ええこと記念日

月之影心

ええこと記念日

 俺はテーブルに置かれたグラスを手に取り、真っ白な泡を湛えた黄金色の液体を口に運び、グラスの半分くらいを口の中に流し込んだ。


「あはは!父ちゃんおひげ~!じいちゃんになった~!」


 娘が口の周りと胸元をケチャップだか何だか分からない汚れでぐちゃぐちゃにしながら、俺を指差して大笑いしていた。


「じいちゃんやぞぉ~!」


 グラスを置いた俺は、娘に滑稽な顔を作って見せると、さらに大笑いして持っているフォークを振り回して刺さっていたササミをすっ飛ばしていた。


「うわぁぁぁ!何か飛んできたぁぁぁ!」


 部屋に料理を持って入って来た嫁に飛んで行ったササミが直撃する。

 嫁はテーブルに料理を置くや否や、娘の脇に手を挿し込んでこちょこちょやったものだから、大暴れした結愛がテーブルを蹴るわフォークをぶん投げるわで、ちょっとした戦場みたいになった。

 ビールの入ったグラスを退避させながらその様子を見て笑っていた。


「ちょっと!笑ってないで!飛んでいったおかず拾ってよ!」


 嫁が大笑いしながら俺に言った。


 これは何て言う天国なんだろう?


 可愛らしい娘の笑顔と綺麗でしっかり者の嫁に囲まれ、今までの人生は何だったのだろうかと思いに耽る今日は『ええこと記念日』だ。




**********




つぐみ美愛みあです。」


 小学4年になった新学期にその子はうちの向かいの家に引っ越して来た。

 ほとんど表情が読み取れなかったのは緊張していたからだろうか。

 『無表情』ってこういう顔を言うんだなと子供心に思っていた。


 ところがその無表情にも関わらず、美愛は俺が今までに出会った女子の中で誰よりも可愛らしく映り一目で好きになっていたが、悲しいかな、小学生くらいの男の子ってやつは好きな子に『好きだ』なんて言えるわけもなく、ただ美愛の姿を目で追うくらいしか出来なかった。




「兄ちゃん、美愛ちゃんの事好きなんか?」


 小学6年の頃、4つ下の妹の沙織さおりにそう言われた時は心臓が止まるかと思う程に驚いた。


「なっ!?なななな何でそんな事!……ちっ違うっ!そんな事ない!」

「あははははっ!兄ちゃん顔真っ赤になっとる!」

「うっうるさいっ!」

「うちも美愛ちゃんのこと好きやから一緒に言いに行こうや。」

「あっあほかっ!そそそんなんいい言えるわけないやろっ!」


 妹の『友達として好き』を聞き違えて狼狽えていた記憶は一刻も早く消し去りたい。




 ある日、近くのスーパーに買い物に行った帰り、家の近くの公園を抜けようと足を踏み込むと、何やら数名の男子が何かを囲んでいた。

 よく見ると同じクラスの奴等だった。

 何だろう?と近付いてみると、囲みの中に誰かがうずくまっているのに気付いた。

 美愛だった。

 状況からして何か難癖を付けて虐めていたのだろう。

 美愛は関東の方から越してきて2年程になるが、言葉遣いが向こうに居た時そのままのようで、それが『癪に障る』と弄る奴が結構多かった。

 俺は当時、親父方の爺さんから合気道を習っていて、何て言うかそういうのはどうにも許せないところがあって、学校では割と我慢していたんだけどその日はスイッチが入ってしまった。

 子供からすれば空手も合気道も拳法も『格闘技』で括られていて、『喧嘩したら勝てない』と思ってくれていたのが幸いした。

 結局、暴力沙汰にはならず口喧嘩みたいな感じで終わったが、その後は何となく俺もクラスからハブられていた気がする。

 美愛はそいつらに柔らかいボールみたいなものを顔にぶつけられてびっくりして泣いていただけのようで、怪我とかはしていなかった。


「ありがとう……」


 美愛は相変わらずの無表情の中にうっすらと笑顔を浮かべてそう言っていた。




 中学校は3つの小学校から生徒が集まる。

 制服が変わり、美愛は前よりも数倍可愛らしく見えた。

 そう見えていたのは俺だけではなかったようで、美愛はかなりの人気者だった。

 中学生になっても東京弁が抜けなかったので多少は弄られていたようだが、それでも美愛の周りにはいつも誰かが居た。

 それとは逆に、俺はどちらかと言うと一人で居る事が多く、相変わらず合気道は続けていたので部活にも入らず、友達と呼べる友達を作らないまま過ごしていた。


 1年の時にちょっとヤンキーっぽい3年の先輩数名に呼び出された事がある。

 『俺の目付きが気に入らん』という因縁を付けてきただけだった。

 勿論、こんな相手に合気道を披露するわけにもいかず、何故か一方的に殴られるだけ殴られて済んだ。


 教室に戻ったら友達の居なかった俺に声を掛けてきたのは美愛だった。


「どうしたのそれ!?」


 顔中の痣を見て驚いた顔をしていた。


「ん……ちょっと転んだんや。」

「転んで出来る痣じゃないよそれ!保健室行こ!」

「いけるって。」

「ダメ!」


 美愛が教室の中に響くほど大きな声を出したのには驚いたが、次の瞬間には手首を掴まれて教室から引っ張り出されていた。

 教室からはヒソヒソ話と『ひゅーひゅー』という冷やかす声が聞こえていた。


 保健室に行ったが先生が居なかったので、美愛が薬箱を出してきて俺の傷を消毒したり薬を塗ったりしていた。

 美愛の顔が間近にある事にドキドキしていたのを覚えている。


「ねぇ、勇司ゆうじくんって格闘技やってるんでしょ?」

「合気道な。」

「何でそのあいきどーやってるのにこんなに怪我させられちゃうの?」

「何でって言われてもな……抵抗せんかったら誰でもこうなるで。」

「何で抵抗しなかったの?ひょっとして『格闘技やってる人は素人さんに手を出したら捕まる』とかいうやつ?」

「格闘技やってへんやつでも人に手ぇ出したら捕まるからな。」

「それもそうか。」


 美愛は少し天然の入った口振りで、顔中絆創膏だらけにされた俺に話し掛けていた。

 俺は何となくその時の空気というか雰囲気というか、凄く楽しかったと記憶していて、改めて美愛の事が好きなんだなと思っていた。




 中学後半は、高校受験の勉強で遊ぶ暇も無く、今まで通り合気道の稽古も思うように出来なかったが、何とか俺も美愛も地元の公立高校に進学する事が出来た。


 その頃だっただろうか。

 俺は美愛への想いがかなり大きくなっていて、高校に入ったら美愛に告白しようなんて思っていた。




 だが、不幸というものが突然、且つ立て続けにやってくるのは今も昔も同じだ。


 高校の入学式が終わり、相変わらず親友と呼べる程の友達は居なかったが何となくクラスに馴染んできていた頃、親父が急逝した。

 心筋梗塞だった。

 朝、普通に出社して行ったが昼前にお袋に会社から連絡が入り、突然倒れて救急車で搬送されたと。

 一番に病院に駆け付けたお袋すら、着いた時にはもう……という感じだったらしい。

 お袋からの連絡を受けて俺も病院に自転車で駆け込んだが、目を腫らして呆然とベッドの横に座るお袋と、わんわんと声を上げて泣きじゃくる妹を前に、俺はただ立ち尽くすしかなかった。


 通夜と葬儀には美愛一家も参列してくれた。

 美愛は俺を見ると近付いて来て、無言で俺の手をきゅっと握ってくれた。

 俺は美愛の顔を見て弱々しくはあっただろうけど、その時作れる限界の笑顔で『ありがとう』とだけ言っていた。


 親父の保険金で当面の生活費や学費は心配無かったが、大学へ行くとなると国公立以外は厳しいだろうと何となく思っていた。

 お袋は親父の生前から勤めていたスーパーのパートに加え、夕方から夜中までもう一つ働きだしていて、『あんたは何の心配もせんでええ』と笑顔で言ってくれていたが、子供なりに少しでも家計の負担を減らそうと自分の小遣いはアルバイトをして稼ぐ事にしていた。


 俺が高3になった頃、今度はそのお袋に癌が見付かった。

 余命1年と言われていたが、その年の秋、半年経たずして逝ってしまった。

 俺はこの先どうやって生きていけば良いのか分からず途方に暮れた。

 妹は親父の時と同じようにただただ泣き明かしていた。


 お袋の妹にあたる叔母が独身だった事もあって俺たちを引き取る話もあったのだが、お袋の葬儀の時、その叔母や親父方の親戚が遺産の件で揉めていたのを聞いていたので『俺たちだけで生きて行く』と引き取りを断った。

 勿論、『子供だけでは絶対に無理だ』と親族一同から猛反対されたが、俺に合気道を仕込んだ爺さんが『何でもやってみな分からん。やらせてみてアカンようになったら手ぇ貸してやったらええやないか。』と皆を黙らせてくれた。


 俺は大学への進学を辞めて就職する事にした。

 生活費の事もあったが、俺が大学に行くと妹が高校やその先の進路を選択する幅が狭くなると考えた結果だ。

 合気道の稽古が終わってその事を爺さんに伝えると、『勇司が自分で決めたんならそんでええ。』と優しい笑顔で言ってくれた。


 その頃だっただろうか。

 美愛がよくうちに来て妹に勉強や料理を教えてくれていた。


「沙織ちゃんって頭いいのね。凄く飲み込みが早いのよ。」


 俺たち兄妹と美愛の3人で妹が作ったという晩飯を食べている時に美愛が言っていた。

 妹は『えへへ』と照れたように笑っていた。

 こうして見ると、美愛と妹は本物の姉妹のように見えてくるから不思議だ。

 実際、妹も美愛には随分懐いていて、前は『美愛ちゃん』だったのが今では『美愛姉』と呼ぶようになっていた。


 ある日、妹が俺をチラ見した後美愛の顔をじっと見て唐突に言った事がある。


「美愛姉、うちで住まへん?」

「え?」

「は?」


 中学生ってもっと物の道理とか分かってると思っていただけに、俺は妹がどういう意図を持って言っているのか分かっているつもりだった。


「美愛姉がうちに住んでくれたら勉強も料理もいつでも教えてもらえるし、何より美愛姉がおってくれたら嬉しいし!」


 違った。

 単純に美愛と一緒に居る時間がもっと欲しいという事だったようだ。

 俺は極力冷静な素振りで椅子に座り直したが、その時ちらっと見た美愛は顔を真っ赤にして何だか今まで見た事の無いようなニヤケ顔になっていた。


 ただ、俺は早々に近所の工場に就職が決まっていて、妹は次が中学3年という事でそんなにドタバタした雰囲気ではなかったが、美愛は地元の国立大学を目指していたので次第にうちに足を運ぶ機会は減り、冬休みに入ると受験の追い込みで殆ど顔を合わさなかった。

 妹は『美愛姉今日も来ないね』とか寂しく言っていたが、事情を話すとおとなしくなっていた。




 翌年の春になって、俺は仕事が始まり、妹は早速受験勉強だと気合を入れ、美愛は志望通りに地元の大学に通うようになっていた。


 俺の仕事は文字通り『体力勝負』みたいな感じだったが、爺さんに鍛えられていたのもあって割と順調にこなしていた。

 大学生になった美愛だが、相変わらず暇があればうちにやってきて妹に勉強を教えたりして仲良くやっているようだった。


 特に変わった事もなく過ごしてきた夏の日。

 仕事から帰って来るとキッチンの椅子に妹が座っていた。

 いつもなら自分の部屋に籠って勉強しているのに。


「ただいま。どないした?こんな所で。」

「あ、兄ちゃんおかえり。あのな……」


 そう言って机の上に置かれた一枚のプリントを指差した。

 プリントの一番上には『三者面談のお知らせ』とあった。


「あ~もうそんな時期なんか。懐かしいな。で、いつあるんや?」

「来週なんやけど……」

「何か問題か?」

「うん……うち……兄ちゃんみたいに働こうかと思ってんねん……」

「え?」

「うちが働いたら……家計ももっと楽になるやろ?せやから……」


 声が小さく震えていた。

 妹はまだ中学生だ。

 友達も居るだろう。

 まだまだ勉強したい事もあるだろう。

 本心で言っているのでは無い事は明らかだ。

 だがこういう時、『親』の立場ではどう言えばいいのだろうか。

 親父なら……お袋なら……そして……爺さんなら……。


「なぁ沙織。」

「何?」

「沙織がそう思ってるんならそんでもええ。けど俺が思ってる事も聞いてくれるか?」

「兄ちゃんの思ってる事?」


 俺は沙織の隣の椅子に座って話を続けた。


「うん。俺な、沙織をちゃんと高校行かせて、美愛ちゃんお墨付きの頭でちゃんと大学行かせて、ええ会社に就職させたいって思っとるんよ。」

「……」

「んで、俺よりもええ男見付けて結婚して、結婚式で沙織をボロ泣きさせてやりたいんや。」

「兄ちゃん……」

「あんな、『ええ男』っちゅうんはええ会社に居てるんや。せやから、俺の思っとるようになる為には、沙織はもっと勉強してくれな困るんや。」


 沙織は目を真っ赤にして俺を見ていた。


「金の事は心配せんでええ。沙織がホンマにしたいようにしてええねん。自分に嘘吐いたらアカンで。」


 既に沙織の頬には涙が伝い流れていた。


「兄ちゃん……分かった……ありがとう……うち……もっと勉強したい……」

「うんうん。そんでええ。いっぱい勉強してええ高校入ってええ大学行ってええ会社目指せ。」


 後日の三者面談で、妹は県内屈指の進学校を志望した。

 担任は『今のままの調子で勉強を続ければ余程の事が無い限り大丈夫』と太鼓判を押してくれた。

 妹はそんなに頭が良かったのかと改めて驚いていた。

 驚きを隠さずその事を美愛にも伝えたが、美愛は『それが何か?』みたいな涼しい顔で『沙織ちゃんなら余裕よ』と、美愛まで妹に太鼓判を押していた。




 美愛や担任の言っていた通り、妹はその高校に合格した。

 妹は『あの試験問題だとみんな合格しちゃうんじゃない?』とか言って超余裕をかましていたが、後日その高校の倍率が3倍を超えていた事を聞き、我が妹ながらタダ者ではないと感心していた。

 美愛は『ここから本番よ』と一切気を緩ませるつもりは無いようだった。


 俺は相変わらず忙しく仕事に励んでいた。

 体力がついて行かず多くの同期は辞めていってしまったが、上司や先輩に可愛がられ、後輩も増えてきて以前よりも仕事は充実していた。


 妹はほぼ部屋に籠りきりになっていた。

 別に虐められてとかではなく単に勉強が大変なだけのようで、毎朝毎晩一緒に食事はするし明るく笑いもする。

 学校の文化祭に呼ばれて行った時は、学生とすれ違うたびに声を掛けられて元気に返す妹を見ていたので心配は無かった。


 美愛はひょっとしたら自宅よりうちに居る時間の方が長いんじゃないかと思うくらい頻繁にやって来ていた。

 と言っても、殆ど妹の部屋に籠っていて俺と話す事はあまり無かったが。


 それでも俺と妹、美愛はそれぞれの環境で順調に過ごしていた。




 月日は流れ、俺は就職して4年目、妹はいよいよ大学受験、美愛は就職活動を始める時期になった。

 美愛はあっさり地方銀行で内定を受けて就職を決めた。

 お祝いしようと提案したが、美愛が『沙織ちゃんの邪魔しちゃダメ』と断られてしまい、いつもよりおかずが一品多い程度の夕食を3人で摂るだけに留めた。


 美愛も認める通り、妹はかなり優秀らしい。

 3年になって早々にあった模試で、美愛の通う大学にあっさりA判定を出していた。

 これには美愛も驚いていた。


「もっと上目指すか?」

「ううん。うち、初めっから美愛姉と一緒の大学狙ってたからええねん。」


 中学生の時、三者面談前に自分に嘘を吐いて『働く』と言っていた時とは真逆の表情だった。


「沙織がホンマに進みたい道なんやったら兄ちゃんは何も言わへん。」

「うん!」


 妹は嬉しそうにそう言っていた。




 そんな日を送っていたある日、いつものように仕事から帰ると家に妹は居らず、美愛だけがリビングでテレビを観ていた。


「ただいま……あれ?沙織は?」

「おかえり。ちょっと晩御飯の買い出しに行ってもらってるの。気晴らしも兼ねてね。」

「ふぅん。まぁええか。」


 そう言って一旦部屋に入り、着替えて再びリビングに戻った。

 美愛は俺が帰って来た時と同じようにテレビを観ていたが、俺がリビングに入るとテレビを消して俺の方を見てきた。


「テレビ観んの?」

「うん。ちょっと勇司くんと話がしたいなって思って。」

「俺と?そらかまへんけど何の話?」


 美愛はソファの上で背筋を伸ばし、小さく咳払いをした。


「正直に答えてくれていいからね。」


 少し緊張したような顔の美愛が俺の顔をじっと見て言った。


「勇司くん、私がこの家に来る事、どう思ってる?」

「え?どう……って……沙織の勉強教えてくれるし料理も上手いからめっちゃ助かってる……って思ってるけど……何なん?」

「じゃあさ……」


 美愛が大きく深呼吸をした。








「私がこの家に住みたいって言ったら……どう思う?」








「は?」








 俺は美愛の言おうとしている事がさっぱり分からず、脳内の処理が追い付いていない状態になっていた。


「美愛が……うちに住む?え?どういう事?」

「いいから……思ったまま答えて。」


 顔を赤くして俺の顔をじっと見る美愛の唇が小さく震えていた。


「え……あ……う、うん……そ、そらぁ嬉しいって思うわ。」

「どうして?」

「どうして……って……ホンマ何なん?」

「いいから。」


 口調は多少苛ついている感じはしたが、相変わらず緊張の面持ちは変わらず、さすがの俺も何となくではあるが美愛の言わんとしている事が分かってきた。

 と同時に、子供の頃から想いの強弱はあれど、ずっと想っていた人が一緒に住む事を考えれば、これは人生最大のチャンスなのではという思いに至った。


「う、嬉しいんは……そらぁ……み、美愛のこと……惚れてるからに決まってるやろ……」


 言ったは良いものの、今度はこっちが照れ臭くなって美愛から目を逸らしていた。


「ホントに?」


 美愛がぽつりと訊いてくる。


「あ、あぁ……正直に答えろ言うたから正直に言うた……ホンマや……」


 部屋の中に静寂が訪れた。

 物凄い長い時間だったように感じられた。


「し、仕方ないわね……」


 ようやく聞こえるくらいの声量で美愛が呟くように言ったので、俺は横目で美愛の方を覗き見た。

 美愛は顔を両手で隠していたのでどんな表情なのか分からなかったが、やがて両手をぱっと開くと初めて見せたんじゃないかと思うくらいの笑顔になっていた。

 顔は真っ赤だけど。


「それじゃあ私、ここに住むっ!」

「はぁっ!?なっ……何急に言うてんの?」


 美愛は俺の手を両手で掴むと、きゅっと力を入れて握ってきた。


「私は勇司くんと一緒に居たいの。私も勇司くんが好きだから。」


 俺の心臓が大胸筋を突き破って出て来るのではないかと思うくらいに鳴った。

 自分の好きな子……ずっと想いを寄せていた子が自分の事を好きだと言ってくれたのだ。

 テンションが天井を突き破ってしまうのではないかと思うくらい上がっていた。


 だが、現実がそんな感情だけで上手くいく事は無いのも分かっている。


「あ、ありがとう……嬉しい……嬉しいけどな……その……やっぱこういうんは親とかにちゃんと話してからやな……」


 思い止まって欲しくないのに思い止まらせようとするような事を言い、言葉を発すれば発するほど自分が何を言いたかったのか分からなくなってくる。




 と、いきなりリビングのドアが大きく開かれ、満面の笑みを浮かべつつも目に涙を浮かべているような妹が入ってきた。


「兄ちゃん!やったな!」


 言いながら俺の方ではなく美愛の方に駆け寄り、美愛に抱き付いた。


「美愛姉おめでとう!」

「ありがとう!沙織ちゃん!」

「ちょ……?え?何?」


 美愛に抱き付いたままの妹が手に持ったスマホを俺に見せた。


 【通話中】


 そして美愛もまた、テーブルに置かれたスマホの画面を俺に向けた。


 【通話中】


 双方のスマホがLINEの通話中になっていて、妹のスマホには美愛の名前が、美愛のスマホには妹の名前が出ていた。


「『美愛のこと惚れてるからに決まってるやろ』やって!」


 妹が俺の口真似をした。

 さっき、俺が美愛に言った言葉そのままを。


「なっ!?さ、沙織……お前……」


 俺は恥ずかしさの余り、顔に火が点いたかと思うほど熱くなっていた。


 そして追い打ちに……




「美愛をよろしくね、勇司君。」


 聞き覚えのある声がリビングの開け放たれたドアの方から聞こえ、慌ててその方向に顔を向けると、そこには美愛の母親がニコニコとした笑顔で立っていた。


「えっ……お、おばさ……ん……ま、まさか……」

「ええ、隣の部屋で沙織ちゃんと一緒に全部聞かせてもらったわよ。」

「ぅえぇぇぇっ!!??」


 そしてさらに美愛の母親が俺の傍まで来て、手に持ったスマホを黙って俺に手渡した。

 画面は通話状態で、『パパ』と出ていた。


「っっっ!!!???」

『もしもし。』


 スピーカーの奥から美愛の父親の声が聞こえていた。


「はっはいっ!あ、あのっ!ゆゆ勇司です……っ!」

『話は妻から聞いたよ。』


 低く落ち着いた声に、背筋がサーっと冷たくなる感じがした。


『勇司君の正直な気持ちかい?』


 もう後には引けないと覚悟を決めた。


「は、はい……嘘じゃないです……」


 少しの沈黙があった。


『分かった。じゃあ……』


 スピーカーの奥から小さく咳払いが聞こえた……そして……


『今から勇司君、私の事はお義父さんと呼んでくれるかな?』

「え……?」

『呼べないのかい?』

「あ……い、いえ……そんな事はない……です……おj……お、お義父さん……」

『ありがとう。じゃあ今晩はうちでご飯食べよう。沙織ちゃんと一緒においで。』

「あ、ありがとう……ござい……ます……」




 電話を美愛の母親に返すと、俺はその場にぺたっと座り込んでしまった。

 それを見て、美愛も妹も美愛の母親も大笑いをしていた。

 俺は最後まで何が起こったのか理解出来ずにいた。


 小説でも映画でもそうだが、展開が早過ぎるとそれを理解しようとする脳との間でタイムラグが生まれ、何が何だか分からなくなる……なんて当たり前の事ではあるが、まさにその日の俺はそれそのものだった。


 美愛の母親は『さぁ忙しくなるわっ!』とか言いながらさっさと帰ってしまうし、美愛は顔を真っ赤にしたまま妹の頭を撫でているし、妹はぽろぽろ涙を流しながら嬉しそうに美愛に抱き付いているし。

 その晩、俺と妹が美愛の家を訪れると、早速玄関先で美愛の父親……もとい『お義父さん』が出迎えてくれて俺の両手をとって『娘を頼むよ』とか言ってるし、次いで妹を連れてリビングの方へ行ってしまうし。


 とにかく疲れる一日を過ごし、その日は取り敢えず美愛は実家に、俺と妹は自宅へ帰ることになった。




「兄ちゃん、良かったな。」

「何かよぉ分からんうちに話進んでついて行けんかったけどな。けど何であんな事したんや?」

「うん……」


 妹は俺の顔を見ながら言った。


「兄ちゃん、ずっと前……うちが美愛姉に『うちで住まへん?』って訊いた事あったん覚えとる?」


 確か妹がまだ小学生くらいの頃だったと思う。

 何となくぼんやりとそんな事を言っていたような記憶だけはあった。


「あれな……美愛姉と兄ちゃんが一緒になってくれたらうちも嬉しいなぁって思って言うたんや。」

「な、何でまた?」

「何でて、兄ちゃん、美愛姉の事好きやったやんか。うちも兄ちゃんの事好っきゃから一緒に暮らしてて、好きな人と一緒に暮らせるって嬉しい事なんやなぁって思ったからや。」

「そんな事考えとったんか。」


 微妙に妹の声が震えていた。

 俺は妹の頭に手を乗せて撫でてやった。


「うん……うちら父ちゃんも母ちゃんもおらんで辛い事もいっぱいあったけど、好きな人と暮らしてたら、そういう辛い事忘れられる時間も出来るんやなぁって。あ、せやから言うて父ちゃんの事も母ちゃんの事も忘れた事は無いからな。」

「分かってるって。ただ、一つだけ約束してくれへんか?」

「何?」

「沙織がええ男見付けて結婚するまで、うちの家で一緒に住んでくれ。」


 妹は目を真ん丸にして俺の顔を見ていた。


「どうせお前のこっちゃ。美愛ちゃんうちに来たら自分邪魔になるんやないかとか勝手に考えて、大学入ったら家出ようとか思ってたやろ。」

「な、何で分かったん?」

「ははっ!何年沙織の兄貴やってると思ってんねん。さっき『好きな人と一緒に暮らせるって嬉しい事や』って言うた時、俺と美愛ちゃんだけが住んでる家を想像しとったやろ。」

「げ……バレとるやん……」

「そんなんしたら美愛ちゃん怒るし、それに……」

「それに?」

「俺はもっと怒る。沙織が好きな人と一緒に暮らせんかったら沙織が自分で言うた事と矛盾するやろ。そんな曲がった事するんやったら美愛ちゃんがうちに住む話は最初から無しや。」


 妹はにこっと笑顔になって俺を見上げていた。


「何やさっきの兄ちゃん……爺ちゃんみたいやった。」

「あはは!自分でも『あれ?今の?』とか思ったわ。」


 その晩、子供の頃ぶりに親父の使っていた部屋に俺と妹の布団を並べ、同じ部屋で枕を並べて眠った。




 美愛がうちに来て9ヶ月ほど経った。

 美愛が大学の卒業式を終えて帰って来た時、俺はこっそり用意していた指輪を渡して正式にプロポーズした。

 美愛は泣いて喜んでくれた。


 妹の高校の卒業式も同じ日で、帰宅して真っ先に美愛の左の薬指に着けていた指輪を見付け、玄関先で美愛と抱き合って喜んでいた。


「なぁなぁ!これで美愛姉ってホンマのお姉さんになるんやろ?うわぁぁぁ!うちめっちゃ嬉しいんやけどぉ!」

「あはっ!ありがとう沙織ちゃん!でも私は私だから今まで通り仲良くしてね。」

「当たり前やん!いや……今まで以上に仲良ぉしよな!」


 子供か……と突っ込みを入れたくなるほど妹ははしゃいでいた。


 その晩は、『美愛の卒業祝い』『沙織の卒業祝い』そして『俺と美愛の婚約祝い』と3つの祝い事を一緒に美愛の実家でやった。

 お義父さんが妹にビールを勧めようとしてお義母さんに怒られていた。

 酔ったお義父さんに『娘をよろしく頼むよ』と5回以上言われた。

 宴は夜遅くまで、早々に退場したお義父さんを除いて続いた。

 俺は、お義母さんにしこたま飲まされ、これから始まる幸せな日々を夢に見ながら眠ってしまった。




 俺が社会に出て6年目。

 美愛が社会に出て2年目に入った頃、結婚式などはまた後日という事にして美愛はうちの籍に入った。

 1回だけ妹が家を出て行く話をしたが、俺以上に美愛が怒っていた。


「出て行きたいなら、沙織ちゃんが、お兄さんよりも、私よりも、好きだと言える人をここに連れて来なさい。」


 静かに、無表情に、抑揚の殆ど無い声で……。

 妹だけじゃなく、それを横で見ていた俺も正直震え上がった。

 美愛が真剣に怒ると多分俺でも叶わないと思った。


 相変わらず美愛と妹は仲良くやっている。

 時々、美愛と妹が一緒に住んでいて、俺が居候しているような気分になる事があるくらいだ。




 社会に出て8年目。

 美愛の懐妊が分かった。

 案の定というか、妹は大喜びしていた。


「え~?うちおばちゃんになるん~?まだぴっちぴちの大学生やのにぃ~。」


 と言いつつ顔は緩みまくっていた。

 『確かに最近腰回りがぴちってきたな』というボケは封印しておいた。




 社会人8年目があと少しで終わる頃。

 妹の大学の卒業式の日。


 娘が生まれた。


 ちょうど前の晩に『そろそろ予定日やな』と言っていた矢先だった。

 仕事中に電話が鳴り『陣痛が始まったから病院に向かっている』と美愛本人から連絡が入った。

 俺は上司に話を付け、半休を取って病院に駆け付けた。

 病院には既に義両親が来ていて、不安そうなお義父さんと相変わらず笑顔の絶えないお義母さんの表情が対照的だなと思った。


 出産は立ち合いを希望し、分娩室に入って20分もしないうちに生まれた。

 俺は美愛に『ありがとう』と言って、周りに助産師が居るにも関わらず美愛のおでこや頬にキスをしてしまい、美愛に照れながら怒られた。


 美愛は一週間程入院をするようで、久し振りに兄妹2人だけで過ごした。


「赤ちゃん可愛かったなぁ。」

「そやな。俺らもあんなんやったんやな。」

「名前考えたん?」

「あぁ、もう決めてる。」

「何て名前?」




結愛ゆあ


 『愛』が『結』ばれますように。

 生まれて関わる全ての『愛』情と『結』びつく人生を送ってくれますように。

 そんな願いを込めて、美愛と一緒に考えた名前だった。




「結愛ちゃんかぁ……ええ名前やねぇ。」

「せやろ。」

「せやけど……ふふっ……凄いなぁ……」

「ほんま、命って凄いわ。」

「違うがな。」

「ん?」


 妹は手帳を鞄から出してペラペラと捲りながら『これも』『これもや』とか言っていた。


「どないした?」

「兄ちゃんびっくりやで。」

「何がや?」

「美愛姉が引っ越して来たん3月の20日やねん。これは美愛姉に聞いたんや。」

「うん。」


 妹は鞄からいくつも手帳を取り出してはページを捲り、一つ一つ説明していった。


「兄ちゃんと2人だけで暮らし始めたんが10月20日。うち、日記付けだしたんこの頃やってん。」

「へぇ。」

「んでな、兄ちゃんが美愛姉にプロポーズしたんも3月20日。これはうちの高校の卒業式の日と一緒やった。」

「お、おぅ……」

「兄ちゃんと美愛姉の結婚記念日が6月の20日やろ?」

「せ、せやな。」

「で、結愛ちゃん生まれたん3月20日や。」

「全部20日なんか……」

「な?凄いと思わん?」


 運勢とかゲン担ぎとか全く気にしないクチなのだが、ここまで揃うと何だか20日という日が特別な日のように思えてくる。


「20日って何かええことある日なんかもしれんな。」

「かもなぁ。」

「20日は『ええこと記念日』ってどぉや?」

「何やそれ?けど悪ぅはないな。」


 得意気な顔になっている妹が言った。


「それで一つ話があるんやけどな。」

「何や?」

「来月でもええんやけど……その……」

「ん?」




「兄ちゃんと美愛姉に会って欲しい人が居てるんやけど『ええこと記念日』に会ってくれへんかな?」




 早口で一気に言う妹の顔は、照れて真っ赤になっていた。

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