SANA

 出社した一真とやり取りをした女性は、口を一切動かさずに彼と会話していた。よく聞くと、声にも違和感がある。非常によくできてはいるものの、気付く者は気付くだろう。それが<合成音声>であることを。

 改めてよく見ると、その女性はスマートフォンを手にしていて、指が非常にせわしなく動いていた。と言うか、もはや人間離れした動きだと言っていいかもしれない。

 そう、『しゃべって』いたのはその女性自身ではなく、彼女が手にしているスマートフォンだったのだ。入力された文字を音声として読み上げるアプリが入った。けれど、

「はい、では、あとで書類にまとめて回します。玲那れいなさん」

 一真も全く気にする様子もなく応える。当然だ。その<玲那>と呼ばれた女性は彼がここで働き始める前からの社員であり、最初は驚いたもののまったく問題なく仕事をこなしているので、すぐに慣れてしまったのである。

 彼女は<声>を失ってしまっており、その代わりとしてスマホのアプリを使っているのだが、実はそれは彼女のためだけに開発されバージョンアップを繰り返してきたものだそうで、音声は彼女の肉声及び詳細な身体データから再現され、改良を加えられてきたもののため、今では、若干の違和感はあるものの慣れれば気にならない程度のものになっているのだそうだ。


 なお、<SANA>の業務は基本的にフレックス制で、セキュリティ面ではいろいろ厳しいことも要求されるが本人が希望すればリモートワークも可能と、零細企業ではありつつ零細企業だからこその柔軟性を持つ職場だった。ゆえに、子供のためには指一本動かそうとしない両親の代わりに琴美の事実上の保護責任者を務めていた一真にとっては、とても好ましい企業であった。

 なにしろここで働いている従業員の大半が様々な<事情>を抱えた者達であり、そもそも、そういう者達の<働く場>として設立されたという経緯もある会社だった。

 残念ながら給与そのものは決して高くないものの、それぞれの事情に配慮するためにコストがかかっているという事情もあった。

 だからこそ、一真もここで働けているというのもある。ここの代表でもある女性と知り合い、彼が抱える事情を知った上で、

『地味な仕事を淡々と真面目にこなす』

 という彼の特性を買ってくれて採用してもらえたのだ。しかも<試用期間>を兼ねたアルバイトを経て、正社員にまで抜擢してもらえたのである。

 非常に幸運なことではあるものの、

『会社側が要求する条件や能力をしっかりと備えていた』

 という時点で、単なる<運>だけではないだろうが。


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