第90話

リディアは廊下を走っていた。背中越しにハンナが「お行儀が悪い」とか叫んでいたが、それどころではない。あの後、シモンが来て昨夜からディオンが体調が悪く床に伏せていると聞かされたのだ。



やはりあの時、マリウスからのお茶の誘いを断って、帰ってくれば良かったとリディアは後悔した。



「ディオ……お兄様」


扉を軽くノックするが、反応はない。仕方なしに勝手に開けて中へ入る。普段なら、自分のことを棚に上げて文句の一つでも言われるだろう。


「……寝てる?」


頼りない洋燈の火に照らし出されて見えたのは、ベッドに横たわっているディオンだった。静かに近寄り、シーツからはみ出ていた手に触れた。薄暗く、顔色までは確認出来ない。ただ、冷たい手からは脈打っているのを感じた。


「……ん。あれ、帰ったの」


目を覚ましたらしいディオンが、呟いた。目は伏せたままだが、リディアだと分かっている様だ。


「うん」


「そう……」


意外だった。怒られるかと覚悟していたのに、ディオンは何も聞く事も言う事もしない。それとも、気力がないだけかも知れないが。



「何も聞かないの」


「……殿下の所にいたんだろう。なら俺にとやかく言う権利はないよ」


別に怒られたい訳ではない。だがディオンの物言いに悲しくなる。見放された……そんな風に思えた。


以前なら絶対怒っていたのに、それこそ嫌味ったらしくしつこく愚痴愚痴言って……。


「どうした?何泣きそうな顔してるんだよ」


いつの間にか目を開きリディアを見遣るディオンと目が合った。


「リディア」


ディオンは握られていた手を静かに解くと、その手でリディアの頬を撫でた。目を閉じてディオンの手の感覚を確かめる。


「殿下と、何かあったのか?それとも……いや、やっぱりいいや」


淡々と話すディオンからは、何の感情も読み取る事は出来ない。


「あーお前まさか、マリウス殿下と喧嘩でもしたとかじゃないね?王族相手に喧嘩売るとかさ、面倒臭い事するなよ」


誤魔化す様に笑って見えた。

リディアは答える代わりに首を小さく横に振った。そして、あの話の真相を聞きたいと口を開く。


「…………ねぇ」


「何だよ」


ディオンの手に自らのそれを重ねた。ただ怖くて目は閉じたままだ。顔を見る事は出来そうにない。


「ディオンは、その……私の、事……」


聞くのが怖い。でも知りたくて仕方がない。リディアは躊躇い、一度口を閉じる。だがやはり、聞かずにはいられない。


「愛している?」


ほんの少しだけ間があった。それが酷く長く感じる。


「……それは、この前言っただろう」


「それは……妹として?家族として?……それとも……女性と、して?」


触れている兄の手が一瞬震えたのを感じた。だがその意味は、リディアには分からない。そして直ぐに鼻で笑われる。


「何その質問。愚問過ぎて笑えるんだけど。そんなの聞くまでもなく、家族としてに決まってるだろう。お前は俺の妹で、それ以上でもそれ以下でもないよ」



頭が真っ白になっていく。期待が絶望に変わり、大きく見開いた瞳から涙が溢れた。






  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る