坂の途中(ノベルバー2021)
伴美砂都
坂の途中
まっちゃんからメールが届いたのは晩秋の、もう陽がかたむいていくようなお昼休みで、ラインの友達追加じゃなくてEメールなのが、まっちゃんらしいなと思った。開いてみるとたった一言で、
〈クロが二匹産んだみたいなんだよ〉
クロ、とわたしは小さな声でつぶや、きはしなかった。窓に面したカフェの一人席で、すぐ隣にも、ひとがいたから。すぐ、もう一通メールの通知が届く。
〈ごめん、ついまちがえた〉
誰とまちがえたのか、尋ねなかった。つい、というのはよく考えたら変なのに、それにも気付かなかった。反射のように、返事を送っていた。久しぶり、でも、わかったよ、でもなく、
〈まっちゃん、会いたいよ〉
今日のパスタ、きのこのペペロンチーノの少しだけ残っていたのを、残してしまおうと思っていたけど、そっとフォークですくって口に入れる。ラテアートの葉が、ゆるゆると散っている。
〈じゃあ、うちで遊ぼ〉
返ってきた文面を見て、懐かしさに、少しだけ泣きそうになった。
まっちゃんは小学三年生のときに転校してきた。中学校も一緒で、家が近所だったのもあってしょっちゅう遊んだ。まっちゃんの部屋は屋根裏みたいなところにあって、隠れ家のようで楽しかった。
まっちゃんの家も、わたしの家も、親が共働きだった。学校が終わって通学路の途中でほかの友達と別れたあと、うちで遊ぼ、とこっちを向いて笑った、小学生のまっちゃんの顔が、くっきりと思い出された。
〈すごい坂だから、まあまあ覚悟して来て〉
まっちゃんは引っ越したのだといった。土曜の昼、わたしは教えられたバス停で降り、坂の下にいた。ここから見ると勾配はそれほどでもないように思えるけれど、ずいぶんと長い坂だ。
〈右手に公園があって、ノラネコがいる〉
〈クロも、そこにいるの?〉
〈そう、かわいいよ、でも、エサをあげてる場合じゃない〉
場合じゃない、という、物語みたいな言い方を、そういえばまっちゃんはよくしていたなと思って可笑しかった。公園に猫がいるのかどうか横目で見ただけではわからなかったけれど、そのまま過ぎる。運動不足のわたしは、のぼり始めていくらもしないうちに、もう息が切れてくる。
〈途中にちょっとだけ平坦になる瞬間があるから、そこで休んで〉
のんびりとした町並みだった。歩きながら上着を脱いで、汗ばみながら坂をのぼった。まっちゃんの言うとおり、半分ぐらいまで来たころだろうか、傾斜がゆるくなる場所があった。立ち止まって、駅で買ったペットボトルのお茶をごくごく飲む。晴れていて、首もとを涼しい風が抜けた。
〈焦らないでのぼること〉
〈筋肉痛になりそうだよ〉
〈後ろを見ないでのぼること〉
〈高所恐怖症じゃないよ〉
〈後ろを見ないんだよ、坂は、行くときも帰るときも〉
ふっと一瞬、雲が、アスファルトの道路を濃く陰らせて過ぎていった。今さっきまであんなに晴れていたのに、これから天気が崩れるのだろうか。どうして後ろを見ないのか、まっちゃんは言わなかったけど、振り返るのはやめた。
〈角にパン屋さんが見えたらもうすぐだよ〉
ラジオから陽気な声が流れるパン屋さんでパンを買って出る。道は平坦になった。細い路地に入るところで、まっちゃんが手を振っている。
「かんなちゃん」
「まっちゃん!」
黒髪のボブヘアも、化粧気のない笑顔も、着心地のよさそうな黄色のワンピース姿も、変わらない。まっちゃんだ。駆け寄ろうとして、ちょっとよろっとなった。まっちゃんが、アハハと笑った。
まっちゃんの家は小さな小さな平屋だった。アパートかマンションを想像していたから少しびっくりした。中にお邪魔すると、古めかしい木の廊下に、台所の壁とテーブルはタイル張りだった。
「うわあ、すてきな家だね」
言うとまっちゃんは、ありがとうと言ってにこっとした。
「全部すごく古いんだ、使えないものもあるけど、気にしないでね」
家にはテレビもなかった。ラジオもどうやら壊れていて、もう絶滅危惧種なんじゃないかと思うようなコンポにカセットテープで、まっちゃんは古い音楽を鳴らした。
外から風の音がし、本当に雨が降るみたいだった。古い窓はガタタと揺れ、すきま風が少し入った。わたしたちは、むかし屋根裏のまっちゃんの部屋で過ごした冬のときみたいに、毛布をひっかぶった。ぬくぬくと温かかった。
角のパン屋さんで買ったパンを食べて、手土産がわりに持ってきたコーヒーを飲んだ。高級なギフトのコーヒーなんかじゃなくて安いドリップコーヒーだけど、まっちゃんはいい匂いだねと言って、鼻をくんくんさせた。
まっちゃんがどこからかトランプとすごろくと人生ゲームを持ってきて、わたしたちは小学生のころに戻ったように、げらげら笑いながらそれで遊んだ。もう二十代も半ばを過ぎたとは思えないほど、一喜一憂して大はしゃぎした。
ぎすぎすした満員電車での通勤や、テンプレートみたいな会話、上司の機嫌を損ねないようにとだけ考える会議、マウントの取り合いみたいなSNS、そんな、いつもだれかに見られているような生活に矯正されてしまっていた身体と心が、わあっとほどけていくような気持ちになった。
本当は、ずっとこうやって遊びたかったんだと思った。お洒落なカフェとかビュッフェとかアートアクアリウムとか映画館とかじゃなくて、「うちで遊ぼ」と言って、こうやって。
「大人になんかなりたくなかったなあ」
わたしがつい、そうつぶやいたとき、まっちゃんはほんの少しだけ悲しそうな顔をしたように思えた。
「かんなちゃん、次、スピードやろ」
「スピード懐かしすぎる、昼休み、よくやったよね」
「掃除時間にもやってて怒られた」
「それはまっちゃんだけじゃん」
「そうだっけ?」
「健太とかにっしーとかとやってたでしょ」
「やってた、懐かしい、みんな元気かな」
「どうだろうねえ」
「さ、勝負だ」
夜更けまでそうやってはしゃいで、わたしたちはいつしか、めいめい眠った。
明け方、ひんやりとして、目が覚めた。どこか遠いところへ来てしまったような心もちだった。辺りを見回す。少し離れたところでまっちゃんが寝ていたので、わたしはほっとした。きのう飲みのこしたコーヒーを小さな古い鍋に入れて、少し温めて飲んだ。
もう一度眠ってしまって、結局、まっちゃんの家を出たのは昼過ぎだった。もう帰らないと、とまっちゃんが急かすので、化粧もそこそこに出てきた。
きのうあれから雨が降ったのか、地面は少しだけ濡れていて、季節はまた少し冬に近づいたように、晴れた空は白っぽい光をたたえている。路地の出口まで、まっちゃんと前後になって歩いた。狭くて、ふたりは並べないのだ。
「じゃあ、ここでね」
後ろから言われて振り返って、まっちゃんの顔を見た瞬間、まぶたに熱いものがこみ上げて、わたしは泣いた。自分でもびっくりするくらい、どうっとなみだが溢れた。
「帰りたくないよう」
「だめだよ、帰らないと」
まっちゃんは優しく言った。
「ええええん」
「後ろ見ないで帰るんだよ」
「いやだよう、まっちゃあん」
「かんなちゃんならできるよ」
「まっちゃああああん」
「かんなちゃん、ありがとうね、じゃあね」
まっちゃんの手は優しいけれど力強く、わたしの身体の向きをそっと変えた。わたしは泣きながら路地を離れて、坂を降りた。振り返りは、しなかった。まっちゃんが、そう言ったから。
まっちゃんがもういないことを、わたしは本当は知っていた。大人になりたくなかったなんて、言わなかったらよかった。まっちゃんは、大人になるまえに死んでしまった。私の手には、きのうふたつ買ったパンのうちのひとつがあり、コーヒーも、ひとりぶんしか減っていない。
坂をのぼるのには時間がかかるのに、降りるのは早い。息も切れていないけれど、足の裏にじんわりとした疲労感があった。明日は筋肉痛になるかもしれない。わたしは、生きている。
公園を覗くと向こうからもこちらを見る影があった。黒猫とぶちの猫、それから、小さな黒猫と、小さなとら猫が一匹ずつ。用心深い顔をしているけれど、逃げるようではない。
ひとつのこったパンは、なにもついていない食パンだ。音を立てないように、そうっと公園のなかへ入る。遊具もなにもない、砂場と草むらだけの小さな公園。
パンをちぎって差し出すと、まず大きなほうの猫、それから、小さい子どもの猫たちが、少しずつ、そっと食べた。いつしか辺りは夕闇に包まれようとしている。わたしはもうしばらく、猫をびっくりさせないようにできるだけ静かに、ほろほろと涙をおとして泣いて、それから立ち上がった。
坂の途中(ノベルバー2021) 伴美砂都 @misatovan
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