1・1スタート半年前

「おじさん! いつもと同じ!」

 叫ぶとカウンターの向こうにいる店主が、いつもと同じ金額分のパンを渡したかごに詰めてくれる。

「あんたんとこは、いつもよくこんなに食べるなあ」

 店主のいつものセリフに、へへへと笑って返す。


「ねえ、奥さん聞いた?」

 後ろで順番を待っているご婦人たちが噂話をしている。

「聞いたわよ! フェルグラートの新公爵でしょ!」

 声が普段より高い。


 最近の都は貴族社会も一般社会も、そのフェルグラート公爵家の新当主とやらの話題で持ちきりだ。


 弱冠二十歳のその青年は、稀に見る美貌の持ち主らしい。加えて、つい先月まで修道士だったそうだ。

 かといって本当に血筋が繋がっているのか分からないような遠縁ではなく、先代の長子で加えて母君は王女だった方だそう。


 そりゃ噂話に花が咲いちゃうよね。


 なんでそんな若君が修道士になったのかが不思議だけど、そこには複雑な事情があるらしい。

 彼については以前、調べた。

 なぜなら若き公爵フェルグラートは、ゲーム『王宮の恋と陰謀』における攻略対象なのだ。




 パンのお代を払うと店を出て、いつもと同じ道を一人で歩く。




 私はいわゆる転生者。前世の記憶がある。といっても覚えているのは、前世も女子で、古いヨーロッパ風世界を舞台にしたミステリー風味乙女ゲーム『王宮の恋と陰謀』をやっていたことぐらい。古いヨーロッパ的な世界観で、城やドレスと華やかな雰囲気に惹かれたのだけど、ゲームは序盤までしかプレイしてない。

 しかもネットでは、とんでもないクソゲーと批判の嵐だった。どの対象も攻略が恐ろしく難しい上に、ノーマルエンドでも、主人公が不幸だったり他の対象が死んだりするらしい。鬱展開にしても、酷すぎるとの噂だった。


 前世の記憶を取り戻したのは、三年前の十四になる年のとき。流行していた性質の悪い風邪、通称黒風邪による高熱で苦しんでいる間に、繰り返し夢で見た。


 自分がいずれ悪役令嬢になり悲惨な末路を迎えるということにうろたえたものの、目下の問題は別にあった。

 多分、前世のあたしは根っからの庶民で、人生をめいいっぱい楽しんでいた女子だったのだろう。

 現在の公爵令嬢という状況にまったく馴染めなくなってしまった。


 そこで色々と葛藤と騒動があり……。

 表面上だけは麗しき令嬢を保つことにして、たまるストレスは街へのお忍びで発散することにした。

 今のところ小間使いのリリー以外にバレてはいない。


 一年半前には隣国への嫁ぎ話があったのだけど、向かう途中で盗賊に襲われたくさんの死者が出て、婚礼衣装も花嫁道具もダメになった。

 結果として今現在未婚で、自国ノイシュテルン王国の都に住んでいる。


 それが幸運なのか悪運なのかは、ゲームが始まってみないとわからない。




 ちょっとだけ雰囲気の悪い通りの入り口。ここから先は貧民街だ。町並みは荒み、昼間から仕事もせずにぶらぶらしている大人がいる。残念ながら犯罪多発地区だ。

 目的地に行くにはここを通るしかない。だけれど昼間なら安全だと聞いている。

 いまだに少し緊張はするけれど、怖い目にあったことはない。

 いつも通り、足を進めた。


 ところが少し行ったところで、三人の男に行く手を遮られた。見るからに柄が悪い。後ずさると、後ろにも二人立っていた。


 助けを求めて回りをみる。ご婦人も子供も老人もいる。でもみんな知らんぷりだ。気の毒そうな顔はしているから、巻き込まれたくないのだろう。

 ……これはまずいかもしれない。



「よお、嬢ちゃん。ずいぶん豪勢にパンを持っているな」

 ニヤニヤ笑いの男。歯が半分くらいない。訛りも混じり聞き取りにくいけど、そう言ったようだ。

 仕方ない。かごを差し出す。

「そんだけ買えるんだ。金もあるんだろ。出せや」

 と別の男。こちらは頬に大きな傷がある。

 隠しポケットからお金を出す。数枚の銅貨。かごに入れると、地面においた。

「しけてんなぁ」

「じゃあ嬢ちゃんを売るか」


 まずい、まずい、どうしよう。

 今までこんなことなかったのに!

 まだ正午を回ったぐらいの時間なのに!


 ふと、目前の男の視線が動いた。

「なんだ……」

 と言いかけたところで背後から悲鳴と激しい物音がした。

 振り返った私のそばを人が駆け抜ける。

 背後にいた二人は地面に倒れて悶絶している。

 何事?と思う間もなく、突如腕を捕まれた。


「ひっ」

 と思わず叫ぶ。

 だけど掴んだ手の主は、小綺麗な服を着ていた。明らかにさっきの奴らとは違う。


 見れば前に立っていた三人の男たちも倒れ伏してのたうち回っている。


「逃げんぞ」

 手の主は、そう言って駆け出す。私もつられて走り出した。

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