第3話 神崎沙綾の贖罪

 50万、50万、50万……。


 沙綾の頭の中で、大金がグルグル回っていた。そのあまりの金額の大きさに、綺羅びやかな女性と、まるで芸能人のように整った顔立ちのイケメンが自分の目の前にいて会話しているという、通常ならあり得ない出来事に意識が向かなかった。


「あなた、昴さんの気が引きたくてわざと転んだのではなくて」

「雅さん、僕は気にしてませんから彼女を責めないで」

「まぁ、なんてお優しいのかしら」

「いえ、本当にたいしたことじゃないから。君、怪我してない? 大丈夫? 救護室あるかな? ほら、僕に掴まって。連れていってあげよう」

「あら、怪我なんかしてないわよね。昴さんがそこまでしてあげなくてもよろしいんじゃなくて」


 なんかキラキラした異世界の生き物みたいな人達が何か話しているが、沙綾の視線は昴と呼ばれている男性のズボンに釘付けだ。確実に染みになっている。しかも、多分スーツを掴んでしまった時に、どこ破けたかほつれたかした筈だ。

 50万、弁償……。

 沙綾の親戚は金持ちばかりだが、沙綾はごくごく一般市民だし、親戚の経営する会社にコネ入社したとはいえ、お給料は一般OLの最低賃金レベルだ。50万なんて、貯金を全額下ろしても足りない。


 親戚(美和子や正)に頭を下げれば出してくれるだろうけれど、きっと貸してはくれない。貸さずに全額支払ってくれてしまうだろう。それくらい沙綾に甘々な伯父や伯母で、さすがにそれがわかっているから貸して欲しいなんて言えない。


「あ…あの! 」


 沙綾は意を決してイケメンに視線を合わせた。その途端、爽やかに微笑みを返され、沙綾の思考がストップしてしまう。

 それでなくても人見知りが半端なく男性が苦手な沙綾だ。こんなイケメンと相対してパニックにならない筈がない。


「やっぱりどこか痛めた? 大丈夫?ちょっとゴメンな」


 イケメンは僅かに屈むと、沙綾の背中と膝裏に手を回し、軽々と沙綾を抱き上げてしまった。いきなりイケメンのどアップが眼前にきて、硬くて引き締まった身体はピッタリと密着し、グリーンノートだろうか爽やかな香りが肺いっぱいに広がる。

 沙綾の許容範囲を遥かに超える出来事だった。


「救護室に行ってきます。雅さん、またの機会に失礼します」


 沙綾は目を開いたまま気絶していた……と思う。いつ会場を出たのかも、地下にある救護室にいつついたのかもわからなかったから。ベッドに座らされて、イケメンに足首の捻挫を心配されて足首を回された時に意識がハッキリした。


「ヒョワッ! だ、大丈夫です。どこも怪我してない……」


 思わず奇声を発してしまい、恥ずかしくて語尾が小さくなってしまう。


「そう? 無理してない? 僕は浅野昴。君は? 」

「……神崎沙綾、です」


 浅野昴。聞き覚えのある名前に、沙綾は目を細めて昴の顔をシッカリ見ようとした。その表情はあまり可愛いとは言い難かったが、昴はニッコリと笑顔を向けてくれる。そのイケメン過ぎるご尊顔は、確かに浅野昴のものだった。同じ会社の営業部のエース。人当たりが良く爽やかなイケメンの噂は、人付き合い皆無な沙綾のところにも届くほどで、結婚したい社員不動のNo.1を連続叩き出している。華の秘書課のお姉様方に告白されたとか、ミス慶應の女子社員に告白されたとか、色んな噂はあるが、昴が社内で彼女を作ったという話は聞かなかった。昴は見た目だけではなく、その学歴や営業成績から、将来も有望視されていた。

 全女子社員(沙綾除外)憧れの人物といっても過言ではない、そんな人物が今沙綾の目の前にいる。

 そんな人物にワインをブッかけてしまった!


 沙綾の表情が険しくなり、顔色がドンドン悪くなる。


「営業1課の浅野さん……ですよね」

「あれ、僕のこと知ってる? もしかして同じ会社かな? 」


 沙綾はブンブンと首を縦に振る。


「へえ、ごめんね。知らなかったよ。君みたいに魅力的な、気が付かない筈ないんだけどな」


 営業エースは息を吸うのと同じように世辞を吐くのだなと関心する。もちろん昴の言うことを言葉通りに受け取ってはいない。だから照れることもなく、でも顔は直視できないから視線を首辺りに固定してなんとか声を出す。


「あの! 弁償します」

「弁償? 」

「ス、スーツです」

「大丈夫だよ。染み抜きすれば問題ないだろうし、別に新品の物でもないから。もう五年以上着てるしね」

「でも! さっきビリッて……」

「ああ……大丈夫だよ」


 脱いで確認した様子もないのに、何が大丈夫なのかさっぱりわからない。


「いえ、きちんと弁償……します。ただ、私のお給料……からお返しすることになるので、できたら分割で……」


 昴は小さく笑うと色気たっぷりの笑顔を浮かべた。爽やかな筈の昴が、なぜか艶めかしく感じて、沙綾はさらに視線を下に下げた。

 もう、自分の顔色が青いのか赤いのかもわからない。会社一のイケメンは、博愛精神が豊富らしい。沙綾なんかに無駄に愛想を振りまいているのだから。沙綾は心の中で平常心平常心と唱えながら、なんとか気持ちを落ち着かせようと努力する。目の前にいるのはジャガ芋だ。男性じゃないと自分に言い聞かせる。美形(親戚一同)を見慣れている沙綾でも、思わず拝みたくなるくらいのイケメンぶりに、感動すら覚える。


「本当に、これはいいんだよ。ほら、袖のところだってすり切れているだろ。仕立ててからけっこうたってるんだよ」


 そんなのは、目を凝らしてルーペでも使わないとわからないくらいのほつれだった。そして、やはり既成ではなくお仕立てのお高いスーツなんですねと、沙綾の頭の中の電卓が高額を弾き出す。


「でも……」

「じゃあさ、たまにご飯一緒に食べてくれる? 」

「は? 」

「一人で食べる夕飯って味気ないんだよね」

「は? 」

「週末がいいかなぁ。ゆっくりできるし。土曜出勤があるから、土曜日の夜とかかなぁ」


 リッチな夕飯をおごれ……ということだろうか? 毎週土曜日にフルコースが食べたいと? 一回1万くらいとして、50回から60回くらいだろうか?1年ちょっとくらい?

 一月分割で5万かぁ、かなりキビシイけど切り詰めればなんとかなるかも。いや、一人1万の食事に付き合うとしたら、自分の分合わせて倍。一月の出費10万……。無理だ、死んだ……。


 沙綾は頭の中で計算して、うなだれてしまう。沙綾の給料が17万6千円。家賃と光熱費に8万ちょい、交通費1万、スマホ代が1万弱、この10 万は確実に出て行くお金で、残りの7万は半分くらいが食費に飛んでいく。残りは1万だけ貯金し、その残りを実家に仕送りしていた。高校生の弟に食費がかなりかかるし、弟の学費の足しになればと少額でも毎月欠かさず送っていたのだ。

 仕送りはできなくなるが、貯金を止め、食費も昼をお弁当にするなど切り詰めれば5万ならなんとか捻出できるかもと思ったのだが、二人分となると……。


「……あの、毎週外食はちょっと」


 せめて隔週にしてくださいと、祈る気持ちで昴を見上げる。もう、人見知りとか言ってる場合じゃない。


「ああ、栄養が偏るよね。沙綾ちゃんは料理とかできるの? 」


 いきなりの名前呼びに、沙綾はイケメンの距離の詰め方に内心慄きながら、「人並みに」と頷く。お昼は外食ばかりになるが、夕飯はきちんと自炊していた沙綾だから、家庭料理レベルならば作れる。


「じゃあさ、週に1回僕んちにに夕飯作りに来てよ。家庭料理なんて全然食べてないから食べたいな」

「……おうちですか」


 女性との噂話は聞かないものの、これだけのイケメンなんだから女性には不自由していないだろう(ある意味正しい)。まさか、どこから見ても一般人レベルの自分になんか食指が動く訳がない(不正解、ロックオンされてます)と、沙綾は自分の貞操の危機は全く感じていない。逆に、こんなイケメンが簡単に家に女子に教えて良いのか?!と、昴の危機管理意識に問い正したくなるくらいだった。

 しかし、毎週外食をおごらされるより、材料のみ購入して手料理を振る舞う方が断然お財布に優しい。昴にとって自分は全く眼中になく、お手伝いさんくらいにしか思えないのだろう。きっとそうに違いないと、沙綾は勝手に結論付けた。


「駄目? かな」


 イケメンのお願い顔、凄まじい威力です!! 


「わかりました……土曜日……ですね。料理……作るだけ……ですよね?」

「とりあえず……はね」


 昴の含み笑いのような色っぽい表情に、沙綾は背筋がゾワゾワしてしまう。とてもじゃないけど直視なんかできない。足の先を見てるだけでも無理だ。

 足先……ワインの染み抜き!


 ほつれてしまった上着は直せないが、この後会場に戻るにしろ帰るにしろ、せめてズボンの染みくらいはどうにかしないと昴が恥をかいてしまうだろう。それに誠意を見せて、少しでも弁償代金の割引をお願いしたい。


「あ、あの、ズボン……脱いで」


 慌てていた沙綾は、自分がとんでもない発言をしたとは気がついていない。


「え? 」

「ズボン! ワインの染みが……」


 だから脱げ! 私に染み抜きさせろとズボンをグイグイ引っ張った。


「いや、でも、代わりに履くものもないし」


 確かに……ここでパン1になられても沙綾も困るだけだった。しかし染み抜きはしたい。


「ここ……座って」


 沙綾が座っていたベッドに昴を座らせ、救護室を見渡す。流しに食器洗い洗剤を見つけ、棚からタオル数枚借りる。タオルを水で濡らし洗剤を染み込ませ、昴の足元にしゃがんでズボンちついた染みを優しく叩いて浮き上がらせる。浮き上がった染みを別の濡らしたタオルで拭き取り、何度か繰り返す。元が紺色の布地だったせいか、ほとんど目立たないくらいまでは落とせた。乾いたタオルで何度も叩いていると、濡れも気にならなくなった。

 この間一時間弱。黙々と沙綾は作業し、一言も喋ることはなかった。昴も話しかけようとはしたのだが、あまりに真剣な面持ちで沙綾が作業しているものだから声がかけられなかったのだ。


「終わり……です。これで帰れますね」

「あ、うん。ありがとう」

「いえ、私のせい……ですから」


 沙綾の会話は聞き取りにくいくらい小声で、しかも所々つまってしまう。そして、一度も昴と視線を合わせようとしない姿はかなり挙動不審だった。それでも料理を作りに行く約束にはうなづき、連絡を取り合う為にスマホの情報を交換して、今日はお互いにパーティーに戻ることなく解散することになった。



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