#42 ~ 急転

「ぶわっぷ!?」


 冷たい感触が顔を撫でて、思わず飛び起きた。


(あれ……?)


 ここはどこだろう。

 全く見覚えのない部屋に、思わず困惑する。


「わふっ」


「おわっ、えっ、何?」


 ペロリとクロに顔を舐められる。さらにぺしぺしと何度も顔を叩かれ、ウォン、と少し呆れたようにクロが鳴いた。


 待て待て。いったい何が起こったというのだ。


 昨日、確か……そうだ、確かグラフィオスさんに連れられて居酒屋に入って、久々にビールを飲んで……あれ?

 その後の記憶がまったくない。何が起こった!?


「……まさか酒で記憶をなくすとは……」


 この体、ものすごく酒に弱いんでないだろうか。

 ということは、ここは居酒屋に併設された宿だろうか?


 部屋から出て、階段を降りると、昨日もいた居酒屋のマスターが「起きたか」と呆れたような目を向けてきた。

 ああ、これは間違いない。


「なんか、迷惑かけたみたいで……」


「構わん。珍しくもない」


 それよりも、と、彼はテーブルにごとりと携帯端末を出した。


「これはアンタのか?」


「え、はい」


 最近、自分の給料で買った携帯端末だ。

 フィジフォン、と一般には呼ばれている。俺が持っていないことを知ったイリアさんやシェリーさんと買いに行き、まあ、勧められるままに購入した機種である。


 使い方は……正直、未だに曖昧だ。電話を掛けるぐらいは出来るが……。

 こっちの携帯端末は、向こうの携帯電話とまったく違う代物なのだ。まあ、異世界なのでそりゃそうなのだが。機械音痴の気分って、こういうことなんだろうか。


「何度も鳴ってたぞ。しかも代わりに出たグラフィオスたちが、血相変えて飛び出してった」


「ええっ?」


 何事だよそれは。

 思わず端末を確認すると、そこには言われた通り、大量の着信が並んでいた。しかもすべて伯爵さまからだ。着信時間は、昨日の深夜だ。


 慌てて電話をかけなおす。


『……ユキトくんかね?』


「はい、すみません。着信に気づかなかったみたいで」


『いや……ああ……』


 おかしい。伯爵さまの声が随分と憔悴している。

 ばっと時計を見る。午前七時。大会まではまだ時間がある。


「どうしました、何かありましたか?」


『いや……それが――イリアがいなくなった』


 伯爵さまから聞いた言葉に、俺は思わず目を剥いた。



 イリアさんが失踪したのは、昨晩、午後二十時頃だという。

 最後に目撃されたのは、新街区にあるバス停近く。


 二十二時を回って帰宅しないイリアさんを心配した母親が電話をしたが、電話がつながらなかった。

 だがその時点で、伯爵邸にはある連絡が入った。シェリー・レレイからだ。


 いわく、バス停で突然「一人で帰って欲しい」と言い残してどこかへ去っていったという。用事を思い出したと言っていたらしい。

 だがその直前、少し不審な男とすれ違った。

 後で考えれば、イリアさんはその男を追っていったようにも見えたのだそうだ。


「――なんでその時止められなかったのか。申し訳ありません、伯爵……私は何とお詫びすれば」


「いや、君のせいではない。娘は確かに、自分の意思でそうしたのだろう? だとしたら、止めても無駄だったかもしれない」


 伯爵はこの時、嫌な予感を覚えつつも、大事にするつもりはなかったらしい。

 シェリーさんが、ある一言を言うまでは。


「そういえば、首元にタトゥーが……一瞬しか見えませんでしたが、多分、蝶の――」


「なんだと!?」


 突然慌てだした伯爵は、俺に連絡を取ろうとしたが不通。

 代わりに電話を取ったグラフィアスさんたちに説明をし、依頼という形で捜索を託す。


 そして今だ。


 まさかそんなことが起こっていたなんて。

 思わず血の気が引く。


「……イリアさんはまだ見つかってないんですね」


『ああ、そうだ……』


「伯爵は、蝶のタトゥーの男に覚えがあるんですね?」


 伯爵は、しばし沈黙したあとに、『そうだ』と肯定した。


「とりあえずそちらに向かいます。詳しい話はそちらで」


『ああ……頼む』


 これはやばい。完全に出遅れてしまった。

 くそっ、酒なんて飲むんじゃなかった!


 俺は店を飛び出し、全力で駆けだした。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る