金の穂の物語
江山菰
第1話 麦の国
昔々、あるところに小さな国がありました。
その国には、お百姓さんは少ししかいませんでした。国じゅう見回しても、畑はほんの少ししかありません。
かといってみんな食べるものも着るものもなく困っている、というわけではありません。よい服を着て、ちゃんとパンもバターも玉子も食べてられている人がほとんどでした。
それはなぜかというと、その国ではきれいな宝石がとれたからです。いくつもの鉱山でたくさんの宝石が掘り出され、そのままでも、もちろんきれいに磨いて細工した指輪や首飾りも、他の国に飛ぶように売れていきました。宝石が売れたお金で周りの国々から小麦や牛や豚を買い集めて食べているうち、この国の民草は土や生き物に触れることは不潔だとさえ考えるようになっていたのです。
その国の王様の一族は、最高の宝石をふんだんに身に着けて、いつもきらきらとした装いをした美しい方々でした。王様のお一人目のお妃様はお姫様をお産みになるときに亡くなられ、後添いの今のお妃様との間にも一人の王太子様とたくさんのお姫様がおいでです。
お姫様たちにはそれぞれ年端も行かぬうちに素晴らしい嫁ぎ先が決まり、嫁ぐ日までお父上お母上とお幸せに暮らしていらっしゃいます。
しかし、ただ一人、先のお妃様が遺された姫君だけがどこへ嫁ぐとも決まっていません。それは、お姫様はすこぶる足弱で、杖がないと歩けないというお体だったせいなのでしょう。しかもお姫様は月足らずでお生まれになったので、王様のお子ではなく一族から疎まれている、という噂が囁かれていたせいかもしれません。
さて、大変なことが起こりました。
夏の始まりから終わりまで雨が降り続き、収穫のときには麦が腐ってしまうということが二年も続いたのです。そして、多くの国で麦だけでなく、りんご、ぶどうなどなど、満足に収穫できなくなってしまいました。
そうなると、自分の国のことだけでどこも精いっぱいで、宝石を買ってくれるどころか食べ物を売ってくれる国などありません。あっという間に、飢えの苦しみが始まりました。
ある日、すっかり困ってしまった王様は、一番上の姫君を呼んでこう言いました。
「南のほうに、百姓ばかりが集まった国がある。何年か前から下賤の者どもが荒れ地に集まって畑を作っておったが、とうとうこの艱難の年に、麦を売ってやるのと引き換えに一つの国として周りの国々に認めさせおった。まったく人の弱みに付け込んで、卑しいやつらだ」
お姫様は何と返事してよいかわからず、黙って聞いています。
「今、多くの国が使者を立てて、そこから小麦を買いつけておる。我が国は随分立ち遅れてしまった……あんな者どもに腰を低くするのは不本意ながら、背に腹は代えられぬ。姫よ、その国へ嫁いでくれぬか。そしてこの国を飢えから救ってくれ」
お姫様はびっくりして石のように固まってしまいました。
お百姓というのは野卑で奴隷のような人々だと聞いています。王を名乗っていたとしても、結局はそんな人たちの頭領。単なる成り上がり者にすぎません。そんなところへ嫁いでいくなんて、目の前は真っ暗です。
しかし、継母や弟妹に遠慮しながら人形のように生きてきたお姫様のことです、父王様の決めたことをひっくり返すなんてできません。
お姫様はやっとの思いで、わたくしが役に立てるのなら喜んで、と答えましたが、そのあと何日も眠れない日々が続きました。
あっという間に、お輿入れの日はやってきました。
一石二鳥の厄介払いができたお父上お母上、そして弟妹たちまでが、喜びの笑顔で送り出してくれました。
道中、馬車の周りにはいつでもどこでも一目お姫様を見ようと人が集まって賑やかだったのですが、売られていく羊のような気持ちだったお姫様はずっと馬車の窓には日覆いをつけていました。
今となっては買うもののいない宝石を持参金に、いくつかの国境を越え、お姫様を乗せた馬車はとうとう野蛮極まりない百姓たちの国へ入りました。すると、この国の兵がたった三人ほど護衛に加わり、馬車について馬を走らせて始めました。その兵の一人が不躾にもこんこんと馬車の窓を叩き、暑いから窓を開けてはどうか、と言ったときなど、お姫様は怖くて震え上がってしまいました。
とうとうお城に着いて馬車から降りると、そこには、古い貧乏貴族のお屋敷をちょこっと手入れしたくらいの建物が立っていました。周りには生き生きとした木や草がこぼれるように咲き乱れ、オレンジが実をつけています。きれいな色の小鳥が梢で歌っているその下には、色とりどりの鶏が我が物顔に歩き回り、色とりどりの肌をした人々がにこにこしてお姫様を見つめていました。黒檀の色、テラコッタの色、はちみつ色、そしてお姫様と同じ牛乳のような色の肌の人がひしめき合っています。
お姫様は大きな目をぱちくりさせました。お姫様は肌の色の違う人をこんなに大勢、しかもこんなに近くで見たのは初めてだったのです。
「はははは、驚いたか」
面白そうに笑う声がすぐ近くで聞こえて、お姫様は声の主を見ました。
すぐ隣に、あの無礼だった護衛の者がいます。周りの人々よりも頭ひとつ背が高く、堂々とした体格に精悍な顔立ちで、肌は赤銅色でした。
「ようこそ、我が家へ」
芝居がかった風にそう言うと、お人形のように固まってしまったお姫様を支えて、というより抱えてお城の中へ入っていきます。その中を、連れてきた侍女と宝石を捧げた従者が慌てて追いかけます。あの兵士は王様だったのです。
周りの人々はやんややんやと囃し立て、歌を歌ったり踊り出したり、王様への礼を欠いた大騒ぎです。一度王様がまた出てきて
「やかましい!」
と怒鳴ると、さらに笑い声が起こるという始末でした。
お姫様は何が何だかわからないうちに長旅の労いの言葉をもらったあと、マホガニー色の肌をした侍女へ引き渡され、質素だけれど溢れんばかりにきれいな花で飾られた部屋へ案内されました。
侍女は、洗濯婦のような見かけによらずしっかりと品の良い立ち居振る舞いで、怯えているお姫様に言いました。
「今日はこちらでお休みいただきます。私たちをお呼びの時はこの呼び鈴を鳴らしてくださいませ。私がお姫様付きの侍女ですので、お困りの時には何でもお申し付けください」
お姫様はおずおずと訊ねました。
「わたくしが連れてきた侍女たちはどこにいるのですか」
侍女は気の毒そうな顔をしました。
「宝石を我が王へお納めになったあと、おつきの方々はお茶も召し上がらずにお帰りになりました」
「えっ」
「……姫様の御父君が、姫様お引き渡しの後は侍女たちに帰ってくるようにとおっしゃったと伺っております」
それを聞いて、お姫様は倒れそうになりました。侍女たちは育ちのいい家の出です。父王は娘である自分より貴族の娘である侍女たちに心を配ったのです。お姫様は、父君に疎まれているのは薄々感じてはいたのですが、憎まれてすらいたのだとはっきり知りました。
侍女は、お姫様を支えて長椅子に座らせ手を握ってくれました。お姫様は肌の色の違う人に触れられるのは初めてで本当は嫌でした。でも、その手はとてもやさしく温かで、少しだけ心がほぐれてきました。侍女は、いい匂いのするお茶とオレンジを焼き込んだお菓子を小さなテーブルに調えてこう言いました。
「どうぞ、お薬だと思って召し上がってくださいませ。お茶は疲れを癒しますし、オレンジは人の心を慰めてくれるものだと王様が仰っていました」
肌の黒い人がお給仕したお茶とお菓子なんて、と思ったりしたのですが、ほんの一口お茶を飲み、お菓子を齧ると、なんだかすーっと落ち着くのを感じました。
本当にお薬のようです。
心が落ち着くと、ぽとぽとと涙が出てきました。
「私たちの王様は他の国の王様のようではありませんが、とてもやさしい方です。どうぞ、これからのお身の上、ご心配はなさいませんように」
夜になると、食欲がないと言って食事の席に来なかったお姫様のために、なんと王様が手ずから質素な食事を運んできました。
部屋に男の人がやってくるなんて生まれて初めてのことで、お姫様は竦み上がり、侍女の方を見ました。侍女は、ご心配なさることはありません、と言うようににっこりして、お姫様の部屋から下がってしまいました。
「腹が減ると、人間はろくなことを考えなくなる。少し食っとくといいぞ」
王様はそう言うと、椅子にどっかりと腰かけました。王様の着ている服は継ぎだらけで、その貧相さと言ったらありません。
お姫様はなけなしの誇りにすがりながら言いました。
「輿入れは済んだにせよ、婚礼はまだです。わたくしの部屋へのお立ち入りは許されません」
王様はそのお姫様の裏返った震え声を聞いて、面白そうにお姫様を眺めました。
「へえ、誰が許さないんだ?」
「か……神様です」
王様は笑い出しました。お姫様はそれが神様への冒涜のように思えました。
「俺は、これからの方針について話しに来ただけだ、とって食ったりはせん。ところで、おまえ、人を好いたことはあるか?」
王様は楽しそうにとんでもないことを言いました。
お姫様は王家の娘として、望ましい答えを知っています。
「いいえ、わたくしは宮殿の奥深くにおりましたので殿方とはお話したこともありません」
「あー、それはよくない」
お姫様にとっての望ましい答えは、王様にとっては不正解だったようです。
「よくない、のですか?」
「やっぱりな、生まれてきた以上、一度は惚れたはれたの色恋沙汰を経験すべきだ」
お姫様は王様が言っている意味がわかりませんでした。
「でもわたくしは、足が生まれつき弱くて色恋なんて無理で……」
「色恋が無理な娘をどういう了見で俺に押しつけたんだ、お前の父ちゃんは」
お姫様はもう言い返せませんでした。王様は続けます。
「まあ、それはいい。とりあえず、婚礼はなしだ。ここで暮らして、適当に好きな男でも見つけて、所帯持って幸せになるといい」
「わたくしはあなたに嫁ぐ身なのです。わたくしの国へ麦を売っていただかないといけないので、あなたの妻にならなければならないのです」
「それとこれとは、俺は切り離して考えたい質でな。おまえのことは別として、おまえの国に売る分くらいはあるから気にするな」
「ではなぜ、わたくしとの婚姻の申し出をお受けになったのですか」
いつの間にか、お姫様は震えながらも王様としっかり受け答えをしています。
「縁談があってから、おまえのことをうちの連中と一緒に調べてみたんだ。そしたら不遇も不遇、なんだこりゃと思ってな。みんな『可哀そうなお姫様を幸せにする』ってんで盛り上がっちまってな。さっきうちの連中見たろ? お前の気の毒っぷりに、もうお祭り騒ぎなんだ」
今度はお姫様がなんだそりゃと思う番です。
「わたくしはわたくしを可哀そうだと思ったことはありません」
「でも俺と子作りなんて嫌だろう」
「はい」
お姫様はうっかり返事してしまい、真っ青になって慌てて口を押えました。王様はまた大笑いです。
「そう、そんな風に言いたいことは言っていいんだ。とにかく、俺は、気の毒なお姫さんに、好きでもなんでもない男に嫁いで一生添い遂げろなんて言わん。外道が過ぎる」
とんでもないことを冗談のようにさらりと言われて、お姫様は青い目をぱちぱちさせました。
「じゃあ、これから忙しいぞ。ゆっくり休んどけ」
呆気にとられているお姫様の顔を見てまた笑ったあと、王様はさっさと部屋を出ていきました。
初めて尽くしの一日の終わりで、お姫様はしばらくぼんやりしていました。
男の人とこんなに間近で口を利いたのも。
あんなふうにおまえ呼ばわりし、大きく口を開けて笑う人を見たのも。
そしてあからさまに憐れまれたのも。
みんなみんな初めてです。
でもその無礼も憐みも、とても不快なようでいて、心の中でよく思い返せばなぜかそこまでいやな感じではありませんでした。
暖かい国とはいえ、夜は少し肌寒いようです。お姫様は王様が運んできたスープの器に手を当てて、しみじみと温かく感じました。そして、つい全部食べてしまいました。
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