第89話


マリウスはリディアの手を掴み廊下を大股で歩いて行く。リディアは小走りで、少し後ろから前屈みになりながらついて行く。


珍しいと思った。つい先程、これまた唐突に現れたマリウスは、セドリックに対して怒りを露わにした。


リディアは、マリウスが怒っているのを初めて見た。何時も掴み所がなく飄々としながら笑っている姿しか見た事がない。


マリウス殿下も、怒るのね……。


セドリックから助けてくれた。だが彼が何故こんなにも腹を立てているのか分からない。



「……リディア嬢」


気が付けば今朝の部屋まで戻って来ていた。マリウスは、そこでようやくリディアを解放した。


「ごめんね、痛かったよね」


掴まれていた手首を見ると少し赤くなっている。結構な力で掴まれていたという事が分った。


「い、いえ……」


彼は背を向けたまま、暫し黙り込んだ。気まずい空気の中先に口を開いたのはリディアだった。


「マリウス殿下、あの」


「……分からないんだ」


独り言のように、ポツリと呟いた言葉にリディアは眉根を寄せた。



「たまに、自分が分からなくなる。以前はこんなんじゃ無かったのに」



振り返りマリウスはリディアを見遣る。その顔からは、何時もの笑みは消え、代わりに戸惑った様な困り顔になっていた。


こんな顔もするのね。


不謹慎だが、年相応に見えて可愛いと思った。この短時間でマリウスの違った一面を垣間見た気がする。




「兄上が迷惑を掛けたね、代わりに僕から謝るよ」


「マリウス殿下が、悪いわけでは……。寧ろ助けて頂いたのに」


「君を助けるのは当然だよ。だって君は僕の大切な人だからね。それにあんな人でも僕の兄だから、やはり弟としては責任を感じるよ。……君に嫌な思いをさせてしまった。リディア、先程兄上の言っていた事は忘れるんだよ」


頭を優しく撫でられる。


「さて、リディア嬢。帰るんだろう?送るよ」


やはり、脈絡がない。聞きたい事はあるが、そんな空気ではない。仕方なしにリディアは、素直に頷いた。



屋敷までの馬車の中、先程とは打って変わってマリウスは普段通りに戻っており、ニコニコと笑みを浮かべ淡々と話をしていた。


話の内容も相変わらずで、リディアには難しい事ばかりだ。半分も理解出来ない。だが、愉しそうに話すマリウスに思わず笑みが溢れた。




やがて馬車はゆっくりとグリエット家の屋敷の前で止まった。


リディアが馬車から降りると、続けてマリウスも降りた。そしてリディアへと徐に跪くと、目の前にハンカチを差し出す。


「マリウス殿下、どうなさって……」


唐突な展開に戸惑っていると、瞬間パッとハンカチは開かれた。中からはリディアの好物である乾燥した果物アプリコットが出てきた。


「頑張れそうかな」


いつか聞いた台詞に、目を見張る。そしてリディアは、ハンカチをマリウスから受け取ると大切に握り締めてはにかんだ。

その後、丁寧に礼を述べ、馬車を見送った。













「リディア様‼︎心配したんですよ‼︎」


屋敷に入ると、ハンナが半泣きになりながら抱きついて来た。何時も冷静なハンナが珍しい……どれだけ、心配を掛けてしまったのかが良く分かった。



「ハンナ、ごめんなさい」


マリウスからの遣いが来たものの、理由などは詳しく話す事はなく、ただ「リディア様は、暫くマリウス殿下がお預かり致します」の一点張りだったらしい。


確かにそれは、普通の人間ならば心配になるに決まっている……。


なんと言うか、もう少し言いようがあったのでは?と思った。少し間違えれば、誘拐とも捉える事が出来なくもない……。

流石、あのマリウスの部下だ。思わず乾いた笑いが出た。


リディアは少し悩むが、リュシアンの話を省いて、何があったかを素直に伝えた。マリウスにお茶に誘われた事、だかその最中に激しい眠気に襲われ寝てしまった事……気づいたら朝だった事だ。始めはしおらしく聞いていたハンナだったが、段々と顔つきが怖くなる。


「リディア様!お茶の席で居眠りなさるなんて、あり得ません‼︎しかも殿下の御前でなどと‼︎行儀が悪いとかの問題ではありませんよ⁉︎リディア様!聞いていますか⁉︎」


感動の場面は一変して、説教に変わってしまった。




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