僕の背中のリンカ

水野 精

第1話 はじまり

 僕は相沢修治、27歳。

 東京で2つの月刊誌を出している小さな出版社のルポライターをやっている。


 卒業した大学では工学部に在籍し、いずれは技術職でどこかの会社に就職しようと考えていた。つまり、まったく畑違いの会社に就職したわけだが、それには理由がある。

 在学中にたまたま遭遇したある事件がきっかけで、この会社の社長兼編集長である三島さんに声を掛けられ、熱心に口説き落とされたのだ。

 多分、今ならストーカー規制法に引っ掛かるんじゃないかな。それくらい付きまとわれて、まあ、根負けしたのである。


 その事件とは、卒業の年に学内で起こった「女学生飛び降り自殺」だった。


 今では自殺ではなく、殺人事件となっているが、その事件に僕は少なからず関わってしまったのだ。


 それは、四年生の秋のことだった。そろそろ夜の冷え込みも強くなり、木々が色づき始める頃、教育学部棟の屋上から、一人の女学生が身を投げた。もちろん即死だった。

 当然のように、しばらくの間、学内は騒然となった。警官や刑事が頻繁に出入りし、学生たちの間でいろいろな噂が飛び交った。


 しかし、やがて事件は《自殺》ということで決着し、次第に話題に上ることも無くなっていった。


 僕はその頃、卒業論文のために毎日夜遅くまで工学部の研究室で調べ物をしていた。そして、そんなある寒い夜のこと、《それ》に出会ってしまったのだ。


 その夜はあんまり寒かったので、大学の側の居酒屋でラーメンとビールを注文して体を温めることにした。

 程よく温まったところで店を後にし、自転車を取りに駐輪場に向かおうとした。

(ああ、どうしようかな。駐輪場に行くのなら、教育学部棟の横を抜けて行った方が近いけど、なんか嫌な感じなんだよなぁ……う~~ん……)


 僕は迷った挙句、近道を行くことにした。ビールで少しほろ酔いになったせいもあったかもしれない。だけど、今考えると、ずっと招き寄せられていたように思えるんだ。

 教育学部棟の周囲は、木立に囲まれたプロムナードになっていて、昼間は多くの学生たちが通う憩いの場だが、事件以来、ここを通る者はほとんどいなくなった。

 僕は水銀灯が所々照らす道を、なるべく早く通り抜けようと小走りに歩いていた。しかし、予感は的中した。

 例の事件の現場に差し掛かった時、そこに寂し気にうつむいて立っている女性の姿があったのだ。


 僕は見た瞬間、それがこの世のものではないことを理解した。というのも、僕は幼い頃から何回か、同じ存在を見たことがあったからだ。

(ああ、やっぱり出たか……どうするかな……)


 と、僕が変に余裕を持ってその場で考えこんだ瞬間、《それ》が目の前に瞬間移動してきたのだった。あっ、と思った時にはもう遅かった。

 僕の意識は無くなり、《それ》の意識が僕を支配した。



 そこは部屋の中だった。周囲の壁は天井近くまで書棚が埋め尽くし、空きスペースにはソファや小さなテーブル、パソコンのラックなどが置いてあった。そして、部屋の奥には机があり、その向こうに四十前くらいの、口ひげを生やした男が座っていた。

 その男は良く知っていた。教育学部で日本文学を教えているN教授だ。


 そのN教授は、苦虫を噛み潰したような表情でこちらを見ていた。

『吉川君、何度も言うが、物事はそんなに簡単にはいかないんだよ。なっ、分かってくれ』


「いつも、そうやってのらりくらり、はぐらかしてばかり……もう、我慢できない!」

 声を出しているのは自分だったが、それは若い女の声だった。

 感情はかなりグチャグチャで、目の前の男への愛憎が入り乱れた状態だ。


『機嫌直してくれよ。な、そんなに深刻に考えないで……人生は楽しまないとね』

 N教授は猫なで声でそう言いながら、近づいてくる。そして、彼の右手が無遠慮に腰に回され、左手が胸に伸びてきたとき、僕(に憑依した女の子)は、その手を厳しく跳ねのけて、彼から離れた。

「やめてっ!……もうどっちつかずは嫌なの。はっきりさせて……奥さんにはあたしから正直に話すわ。だから、決めて、あたしか奥さんか」


 N教授の表情が明らかに変化した。彼は小さく舌打ちをしながら、シャツの袖のボタンを外し始めた。

「めんどくさい女だな……そういうのをダサいって言うんじゃないの?」

 

 僕(に憑依した女の子)は身の危険を感じて、とっさに逃げようとしたが、すでに遅かった。教授は背後から襲い掛かって来て、力づくで僕(に憑依した女の子)をソファに押し倒すと、馬乗りになったまま側にあったクッションで顔を押さえてきた。

 僕(に憑依した女の子)はあまりにもか弱かった。必死にもがいて抵抗したが、やがて死の苦しみと怒りと悲しみと後悔の中で、暗い世界へ引き込まれていった。


 そして、彼女はその後の出来事を、体の外から、ちょうど天井くらいの位置から見ていた。

 ぐったりとなった彼女を、N教授は肩に担ぎあげ、ドアの外に出て行く。彼女もドアをすり抜けてその後について行った。


 そこから先は、誰もが予想する通りだ。誰もいない学舎の階段を上り、N教授は屋上へ出て行った。そして、靴を脱がせた後、彼女の遺体を無造作に屋上から投げ捨てたのだ。

 彼はそれから部屋に戻ると、パソコンで偽の遺書を作り、彼女の履いていた靴と一緒に置いて、こともなげに帰宅したのだった。

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