第26話 浅野昴、喜んでいかせていただきます
「浅野さん、ちょっとお話があります」
元気な声に振り返ると、秘書課の寺井結菜が立っていた。樫井の次は寺井かと、正直昴はゲンナリする。秘書課の先輩である梶井はお淑やかな美人であるが、こちらは若いだけあってか元気ハツラツ過ぎる。人の迷惑を考えずに、自分は可愛いから何でも許されると思っているタイプだった。
「何かな? 秘書課に用事はないけど? 」
「私用のお話です」
「あー、なら今は業務時間内だから時間は割けないかな、ごめんね」
暗におまえと話すことはないと言いたいのだが、外面を完璧に取り繕っている昴の返事はソフトなものになってしまう。だが、この寺井という女子、表面上のヤンワリとした拒絶にへこたれることは今まで一度もなく、あまりにガンガン攻めてくるから、昴にしては珍しくはっきりと「NO」を突きつけるようにはしていた。
「じゃあ、今日の就業時間後はいかがですか」
「今日は営業に出て直帰の予定だから」
「なら、浅野さんのおうちの近くで待ってますよ。最寄り駅はどこですか」
「悪いけど、親しくない人に住まいは教えられないな」
「それもそうですね。じゃあ明日は?」
「明日から出張なんだよ」
「じゃあやっぱり今日しかないですね。遅くなっても大丈夫です。私、ずっと待ってますから、終わったら連絡ください。前に連絡先渡しましたよね」
「ごめん、登録してないや」
「だと思いました。では、これ私の連絡先です」
無理矢理紙ペラを渡され、「待ってますからねぇぇぇ」と言い逃げるように走って行ってしまう。
「……マジか」
会う約束をした訳ではないのに待たれても困る。しかも明日から来週まで一週間出張だから、今日沙綾に会いたいと思っていたのだ。昨日、梨花に連絡を取ってお願いした通り、写真のことはフォローしてくれたらしかったが、自分の口からもしっかり誤解を解いておきたい。本当は沙綾のことで相談があると昴から連絡を取ったのだが、梨花は自分から昴を呼び出したと言ったらしい。どちらからとかどうでもいい話だが、美人に呼び出されてホイホイついていく軽い男とは思われたくない。
それと、沙綾の引っ越しについても話をしてくれたらしく、昴の家でというのは伏せてルームシェアを提案したらしかった。それについても、人見知りの沙綾がルームシェアに踏み出せるように、さりげなくルームシェアの良い点をアピールしたかった。
「まぁ、適当な時間に断りの連絡入れればいっか」
「何がいいんすか? 」
いきなり後ろから声をかけられ、昴が驚いて振り返ると、谷田部がニマニマしながら立っていた。
「びっくりすんだろ」
「すんません。今の、秘書課の結菜ちゃんすよね」
「あぁ」
「何渡されてたんすか? 浮気っすか? 溺愛の彼女さんはいいんすか」
「いい訳ないだろ。そうだ、おまえ、今日の予定は? 」
「すごーく珍しくないんすよ」
「ならちょうどいい。これやる」
「これは? 」
丸文字の数字11字のら列に、電話待ってます♡の文字。
「寺井の連絡先。僕は今日は彼女とデートだからかわりに谷田部が寺井に僕への用事を聞いてきて」
「えー、怒られそうだから嫌っすよ」
「谷田部なら大丈夫だって」
「大丈夫の意味がわかんないっすけどわかりましたよ。俺が結菜ちゃんに食われてきたらいいんすね。後でやっぱり惜しいことしたとか言わないでくださいよ」
「言わないから」
谷田部に紙ペラを渡し、昴はすっかり肩の荷が下りたとばかりに外回りに向かった。仕事の途中、営業車の中から沙綾にラインをうつ。もちろん、今日会いたいという内容だ。昨日は断られたし、明日から一週間出張だということを猛烈にアピールする。
営業の帰りにやっと既読がつき、その内容はそっけないものだった。
【沙綾】気が付かずに家に帰ってきてしまいました
昴は思わずハンドルに突っ伏してしまう。
自分に会いたいからいつまででも待つ(正直鬱陶しいだけだが)という女子もいると言うのに、最愛の彼女はこの塩っぱさだ。友達兼恋人の友達ですらない気がしてきた。
同じ会社ではあるが、周りには内緒にしなければならない(社内恋愛禁止じゃないから、昴的には公言したい)から、部署が違うのもあって会社ではほとんど会えない。たまにすれ違っても、嫌われてるの? というくらい全身で無視される。より不自然だから、そこは会釈くらいしようよと思わなくもない。
平日の夜は昴の帰りが遅いせいもあるが、待っててくれることもなく定時に寄り道なく帰宅してしまうし、土日に会えたとしても(先週が初だけどな!)、土曜日は昴の家の家事がメインでまさに家政婦対応で、昴にかまってくれることはない。付き合って一週間と一日、カップルらしかったの日曜日のデートの時だけだ。
うん、手をつないだだけで下半身が疼いた(禁欲生活も数ヶ月たつからしょうがないだろ)のは、生まれて初めてかもしれない。
楽しかったデートの写メを眺めて、盛大にため息を吐く。
まさか、自分が恋愛するなんて考えたこともなかったし、さらにはこんなに気持ちが翻弄されているのが信じられない。どちらかというと全てに冷めた目を向け、自分と他者という括りでしか人を見てこなかった。今は自分と沙綾、沙綾に関わる人物、それ以外の他者にかわった。
「……可愛いなぁ」
痘痕も靨、どんな美人や美少女よりも沙綾が可愛く見えてしょうがない。一重であまり大きくない目も、少し丸くて低い鼻も、真一文字の薄い唇も全部が可愛い。
後は社用車から下りて帰るだけなのだが、ついつい沙綾の写真を眺めてしまう。ちなみに梨花から沙綾の昔の写真もゲットしていた。そんな理由(沙綾コレクションを送ってくれた)から、昴の中で梨花の立ち位置は《神》だったりする。
【沙綾】もし
ピコンとラインの着信が鳴り、沙綾の一言が表示される。
もし?
申す申すのもし?
【沙綾】もし、よろしかったら
Ifのもしか。
【沙綾】うちに来ませんか
これってお誘い? なに、俺って誘われてる?! お泊りOKとか?!!
【昴】行く! 行かせていただきます
【沙綾】では夕飯用意してお待ちしてます。ちなみに、車はアパート裏のコインパーキングがお勧めです。
車かぁ、明日から出張アピールは嫌ってほどしたから、車で来て泊まらずにお帰りくださいってことだよな。いや、わかってたけど、わかってたけどね。
【昴】これからすぐに帰って、すぐに行きます!
【沙綾】安全運転でお願いします
俺の安全心配してくれちゃう?
あー、マジで大好き。
昴は社用車から下りてすぐに営業フロアに向かいタイムカードを押す。会社を出ると、帰り道にある以前も沙綾に買ったことのあるケーキ屋でショートケーキを買い、ついでに隣の花屋で出来合いのではあるがブーケを買ってからマンションへ戻った。超速でスーツからラフな普段着に着替えて、お土産片手に車に乗り込んだ。
今まで必要に迫られて(パトロンの誕生日のご機嫌伺い)花束を買ったことはあったが、自分から進んで渡したいと思ったのは初めてだった。多分、普通に塩対応が予想されるけど、自分がいない一週間、この花束を見て匂いを嗅いで、昴の存在を最大限沙綾にアピールできればなどと目論んでいる。もちろんラインはするつもりだし、沙綾さえ良ければ電話だってしたいけど、普通に会えない間、沙綾が昴のことを考えることは皆無なんじゃないかな……などと推測してしまったせいであった。ちなみに、多分その推測はあまり間違ってはいない。
沙綾から聞いたコインパーキングに車を停めて車を下りると、ちょうど沙綾の部屋の窓の真下だった。
カーテン薄ッ!
カーテンは閉まっているもの、部屋の中で動いている影とかは丸わかりだ。しかも花柄のカーテンとか、いかにも女子の部屋ですってアピールしてるようなものじゃないか!
そこに女子力はいらない!! と力説したい昴だった。
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