第15話 神崎沙綾は戸惑う

 仕事が定時で終わった沙綾は、一度家に帰り、スーツから安定の私服(ジーンズにTシャツ)に着替えておもむろに冷蔵庫からキンキンに冷えた昴の家の鍵を取り出した。

 昴の家の鍵など、恐ろしくて持ち歩けないし、泥棒に入られたらと考えると、箪笥などにもしまうことができず、とりあえず冷蔵庫の野菜室が昴の家の鍵の定位置になっていた。


 今日の夕飯用に仕込んでおいた煮物をタッパーに詰め、帰る時間にセットしておいたご飯はおにぎりにして袋に入れる。二人分にしては少し少ないかもしれないが、足りなかったら昴の家の冷凍庫に冷凍してあるご飯の余りを食べれば良い。仕度を終えた沙綾は昴の家の鍵をしっかりリュックにしまい、おかずとおにぎりを入れた袋を両手にしっかり持って家を出た。


 昴が何時に帰ってくるかわからないが、往復して約2時間。残業が多い部署とはいえ、さらに数時間待つということはないだろう。もしかしたら、すでに昴が先に帰宅しているかもしれないと、沙綾は自宅から駅までを急ぎ足で歩いた。

 昴のマンションは実は会社とさして離れていない。駅としては一駅あるが、歩いて行けない距離ではなく、今日は普通に平日の為、他の社員に会わないかビクビクしながら駅から昴のマンションへはダッシュした。たいした距離じゃないが、通常運動などしない沙綾は肩で息をしながらマンションのエントランスに駆け込んだ。


「お帰りなさいませ、神崎様。平日もいらっしゃるのは珍しいですね」

「こ……んばんは、野崎さん。浅野さんはもう帰ってらっしゃってます? 」

「いえ、いつももう少し遅いお帰りですよ」

「そう……ですか」


 時計を見るともう少しで8時だ。あまり遅くなるのは困るなと、沙綾が困った顔をしていると、コンシェルジュの野崎さんが沙綾の後ろに向かって笑顔でお辞儀をした。


「お帰りなさいませ、浅野様。ちょうど神崎様がいらしたところですよ」

「ただいま、野崎さん。沙綾ちゃん、いっぺん家に帰ったの? 大変だったんじゃない? 」

「いえ……。鍵……持ち歩いてないから」

「あぁ、そうか。ごめんね、僕の鍵を渡しておけば良かった」

「いえ……」


 昴に促されてエレベーターに乗り、昴の鍵で入った部屋は、沙綾が土曜日に片付けたまま綺麗に保たれていた。日曜日と月曜日を挟んだ筈なのに、洗い物も洗濯物も散らかっていない。


「お惣菜買ってきたんだ。まずは食べようか」

「私も、家から今日食べる筈だった煮物とおにぎりを……。ご飯、足りまか? 」

「十分だよ」


 昴が買ってきたのはデパ地下の惣菜らしく、なにやらお洒落で彩り豊かだった。その横に沙綾の茶色い煮物が並ぶといかにも貧相だ。まるで昴と自分のようだと、煮物に感情移入してしまう。


「いただきます。美味そうだな」

「そうですね」


 いつもの定位置に座り、二人で大皿をつついた。昴は沙綾の煮物にばかり手を伸ばし、おにぎりを頬張りながら「美味いなあ」とモリモリ食べる。そうなると沙綾は惣菜の方を食べることになり、見た目だけじゃなく味付けも上品で美味しくて、余計自分の煮物が恥ずかしくなった。いつも沙綾の作った夕飯を美味しいと食べてくれているが、通常はこんな美味しい惣菜を食べているんじゃ、自分の作るご飯は罰ゲームみたいなものなんじゃと不安になる。


「沙綾ちゃんのご飯が一番美味い。はぁ、毎日食べたいくらいだよ」

「さすがに言い過ぎです」

「マジだって。僕、こういうアットホームな食事って食べたことないから、凄く憧れる。お母さんの煮物的なやつ」

「はあ……」


 沙綾の持ってきた煮物とおにぎりは完食、惣菜が少し残ったところで、箸を置いた昴が崩していた足を直し正座になった。


「……浅野……さん? 」

「今日は来てくれてありがとう。あのさ、まずは僕の話を聞いて欲しいんだ」

「……はい」


 沙綾も同じように正座になり、テーブルの残り物に視線を固定した。それでも目の端には昴が映り、緊張した面持ちなのはわかる。


「ごめん、金曜日の夜の話は本当です。でもね、そういう場所には行ったけど、してないから。勃たなかったんだ」

「えっと……」


 何の告白を受けているのか、沙綾の頭の中の真っ白になる。


 立たない、絶たない、建たない? え、何が?


 ラブホテルに行ったという衝撃の事実が、さらに衝撃の一言でちょっとかなり意味不明な状態になる。


「社会人になってからかな、恋愛とか面倒で、でも性欲は溜まるし。……軽蔑されるかもしれないけど、身体だけの関係の女性が……いたりしたこともあって。でも、沙綾ちゃんと知り合ってからは、そういう関係は止めようって思ったんだ」


 沙綾と知り合ったのって、まだ1〜2ヶ月ってところですけど?

 つまりはかなり近々まで、大人な関係な女性がいたんですよね? 数日前に会っちゃってるんなら、それって止めたうちには入ります?


「私、関係ないですよ……ね? 」

「沙綾ちゃんきっかけだから関係あるでしょ」

「ちなみに、どんなきっかけか聞いても……? 」


 まさか私にその手の女性の代わりを求めたりする訳ないですよね? 家政婦って、そんな仕事は含まれてないですよね? 未経験処女の私に無理難題なんですが?!


 爽やか系イケメンで、尚且真面目で優しく素晴らしい人物だと思っていた浅野昴という人物像が、ガラガラと崩壊していく。


「そりゃ好きになったからに決まってるでしょ。それ以外にセフレと縁切る 理由ってなくない? 」


 金曜日会っていたのなら、縁はバッチリ繋がってないですか?


「お友達として? 」

「最初はそこから始めるから安心していいよ。もちろん徐々に距離を縮めて、最終的には結婚も視野に入れたお付き合いに発展させるつもりだから」


 つい最近まで恋愛が面倒で、セフレで性欲を発散させていた人が、なんでいきなり結婚を視野に入れた恋愛をしようなんて思いたつかな。しかも、その相手が私って……。


 これってもしかして……。


「……罰ゲームですか? 」

「え、沙綾ちゃん的には俺と付き合うのは罰ゲームな感じなん? そこまで俺ってダメダメ? マジで? いや罰ゲームでもいいから付き合って。お願い! 」


 いつもは一人称は「僕」じゃなかったですか? 微妙に口調も砕けているような……。あれ、あまりよく見たことはなかったけど、浅野さんってこんな表情でしたっけ? 


 沙綾を拝むようにしていたかと思うと、上目遣いであざとく微笑んでくる。確実に自分の容姿を活用しつくした笑顔だった。


「浅野さんの罰ゲームです。誰かに賭けで負けたとかじゃないんですか」


 そう、昔のあの人のように。


 沙綾は昴の姿をなるべく視界に入れないようにうつむいた。もうあんな思いはしたくないんです。


「そんな訳ないでしょ。それにさ、さっきの話題に戻るのは正直嫌なんだけどさ、俺ね、ラブホで勃たなかったじゃん」


 いや、そんなの知らないし。


「全く、うんともすんともピクリともしなくてさ、あまりのショックで逃げ帰ってきて、酒飲んで忘れようとしたんだよ。で、まぁ、泥酔して次の日に沙綾ちゃんに起こされた訳なんだけど、あん時沙綾ちゃんには勃ったんだよなぁ」

「ハ?」


 だから、なんのカミングアウトですか? 真剣な話をしているようで、八割下品なんですけど。爽やかなイケメンの顔で、勃つ勃たないって下ネタのオンパレード。もしかしてセクハラですか?


「うん、だからね、沙綾ちゃん限定で使い物になるみたい。沙綾ちゃんだけなんだよ、凄くない? 」

「すみません、凄さを理解できません」


 もう、昴がラブホテルに行ったとか、女の匂いをプンプンさせて口紅ベットリつけられて帰宅したとか、すでにどうでも良いことのように思われた。いや、どうでも良くはないが、それくらいの衝撃発言だった。


「沙綾ちゃんにしか勃たないんだから、沙綾ちゃんと付き合えたらご褒美以外の何物でもないでしょ。というか、沙綾ちゃんと付き合えないことのが罰ゲームだよ。俺、一生Hできなくなっちゃうじゃん」


 アハハと無邪気に笑う昴に、これは冗談なの?真面目な話なの? と、沙綾の理解の許容範囲を超える内容に、人見知りとか過去のトラウマとかぶっ飛んで昴をポカンと見つめた。


「沙綾ちゃんを好きになったせいで、沙綾ちゃんにしか勃たなくなったんだから、しっかり責任とって貰わないとだね。ということで、今から恋人同士ってことでよろしくお願いします」

「ヘッ? 」


 昴は右手を出してきて、これどうするの? と沙綾がオロオロしている間に、沙綾の右手を持ち上げられて両手で握られた。


 よろしくの握手?


 しばらく無言でニギニギされたが、何か期待に満ちた瞳を向けられ、いつまでも手を離してくれない。もしかして何か待たれてる?


「友達から……ではなかったでした?」


 沙綾がボソリとつぶやくと、昴は唇を拗ねたように尖らせた。


 カッコ可愛いけど、二十代後半ではなかったでしたっけ? そんな幼げな表情もできるんですね。狙って作った表情にも見えなくはないですけど、イケメンはどんな表情も素敵なんですね。私がやったらただのひょっとこなんですけど。


「うーん、その返しがくるかぁ。なら友達兼恋人ってことで。おいおい友達兼を外していこう……ね?」


 再度首を傾けて「ね? 」と言われ、もしかして返事待ちかと沙綾は慄く。


 けれど……そうか。かなり変態チックな告白だったし、いまだに自分のどこに好かれる要素があったのかはわからないままだけれど、昴くらいの見た目だったら、「付き合ってやる、ありがたく思え」って上から目線でもおかしくないのに、あくまでも沙綾の同意が欲しいと、沙綾が「うん」と頷くのを待っているようだ。多少誘導もあるかもしれないけれど。


 そんなところは、あくまでも沙綾のペースを尊重してくれた最初の時のイメージのままで、沙綾が沙綾らしくいられる場所がここにある気がした。


 ただ! 沙綾を好きだと言ってくれたのが昴の本心だと信じるならば、四日前にセフレとラブホテルに行ってしまうその下半身の緩さとモラルのなさはどうなのよ?! と思わなくない。

 勃たなかったからできなかった。つまりは勃ったのならヤッたんかいという問題をないものにして、「うん」と頷くことのできない沙綾だった。





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