◆19 ~ 冬を越えて(イリア・オーランド)
――私は、天才だと言われてきた。
剣も魔術も、幼い頃から苦労したことは一度もない。
……けれどそれが思い上がりだったことを、この一か月、何度も何度も思い知らされてきた。
「ふう……」
蛇口から出た水で顔を洗い、タオルで顔を拭いて、一息つく。
(今日も全く歯が立たなかった)
ユキトとの今日の訓練を思い浮かべる。
彼の訓練は非常に単純だ。素振りと試合。基本的にこれしかない。
何度も何度も剣を突きつけられ、転がされ、吹き飛ばされ、イリアは地面を這う羽目になった。
(先生は強すぎる)
――先の、大通りで貴族が起こした一件。
あの時、ユキトが放った殺気は、その場にいたすべてを圧倒した。
全員が気配だけで理解させられたのだ。彼の前では、自分は巨象に対するアリでしかないことを。
レーヴ君などは何度も「あの男は危険だ」と言っていた。
なるほど、恐れるのも分かる話だ。
強すぎる力は恐怖を生む。だが恐怖に呑まれる者は戦士ではない。
中庭に出る。
そこでは今も、ただ黙々と、ユキトが剣を振っていた。
――美しい、と。
何の変哲もないただの素振りが、こうも完成されている。
彼の強さの秘密は未だにわからない。基礎も、応用も、技のどれひとつをとっても、レベルが違いすぎて理解できない。
だがそれでも分かることはある。
彼の剣は、途轍もない修練の果てにあるものだ。
剣と共に生まれ、生きてきたといって過言ではないほどに。
いつか自分もと――戦士であれば誰もがそう思ってしまう、そんな剣だ。
いずれ彼は、このままではいられなくなるだろう。
学院の剣術講師なんていう枠に納まるような次元の強さではない。
父の思惑は分かっている。彼を私の盾としたいのだ。
だが、そううまくはいかないだろう。
彼の強さに国が目をつけないわけがない。ギルドもそうだ。あるいは、各地で蠢動しているという犯罪組織も――。
「ッ……」
口元で爆ぜたいら立ちに、気がささくれだつのを自覚する。
ふと、素振りの音が止んだ。
「先生」
気配を悟られたらしい。彼の気配察知もまた異次元レベルだ。
とっくに気づかれていたに決まっているが、平然とした顔で新しいタオルを差し出した。
「ありがとう」
顔の汗を拭くユキトに、ふと、この人が敵に回ったらどうするかを考えてしまった。
――ああ、無理だな。
本気の彼が敵に回ったら、どうやったって無理だ。
勝てるビジョンなど、微塵たりとも浮かばない。
ちらりと、顔を拭くタオルの隙間から、彼と目が合った。
その目は自分の全てを見透かすようで、すっと、背中を冷気が這う。
「先生、今日もありがとうございました」
悪寒を誤魔化すように頭を下げる。
すると彼も「ああ」と笑ってタオルから顔を上げる。
「イリアさんは筋がいいからね。こんなに飲み込みが早いと、教えることはすぐなくなりそうだ」
「……いえ、そんなことは」
彼はどこまでも謙虚だ。もしくは自覚がないと言うべきだろうか。
たとえば私が天才だとしたら。
彼は何と形容すればいいのだろう?
たった数日で、私の剣はすべて盗まれてしまった。盗むどころか完全に昇華し、私は同じ流派でも教えを乞う立場になっている。
もはや同じ剣、同じ流派で戦っても彼のほうが強い。
こんな理不尽なまでの存在を、私は見たことがない。同じ人間かどうかすら疑わしく思える時がある。
だけどそれが不快に感じないのは、彼が誰よりも剣に対して真摯だからだろう。
「――君は強くなると思うよ」
不意に言われた言葉に、私は心臓が跳ねた。
「君の剣はすごく綺麗だからね」
「……綺麗、ですか?」
「ああ。ひたすらに前を見ている、そんな真っすぐな剣だ」
一瞬、口説かれているのかと思ったが、全く違った。
彼の眼を見て、その言葉が本気なのだとすぐに分かった。
「真っすぐな剣、ですか」
こそばゆくて眼をそらす。
同時に罪悪感すら覚えた。
私はただがむしゃらに、強くなりたかっただけで。
追いかけるように、ひたすら剣を振るってきたから。
「先生は、どうして剣を?」
「ああ……俺のじいさんの剣を見て、綺麗だなって思ったんだ。俺もあんな風に剣が振ってみたいって。そしていつか超えてみたいと、今は思っている」
――私と同じだ。
奇妙なシンパシーのようなものを感じて、眼を瞬かせる。
もしかして、彼もそうなのだろうか。
彼もまた私の剣から、自分と同じものを感じ取ったのだろうか。
だとしたら、私の剣にも意味があるような気がして、少し嬉しかった。
「……先生。もう一度、素振りを見てもらってもいいですか?」
「うん? それはいいけど……」
私は服を着替えようと足早に踵を返す。
先生は困惑していたけれど、今はただ、剣を振りたい気分だった。
自分の部屋の鏡に映った、少しにやけた自分の頬。
私は部屋に置いた剣を取って、自分に気合を入れなおした。
夜の風は、もう冷たくはなかった。
訪れる春の気配。
――新学期が、まもなく始まろうとしている。
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