アーダとエミリー
白市ぜんまい(更新停止)
外出の理由
この国は移民の国と呼ばれているものの、私たちのような新参者がありつけられる職は限られていた。私は小さい頃に仕立て屋の両親に連れられて、地中海から船と汽車に乗りはるばるとこの街へやってきた。しかし仕立ての仕事ならもう間に合っていたようで、私たち一家は紆余曲折を経て大地主の家に召使として雇われることとなった。私自身も例外ではなく、5歳になるとすぐに掃除の仕方と女中の心得を叩きこまれた。
地主は綺麗好きで、万が一四角い部屋を丸く掃けば即座に怒鳴るような人だった。口癖は「召使いが埃まみれで私と娘に近づくでない」
ところが、彼の一人娘はおそらく活発な性格のようでよく父の目を盗んでは外へ出ていき、そして叱られていた。父親は一歩も我が子を外に出さないように徹底していたにも関わらず、娘は毎日のように家から脱走していた。私は一人娘と関わることはほとんどなかった――というより関わると即座に父親が飛んでくるので関われなかった――ので、エミリーという名前以外彼女のことをよく知らないままだった。
転機が訪れたのはエミリーが10歳、私が12歳になったときだった。
地主親子も両親も流行り風邪にかかってしまい、私一人が看病することになった。
「エミリーお嬢様、食事と薬をご用意しました」
私はお嬢様の部屋の扉をたたいた。
「入って」
返事が聞こえたので内心ためらいつつもそのまま入ることにする。
「あの、服は清潔なものに着替えております」
部屋に入って私が最初に発言したのはこれだった。
「気にしなくてもいいわ、私はお父様ほどの潔癖症じゃないから」
エミリーは柔らかな声でそう答えた。父親は普段から刺々しい態度だが娘はそうでもないようだ。
「豆と大麦のスープと、こちらが風邪薬となります。お食事はご自分で召し上がりますか?それとも私が食べさせましょうか?」
「自分で食べられるから大丈夫」
エミリーはベッドのそばの机に置かれた皿とグラスを一瞥すると、そのまま私に背を向けた。
「これから濡れタオルを取りに行きますが、他に何か必要なものはございませんか?」
「……図書館に行ってきて」
少しの沈黙の後にかえってきた答えは、予想外のものだった。
「何か医学をわかりやすく解説している本が読みたいわ。それか、薬学でもいいわね」
「お嬢様?」
「お母様は……私を産んですぐに亡くなったの」
エミリーは小さな声で話しだした。
「病名はわからないけど、子供のころに不衛生な環境で育ったのが大人になって響いたんだろうってお医者さんは診断したらしいわ。お父様が潔癖症になったのもそれがきっかけ」
彼女の背中が徐々に震えていっている。
「お父様は私を一歩も外へ出さずに、綺麗好きの資産家と結婚させてそのまま家に閉じ込めたいようだわ。でも、私は家を出たい。学校に行って医学者になって、お母様が何の病気にかかったのかを知りたい。そして、こんな悲しい思いをする人が二度と出ないようにしたい」
しゃくり声混じりで、お嬢様はそう語った。
「えへへ、急に暗い話をしてごめんね。でも、私は家庭教師に教わることだけじゃ物足りなくて辛かったの」
そう笑って振り向いたお嬢様の頬には、大粒の涙が伝っていた。
それからというもの、私は雇い主の目を盗んではお嬢様に会いに行くようになった。買い物の合間に借りに行った本を渡すためだ。エミリーお嬢様は雨の日も風の日も、毎日真剣な表情で本を書き写すのが日課になった。これまで私はしょっちゅう彼女がこっそり外出していたのは単に彼女がやんちゃな性格だからかと勘違いしていた。しかし、実際の理由は図書館に行くためだったらしい。今の私にとって彼女は勉強熱心で心優しい、尊敬すべき人だ。私も一緒に大学を目指すか、あるいはずっとお嬢様に使えて彼女のことを支えるかで迷っている。
ところで。お嬢様と関わりだしてからしばらくして、私は時折激しい動機と微熱に襲われるようになった。咳やくしゃみは出ていないから医者からは健康だと診断された。日常生活に支障はないが、この謎の病にかかって一年がたつ。いつかこの病の原因も彼女に研究してもらえるのだろうか。
アーダとエミリー 白市ぜんまい(更新停止) @kano5saaan
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