後輩

 今日は蓮子が手を振ってくれなかった。

 何も言わず家の中に入っていく蓮子の後ろ姿に、俺は手を振るだけだった。

 水族館デートの帰りは、小さくだけど手を振ってくれたんだけど……。


 肩を落としながら帰宅すると、玄関にサイズの小さなスニーカーがあった。そう言えば、弟の清太が彼女を連れて来ていたんだった。昨日ゲーム機借りるって言ってたな。

 いろいろありすぎててすっかり忘れていた。


 まだ残っている。

 蓮子の唇、手の温もり……あの光景を鮮明に思い出させてくる。美味しかったんだけどな、もうあのお店にはさすがに行きづらいな。

 俺だけならまだしも、蓮子に迷惑をかけてしまった。

 何で急に帰ろうとしたんだろう。やっぱり怒ってた……でも、思いっきりビンタされると思ったけど、優しく頬を触られただけで終わった。


 もしかして幻滅されたとか。いや、幻滅だったらそもそも俺に好意があったってことになるわけで。

 蓮子の気持ちがよくわからん。もう少し顔に出してもらえたら……。


 あのアカウントは、


『何で? もう帰りたい』


 という呟きで止まっていた。


 蓮子、何だよな。

 スマホを見ながら階段を上がっていると、弟の部屋から声が聞えた。


「せいちゃん……そこ……あ……んっ」


 扉越しから聞こえる際どい声に、俺は思わず立ち止まってしまった。

 な、何……?


 ゲームの音……いや、俺が持ってるゲームにそんな声を出すものはない。

 それに、せいちゃんって。


 俺の部屋もそうだけど、防音性能はそんなに高くない。だから、深夜とか家族が寝静まった時間帯に、夜な夜な行為に耽ってるほど。もちろんヘッドホンをしてだ。


「おっきくなってるよ」

「あ、当たり前だろ、みやが可愛いから……」


 俺が帰って来てることに気づいてないみたいだ。というか、変なタイミングで帰って来ちゃったな。

 扉を隔てた先に、弟とその彼女さんが何をやっているのかは予想がつく。

 盗み聴きはよくない。それに、蓮子に嫌われたかもしれない俺の心には大きくダメージを負ってしまう。つまりは嫉妬だ。


 妖艶な声が少しずつ激しくなって、俺は堪らずその場から離れた。

 だめだ、これ以上は精神がもたない。

 階段を下りて、玄関で靴を履いて再び外に出た。

 自室でひっそりと過ごしてもよかったけど、壁越しに声が聞こえてくるだろうし、それに、弟としても俺に聞かれるのは嫌だろう。


 さて、これからどうしようかな。

 もともと予定なんてないし、近場のゲームセンターで時間でも潰そうか。


 本屋と一体化したゲームセンターは、クレーンゲームの設定が優しいことで有名で、小中学生らがよく群がっている。

 隣には本屋があって、さらにその隣には喫茶店が併設されているため、かなり広々としている。


 適当にクレーンゲームを見て回るも、いまいち欲しいと思うような景品がなく、気がつけばプリクラのあるところまで来ていた。

 ふと見ると、若い男女がプリクラ内で唇を重ね合わせていちゃいちゃと撮っていた。

 俺は咄嗟に顔を逸らして、その場からそそくさと退散する。プリクラなんて使ったことないからわからないけど、あんな感じに、き、キスして撮るのが普通なのか。

 俺なんか事故でしてしまっただけで、あんな風に自然とキスなんてしたことない。

 なんて羨ましいことを……。


 気を紛らわすために再びクレーンゲームを見ていると、ある女の子に目が行った。ブラウスにミニのタイトスカートで、くるぶしほどのブーツを履いたその子は、何かのキャラクターだろうか、人参を咥えた厳ついウサギのぬいぐるみを取ろうとしていた。

 だけど、優しい設定のはずなのに、クレーン操作がめちゃくちゃ下手なのか、それとも距離感がないのか、下りるアームがウサギのぬいぐるみの耳のあたりを掠るばかり。

 もう5回くらいやってるけど、一向に取れる気配がしない。


「もう、何で?」


 女の子はムッとした顔をしてウサギのぬいぐるみを睨んでいた。


 あれ、後輩じゃ……。

 中学生の時の後輩、畑部果音はたべかのんだ。あの中学生と思えないほどのモデル体型は、間違いようがない。背が低いのが勿体ないとよく言われていた。


 畑部は、俺が蓮子に近づこうとテニス部に入って、確か合同練習の時に蓮子の情報収集のため話しかけたうちの一人だった。何だかんだ仲が良かった後輩で、学年の一個下だったから、今は中3だ。

 俺が3年になってテニス部を辞めて以来は、あまり関わらなくなってしまった。


 その後輩は今、クレーンゲームに苦戦中。

 6回目も失敗し「もうやだ」と言いながらも、7回目の100円を投入していた。

 何やってんだ。

 そう思っていたら、俺の視線に気づいたのか、畑部がこっちを向いた。すると、大きく手を振ってきた。


「あ、先輩! こっちこっち!」


 ゲーム音の入り乱れる中で、畑部の声はよく通る。

 俺は畑部のところへ向かった。


「久しぶり、なにやってん?」

「これですよ、全然取れないんです~確率操作されてますよ!」

「確率というか、下手なんだと思う」


 という俺もクレーンゲームが上手いかと言われればそうでもないけど、アームを操作して、ウサギのぬいぐるみの真上に設定すると、すんなり取れた。

 バコン! と景品の取り出し口にそのぬいぐるみが落ちた。


「え~うそ~私けっこうやったのにぃ」

「ここのクレーンゲームは確率は優しい方だよ、はいこれ」


 ぬいぐるみを畑部に渡す。

 畑部はぬいぐるみを抱きしめたかと思うと、うさ耳の間に顔を埋めて上目遣いで、


「ありがとうございます、先輩」


 と言ってきた。


 相変わらずのあざとさだ。

 俺は蓮子のことが好きだったから何とも思わなかったけど、テニス部内の同級生たちはほとんどが畑部のことを気に入っていたし、話しかけられて皆デレデレだったのを覚えている。


「部活は?」

「今日は休みです。だから、羽を伸ばしに来ちゃいました~」

「一人で来たの?」

「そうですよ、家近いんで」

「そっか……」


 こいつ、友達いなかったっけ? そう言えばあんま女子と話してるとこは見たことないかも。どっちかと言うと男と話してるイメージがあるな。

 なんて思っていると、俺の心でも読んだのか、畑部がぬいぐるみで腰のあたりを軽く叩いてきた。


「友達いますからね! たまたま予定が入ってただけなんですから」

「ほんとに予定あったのか怪しいけど」

「先輩はそうやって私をからかって、そういう先輩は彼女とかできたんですか」

「あ、そっか、卒業式会ってないもんな」

「え……?」


 蓮子に近づくため入っただけだから、中学3年になってすぐに辞めた。というのも、同じクラスになって、何度かの席替えの末に隣になったのだ。部活じゃなくてもチャンスが増えた。

 それ以来、畑部とはあまり会わなくなった。


「俺、蓮子と付き合ってるんだ」

「ええ! うそ、小糸先輩とですか!」

「卒業の時に告ってさ、それで付き合うことになったんだよ」

「うそ~信じられない。だって小糸先輩、変な噂あったじゃないですか?」


 変な噂とは、付き合っても長続きしないということだ。まだ付き合って1年も経ってないから、噂の真相はわからない。


「ただの噂だよ」

「小糸先輩はモテモテでしたからね。でもまさか先輩が彼女作ってるなんて思わなかったです。私も欲しくなってきちゃったかも~」

「すぐできるでしょ」


 自覚してるのかどうかわからないけど、小柄で小動物みたいな畑部は、つい守ってあげたくなるような感じがあって、蓮子くらいモテていた気がする。


「先輩みたいな優しい人がいればいいんですけどね」

「俺? 優しいか?」


 畑部に何か優しいことをした記憶が全くない。


「先輩知らないんですか?」


 小馬鹿にしたような目で見てくる。


「先輩は優しいで有名だったんですよ。先輩のこと好きな子とかいたんですからね」

「いやいや、冗談でしょ。優しいやつなんていっぱいいるよ」


 優しいだけでモテるんだったら苦労はしない。でもちょっと、いやだいぶ嬉しいかも。

 俺は笑って誤魔化すけど、内心はめちゃくちゃ照れてしまった。


「冗談言わないですよー! 先輩、キツイ練習メニューでもずっと笑顔で、それに、体調悪そうにしてる子とか誰よりも先に声かけてて、優しいよねって皆言ってましたよ」


 や、やめてくれ! そんなこと言われたら本気で照れてるのが顔に出そうだ。

 笑顔だったのは、ただ単にテニスのユニフォームを着た蓮子があまりにも可愛くて、照れてしまったから笑って誤魔化しただけ。正直、蓮子を見るだけで、沸々とやる気が漲ってきて、どんなキツイ練習メニューでも疲れなかったのを覚えている。

 声をかけたのは、たまたま顔色悪そうに走ってたのを見たからで、放ってはおけなかった。


「や、優しいで言ったら、幼馴染はどうなの?」

「え〜綾瀬あやせのことですか? 見た目がちょっと無理なんですよね〜」

「でも優しいでしょ。背も高いし柔道やってるから強いし、背が高い人が好きじゃなかった?」

「あれは高すぎです。190もあるんですよ、私が園児になっちゃいます」


 畑部と綾瀬はいつも仲良さそうに話してるのを見てるから、てっきり好きな者同士かと思っていたけど、苦い顔をする畑部を見るとそうでもないようだ。


 それから俺は畑部に、あれ取ってください、これ取ってください、と散々クレームゲームに付き合わされた。

 途中から何やってんだろ、なんて思い始めて、最後の方には職人みたいに乱獲してしまった。と言っても設定が優しいから俺の実力ではないけど。

 景品を取るたびに、畑部がおだてるように喜んでくれるから、まぁ、悪い気はしなかった。


「すごい荷物になったな」


 取った景品はぬいぐるみばかりで、畑部が抱き締めると顔が見えなくなるくらいの大きさ。それを6つとウサギのぬいぐるみも含めたら、畑部ひとりでは持ちきれず、俺も両手に持っている始末。


「もちろん家までエスコートしてくれますよね」


 当たり前のような口ぶりで、後輩というアドバンテージを最大に活かした笑みを浮かべて見せた。

 可愛い後輩のためだ。とまではいかないけど、さすがにこの荷物を1人ではしんどい。


「いいよ、でも畑部の家知らないからエスコートは無理かな」

「じゃあ今日は覚えて帰ってください!」

「わかったよ」


 何だかんだ1時間は潰せた。さすがに弟の方も終わってる頃だろう。一応、弟に連絡しといた方がいいかもな。鉢合わせでもしたらなんか気まずいし。

 あんまり連絡取らないから既読がつくかどうかも怪しいけど、俺は『あともう少しで帰るよ』と連絡しておいた。


 それから俺は畑部とお店を出た。


 

 

 

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