えたり、毎日が新しい始まりと考えて行動する事で、あなたの人生が冒険に満ちた人生となるのだ。ビヤール教授は、この様な事を原稿にしたためたのだ。執筆活動の区切りの良い所で、ビヤール教授は少し休憩をする事にした。ビヤール教授は、部屋の中に飼っている、雪白の地に黒いチョッキを着た様なフクロウに「さあ、アポロン。パソコンに鍵をかけてくれ、それから執筆中の原稿を保存して置いてくれ」といった。アポロンは、金色の片目をつぶって、了解の合図を送りながら、ビヤール教授に「分かりました、直ぐに作業に移ります、ご安心下さい。ビヤール様が家でも作業出来る様に、家にいるアルテミスにもデータを送っておきますね」と白いアンドロイドのフクロウは、いって、眼を光らせた。それから、ビヤール教授は財布と携帯電話を持って、教授控室から抜け出た。

 彼は、自分の歩く音を響かせながら、大学内の真直ぐ伸びた廊下を進み、突き当りを左に曲がり、階段を使い、階下へと向かった。階段を下り切ると、目の前には大きな緑豊かな広場が広がっているのだ。この広場は、芝生が一面に育ち、隅には中位の木々が植えてあるのだ。この広場を横切って、彼は行き着く先に、学生食堂のある渡り廊下に入り込み、その道なりに進んだ。少しばかり歩くと、学生食堂に到着した。この学生食堂には、まだ幾人かの学生が軽い食事をしながら、たわいない話をしているのだった。ビヤール教授は、学生食堂の中にある、購買に向かって行った。この購買で何かお菓子などを買って、教授控室で食べるつもりなのだ。彼が、購買に入ると、この購買で買い物をしていた数人の学生が、声を掛けて来た。どうやらビヤール教授は、世界的に有名な哲学者であり、また若いのに教授をしているので、学生たちからすると素晴らしい人物で、まるでロックスターである様で、とても人気があるらしい。学生たちとビヤール教授は、どんな話をしたのかというと、講義内容やどうやってビヤール教授が、今の地位に就いたのか、という内容だった。話しを終えると、学生たちは忙しい中、話してくれて嬉しかった事を告げて、その場から立ち去った。そしてビヤール教授は、当初の予定通りの為に、購買のスコーン売り場を覗き込んだ。すると、そこには色々な種類のスコーンが並んでいた。どの様なスコーンかというとチョコスコーン、ホワイトチョコスコーン、紅茶とオレンジを使ったスコーン、クルミのスコーン、ミントのスコーン、ブルーベリーのスコーン、メープルとウォールナッツのスコーンが並んでいる。ビヤール教授は、暫くの間見ていると、食べるスコーンを心に決めたらしく、店員にチョコスコーンや紅茶とオレンジを使ったスコーンやブルーベリーのスコーンをそれぞれ二個ずつを買える様に頼んだ。彼は、にこやかに店員にお礼を言うと、買ったスコーンを持って、次は隣の売店でカフェオレを頼んだ。少ししてコーヒーの販売員が、カフェオレをテイクアウト用の容器に入れて渡して来た。ビヤール教授は、その容器を受け取ると、お金を渡して、スコーンとカフェオレを大切そうに持って、教授控室へと向かった。

 彼は陽気な感じで、大学内を歩いていると、壁に大きくピアノ演奏会のポスターが張られているのが分かった、それはショパンのピアノ演奏会であった。そうあのフレデリック・フランソワ・ショパンのピアノ演奏会だ。彼はビヤール教授の故郷のフランスで、活躍した作曲家であり、ピアニストであるのだ。このポスターを見ると直ぐに、ビヤール教授の趣味である、ピアノへの情熱を駆り立てられた。彼は趣味でいつも週末に、ピアノを弾くのである。ピアノを弾く事で気分を落ち着かせて、自分の研究論文を書き上げるのだ。ピアノはPLEYELのアップライトピアノを使っている、部屋に容易に収納出来るからである。ビヤール教授はレナエルを連れて、このショパンのピアノ演奏会に行く事を決心して、ポスターに書いてある事を良く読むと、大学内のピアノ演奏会の、チケットを販売している所へと急いだ。ビヤール教授は急がなくてはと、駆け足でポスターに書かれていた、チケットの販売場所に到着すると、息を切らした。到着すると、ビヤール教授が思っていた程、このショパンのピアノ演奏会の人気はあまり無く、ゆっくりとした足取りでも十分間に合いそうであった。しかし、ビヤール教授は、今にも売り切れてしまうと思い、又しても小走りでチケット販売場所の販売員に声を掛けた。ビヤール教授は、両手に荷物を持ちながら、息を切らして、販売員に「あのう、ショパンのピアノ演奏のチケットを二枚もらえないだろうか?いくらになりますか?」といった。販売員は、ゆっくりとした口調で、ビヤール教授に「ええと、ショパン、ショパンんと。そうですね、チケット一枚が、六十七ポンドになりますが、ここの学生さんですか?すると、学生割引がありますので、するとチケット一枚が五十四ポンドになりますよ」といった。ビヤール教授は、当惑した顔をしながら、販売員に「そうですか、実は僕は、ここの大学の客員教授なんですが、何か割引の様な物はありますか?」といった。販売員は、嬉しそうな顔をして、ビヤール教授に「それですと、職員割引がありますね、チケット一枚五十八ポンドになりますね」とにこやかに笑いながらいった。ビヤール教授は、髪を撫でつける、若者らしい仕草をしながら、販売員に「そうですか、それと僕と一緒に、ここの学生でも無く、ここの大学の職員でも無いんですが、割引出来るプランは無いですかね?」といった。販売員は、微笑みながら、意気込んで、ビヤール教授に「ここの職員一人に付き、四人までなら同じ割引が出来ますよ」といった。ビヤール教授は、眼を輝かせて、販売員に「では五十八ポンドのチケットを二枚ください」といって、職員証を見せた。販売員は、職員証を受け取ると、ビヤール教授に「はい、分かりました。五十八ポンド、チケット二枚、はい、これですよ」といって、手渡して来た。ビヤール教授は、心臓が高鳴りながら、販売員に「どうもありがとうございます、それでは」といって、受け取った。ビヤール教授は、チケット二枚を財布の中に折りたたんで入れると、スコーンの入っている袋とカフェオレの入っている容器を持つと、チケット売り場から立ち去った。彼は先程の様に自分に割り当てられた教授控室への帰り道に沿って歩き出した。

 大学内の廊下を歩いていると、もう段々と学生たちは帰り始めているのか、廊下ですれ違う学生の数が学生食堂に、向かった時よりも少なくなっていた。ビヤール教授は、教授控室の帰り道を歩きながら、自分も少し部屋でゆっくりしたら家に帰ろうと思いながら、階段を上った。その後は直ぐに自分の部屋に到着した。部屋に入ると、ビヤール教授は買って来たスコーンやカフェオレを机に置くと、上着を壁にあるフックに掛けて、椅子に座り、ゆっくりとスコーンの入っている袋を開け始めた。すると、その中からブルーベリーのスコーンを取り出して、一口かじった、口の中にブルーベリーの味と香りが広がった。ビヤール教授は「これはとても美味しい、とても上手く作れているなぁ」とつぶやいた。彼はブルーベリーのスコーンの次は、カフェオレを一口飲んだ。やはりこっちもとても美味しい仕上がりなのか、彼は「うーん、これもとても良く出来た味だなぁ」とつぶやいた。ビヤール教授は、買ったスコーン全ての種類を、一個ずつ食べて、カフェオレを飲み干すと、スコーンの入っている袋の中を、大切そうに覗き込みながら微笑んだ。ビヤール教授は「レナエルも喜ぶぞ」とつぶやいた。レナエルとはレナエル・ビヤール博士で、旧姓ではレナエル・エマール博士である。彼女はビヤール教授と同じパリ大学出身で、理系で生物科学と工学に関しての知識は一流である。エミリアン・ビヤール教授の奥さんである。フランス人で、目の色はヘーゼルでライトブラウンとダークグリーンの中間の色である。髪の色はブロンドで、髪型はボブヘアーである。仕事は生物科学と情報科学に特化している民間の研究所に勤めている。勤めている研究所の名前はトート研究所である。歳は二十三歳である。

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