音声記録

蒔村 令佑

戦中戦後のお話。


 このページは、平成二二年四月三〇日に、熊本県玉名市で農業を営まれるマツザキさんにお話を伺った際の音声記録を、文章に書き起こしたものです。

 なお、録音は山上の農地で簡易的な機材を用いておこなった為、時折ときおり強風にさらされ、音声を正確に聴き取れなかった箇所が複数あります。

 また、お話の中で時間軸が前後する部分も見受けられますが、編集はせずに掲載しております。

(ただし非常にショッキングな内容の一部を、省略させて頂きました。)


 地の文は、お話しして下さったマツザキさんの語り。

 『』内は、聞き手(蒔村 令佑)の発言です。




  □ 当時について。



 まずあなたは、どの程度の事をご存知なの?


『僕は学校で習うような、上辺の部分でしか……。』


 そうね、あれは通り一遍の事よね。学校っていうのは、あまり戦争の事を非難したりすると、昔だとアカ(共産・社会主義者の意)だとか何とか言われるしね。


 私は、二十歳ごろにはもう終戦近くて……大東亜戦争に入った年に、福岡に行ってた。

 ナカノセイコさんという立派な考えの人がいてね。「日本は戦争をしたらいかん」って演説してたけど、しまいにはもう聞く人が居なくなっちゃった。戦争に反対したら、やられてしまうから。


『そうなのですね。』


 うん。成る程いいなあって思って、でも「その話は私も同意します」って人は、表立っては居ないのね。私はそのお話を聞きたくて、大人ばかりだったけれど混じってた。

 日本がもし戦ったらっていうのは、はっきりナカノセイコさんは「大変になる」と言ってた。だけど世の中はもう「戦争勝たなきゃいかん」というのが、のぼせ上っとるけんね。

 立派な人だったんだけどね。福岡の人で。そのうち私は中国に行ったから、どうなったかは知らないけど……。


 私は十人くらい兄弟が居てね。上の二人は小さい時に亡くなったから、あとの八人くらいで生きててね。戦時中に結婚したり子供産んだりなんかして、これは大変でしたね。子供が多いとね。

 やっぱり戦争で、一番(物資が)無い時で、子供でも、鉛筆の配給が学校で何本か貰える時があって、貰ったらお芋と換えて食べたりする時代だったから。

 食べ物が無かった。それが皆の頭の中でいっぱいで、どうかして探すっていうのね。


 中国で戦争終わって私は帰りましたけど、姉の所は土地があって、お米作ってたからね。お手伝いに行って、何がしかのお米とお芋を貰って。

 主人の両親と、その両親と、四代で住んでたの。その中に、主人の父の兄弟がまた引き上げてくるでしょ。そうなると、こんな大鍋でいっぱいオカユとかオジヤを作らないと、もう追っ付かないんですよ。

 だから私は食料調達で、長女をおんぶして、お芋とお米を担いで。そしてあの頃はバスもあまり通らなかったから、木炭バスっていうて、木炭を焚いて走ってた。ガソリンが無いから。

 そんなの待っててもなかなか来ないし、歩いて、殆ど半分くらい歩いて、やっとバスが来て、やれやれって乗って、主人のうちまで持って帰ってた。

 あとは、子供に食べさせようと思って、「ヤミに行く」って言ってた。「ヤミ米を買いに行く」とか。


『ヤミいち、ですか?』


 うん、ヤミ。うちの裏をセゾ(不明確。方言?)があるんですよ。そしたらね、何人かがガタガタってうちに駆け込んで来るんですよ。どうしたのって訊いたら、「警察が来る。調べられるからちょっとここに隠れさせてくれ」って。警察が行ってしまうまで。

 何を担いでるのかなって見たら、ぶりを担いでるの! 魚の鰤を、おんぶして帽子かぶせて。それをお米と換えてたのね。


 うちはお米は姉の所で出来てたから、私は運び屋ですね。家ではお米が換えられてくるのを待ってるの。配給なんて本当、食べられないぐらい。食べて生活できないくらいの少ししか無かったから。


『ヤミ市というのは、どういうものだったんですか?』 


 ヤミに行くっていうのはね、市を立てて売るところはあんまりもう……公然とは売られないの。お米なんか取引してたらすぐ捕まるからね。

 例えば「お宅お魚いりません? お米と換えて貰えませんか」って言うんですよ。そしたら「お米いくらあげるからそのお魚頂戴」って。売れるまでどこまでも行くんですよ。


『皆で集まる訳じゃなくて、一軒一軒を巡って行くんですね。』


 そう。そんな市とかいう、楽しいもんじゃないのよ。こっそりしないと捕まるから。お米担いでの帰りも大変なの。要所要所に警察が待ってて、どこ行ったかねって言われるから。

 私が居た佐賀関さがのせきは、切り立った山のへりみたいな所を通るから、警察が取り締まりやすいんですよ。そこしか通れないから。


『なるほど。』


 でも私は捕まったことがないんですよ(笑)。借りたリヤカーに上手に積んで、それに子供を乗せて、寒い時は猫も中に入れて。

 「どこ行った」って訊かれたら、「お姉さんのところのお手伝いに行って、帰りが遅くなりました」って言って。「気をつけてお帰り」って。

 調べられたら持って行かれるけど、私は一度も取られなかった。


『見つかったらそれは、取られるだけで済むんですか?』


 うん。始末書だとか、ややこしいことはない。


 それで、私が引き上げて日本に帰る時、「爆弾が落ちて、九州は半分飛んでる」って聞いたから。長崎に落ちたでしょう? だから半分は無いって。どうなってるかねえって。

 一緒に避難してた開拓団の鍛冶屋さんが、主人に「帰ったらあんた、佐賀関は飛んどるよ。もう家は無いよ」って。「私が鍋釜の修繕しゅうぜん教えてやる」って言うてね、鍋を切ってコンコン叩いて、使えるようにするの。それを開拓団のおじさんが主人に教えてくれて。これなら生き延びて帰れるかなって(笑)。

 今考えたらね、そんなんでよかったって思わないでしょう。今は贅沢な時代よね。


 それで、日本に引き上げた私と主人を警察は懐中電灯で照らして、「どこに行ったか」って言うから、「どこって、遠い所に行ってました」って答えて。

 「どこか!」って。偉いんですよ警察が。もう捕まえようと思ってるから。「荷物開けてみい」って言うから「はい」って開けたら、ボロボロの釜が沢山……。


『(笑)』


 「何だこれは、どこ行っておったか」って言うから、「中国に行ってて今帰りなんです」って。「あ、すみません」って(笑)。

 終戦間際はもう、皆とっても疲弊ひへいしてるし、食べ物もないし、人の心も上擦ってしまってるでしょう。

 戦争になったら、戦争に行く人だけじゃなくて、全部の人が大変になるんですよ。兵隊でご主人が亡くなったりお母さんが病気になったり空襲に遭ったり、お年寄り抱えたりとか。




  □ 開拓団について。


 まあ中国でうろうろした時の事考えたら、あれは嘘じゃないかと思うね。


『まず、どうして中国に?』


 やっぱり日本だと、食べ物が無いでしょう。だからお米を作ったり農業をする開拓団っていうのが満州のあちこちで出来て。寒い所も暖かい所も、一人でも家族連れでも。そして日本人の大きな会社もあって、あそこの方が裕福なの。土地はいっぱいあるし。

 主人たちは嫁さん貰う為に何人かで日本に帰ってきて、皆でお嫁さん探して。私も先祖の土地は売ってしまって食べちゃったので。

 主人に見合いの時、「満州では土地はどうなってるんですか」って訊いたら、「もう土地なんて考えなくていい。どこ掘ってもいい何作ってもいい」って。

 しめた行くぞって思って(笑)。


『(笑)』


 そして5日後に満州に渡った。門司もじから船でね。「この人に付いて行っていいのかなあ」って、半信半疑ね。あんまり話もしてないし。今考えたらバカだねえ(笑)。

 土地があって、主人は背が高くて手が大きくていかついから、まあ大丈夫だろうって付いて行ったらね、意外と弱くて……精神的に。お酒ばかり飲んで。


『ああ……。』


 まあ私は、親戚も満州に就職してたんです。叔父は主人が入った満州鉱山の金を分析する本社にいたし。

 試験も何もなく「こっちで働け」って家族呼ぶ状態だったからね。割とそんなのは楽だったですね。今みたいに就職が無くて困るとかは無くて。

 そして「さあ行くぞ」って。するだけの事はしたし、お祖母さん亡くなって家の事も考えなくていいし。「別天地に行く」って感じだった。




  □ 満州での生活。


 家族持ちの寮が広くあって、真ん中に食堂があって、ご飯食べに行って、夜はパイチュウ飲んで、皆で歌ったり踊ったり。


『ぱいちゅう、というのは?』


 パイチュウって、お酒。中国人が飲む一番安いやつ。火つけたら、ばーって燃えるような強いやつ。白い酒って書くの。


『ああ……!(桃白白タオパイパイを思い出しながら)』


 そして「奥さんも勤めて下さい」って言われるのね。人が足らないから。そこは韓国やら中国の人も居て、台湾の友達のゴウさんとかも居て。主人は変電所の庶務で、働いたらもう幾らでもお金が貰えた。

 主人は「二人も働くことないぞ。お金使わんでいいんだから」って。山の中だから使うところがないの。金山に会社の工場と事務所があって、社宅があって、出稼ぎに来た人の独身寮があって。

 そしたら主人より私の方が給料がよかったんです。「何で俺は長く働いとるのに、来たばっかりで三百円も貰って……」とか(笑)。


『どんなお仕事だったんですか?』


 私は、働く人の朝と帰りの出欠を取って、で一月に何コース働いたかっていうのを最後の三十日に庶務に出すだけ。何の仕事もしてないのに沢山お金貰って、「こらいい所に来た」って思ってたら翌々年に終戦だった。

 朝は畑仕事をして、事務所に行って。お昼ご飯つくる時に、畑で出来た物を持って帰って。でまた会社に行って。

 三時頃になったら皆帰るんですよ。「奥さんお願い。早く帰るから黙っといて」って。「どこ行くの」って訊いたら、夜はノロっていうご馳走をね。


『のろ、というのは?』


 ノロは鹿の種類みたい。それを狩りで、撃ちに行くんですよ。肉を担いで帰って、夜はお肉を食べて歌ったり踊ったり。中国の人は志那しな芝居の歌を歌うし、韓国の人も歌う。

 主人は何にも差別しないで世話してたから、夜は皆で飲みに来てたです。


『では仲が悪かったりとかは……。』


 何にもない。


『へえ。言葉は通じるんですか?』


 通じます。私はしばらく解らなかったけれど、悪い言葉なんかは主人よりも早く覚えた。買い物する時に値切らんといかんから(笑)。だけど面白かったですよ。




  □ 終戦。



 終戦になってからは、向こうの土地の人も大変だったですよね。日本人が帰るというのに、自分たちはどういう態度とっていいか、難しかったと思います。

 主人は、飼ってた鶏とかを知ってる人が持って行ったりしても、それは何も言わないで持って行かせて。

 そしてもう遊びにも来ないのね。夜にお酒も飲みに来ない。終戦してからはね。どっちも危ないから。入って来られないようにゲートも閉めてしまったんですよ。

 鶏とか野菜を持って行く人だけが潜って来て。丁度あれが夏でスイカやらいっぱい畑に出来てて。社宅の下に作ってたから、盗って行くのが見えましたね。


 天皇陛下の詔勅しょうちょくがあった時は、社宅で、「自分のうちで静かに聴いて下さい」って。一所には集まらないでね。

 「お父さんどうなるんこれ」って言うたら、「どうなるったって、こら大ごとやぞ。出られんぞここから」って。ソ連の方に行ったら虎が居るし、韓国の方に行ったら狼が居るから。


『あ、本当に、その獣が居るんですね。』


 うん獣が居る。歩いて出たりしてたら食べられてしまうから、もう会社の指示に従わんとしょうがないねって。

 詔勅を聴いて、「持って帰るものを揃えて帰る用意をしないと」って。必要な物だけを。私はコートを二、三枚とボストンバッグとリュックサック。

 主人はカメラ気違いだから、カメラをいくつもいくつも担いで(笑)。写真は処分して少しだけ。

 日が暮れたら出発っていうんで、静かにゲートに集まって。馬車を二、三軒で一つ使うようにって話で。

 うちは着物なんかは、「これ奥さん綺麗だね」って、主人が可愛がってたインっていうロートル…ロートルって分かんないか。老人がね、居たんですよ。いろいろ小間使いしてくれたその人に全部あげて。


 あとは布団一式と冬物。要は冬をどう越すかだから。それ担いで門の所まで……奥さんも子供居るし、運ぶだけでも大変なんですよ。これどうなるんやろうって思ったけど、出なきゃいけないしね、一人残っとく訳にもいかないし。

 それで「皆と出たら目に付くから別に出よう」っていう家族が山の所まで行ったけども、「これじゃ出られない。狼も居るから死ぬんやろね。ここで自殺しよう」って首にメス入れた人も居った。それでも死にきれなくて帰ってきたみたいだったけど。


 それで布団も何も袋に入れて、コートは三枚くらい着て、下着もいっぱい着て、持っていく物をボストンバックに詰めて準備してたら、どんどんどんって音がして。

 主人が帰ってきたのかと思って小窓から見たら、満人(満州人)が剣のついたような物で扉をごんごん叩いて、「開けろ」って。もう蹴破られそうだから開けたんですよ。

 そしたらさっと入ってきて、お金の入ってるバッグと着替えを抱えて行っちゃったの。で私が「満人に全部取られた。お金もみんな取られたー」って大きな声出したら、警備の人が来てすぐ押さえてくれたから、そっくり返ってきた。

 今考えたら何で私、落ち着いとったんだろうって。やっぱり気の弱い奥さんだったらね、気絶しとるだろうなあって。拳銃みたいなの突きつけられたからね。




 □ 引き上げ。



 皆で二、三軒くらいずつ乗った馬車も、二十くらいは出たんじゃないかな。日が暮れると同時に出発したんですよ。

 満人の所を通る度に、襲撃されるぞって言われてね。丁度とうもろこしの実がつく頃で、部落を通る度にそこの畑に満人が出てて、太鼓を叩いて猪をおどすんですね。夜に番をしてるの。それを襲ってきてると思って、皆ハラハラしてたんですよ。だから太鼓の音は、今も嫌いです(笑)。


 そして日が暮れて、天気のいい時は夕日が綺麗なんです。満州の夕日は、何か空中に照り映えて、太陽だけじゃなくてその周りも真っ赤になるんですよ。そう思ったら段々と薄紫色になって、薄墨色になって、太陽が落ちる。

 ああこんなものが見られるのかって思って。だからくたびれなんか一つも無かった。草原は綺麗だし、大豆とコーリャンの畑は綺麗だしね。

 そして荒れ野のような所を通ったら、日本と同じ石碑が立ってるんですよ、お墓の。主人に訊いたら、あれは昔日本軍が満州に入った時に、匪賊ひぞく討伐で戦死した人の墓だって。

 それで小学校の時、「日本人は此処に在り」っていう映画を観たなあって。学校の講堂で観せてくれたんですよ。それを思い出したの。ここが映画を撮った舞台だっていうからね、「ここがそうか」って。そんな所も通りましたね。


 それに見とれてる間に開拓団の……(強風の音で判別不明)……に着いたようでね。

 そう、そこに着く前。峠の狭い道を馬車が並んで通る時に、誰かが走って来て言うんですよ。「匪賊が出たー」って。

 わあ匪賊がまだ居るんかって思ってね。昔はね、初めに満州に行った人は匪賊から酷い目に遭ってたから。


『あの、「ひぞく」というのは?』


 匪賊、あのー、盗賊よね。


『ああ、盗賊。』


 無頼ぶらいやかたよ。


『……やから?』


 輩、よ(笑)。


『(笑)。馬車からは、外の景色は観られるんですか?』


 うん枠があるだけ。だから丸裸よね。眠って落ちればそのままよ。

 だから「匪賊が来た」って前から伝令が走ってきて、主人は「ここでやられたらもう命が無いぞー(笑)」って呑気なこと言っとるの。もう何回もそんな目に遭っとるもんだからね。

 それでね、嘘だったの。匪賊が来たっていうのは。


『……え。』


 満人が、わーっと伝令で言ったのは嘘で、皆が逃げてる間にぜーんぶ荷物を持って行かれたの。


『人だけを追い払ったんですね。』


 うん。布団とかも持って行かれちゃった。そしてその晩にね、これは大変だなっていうのが解った。

 それまでは簡単に、「日本人はちゃんと守られてるから変な事にはならない」と思ってたけど、とんでもなかったですね。


 夕日が落ちる方に馬車が次々向かって、墨絵みたいに影だけが行くとね、ガラガラ音がして。そしてミョウレイ(不明確)で集結したの。


『みょうれい?』


 うん、有名な大きい開拓団。そこじゃないともう、安全面がね。「やれやれ日本人がいっぱい居るからいいや」って、コーリャンとかも貯蔵していたから食べ物は大丈夫だと思って。

 だけど千人くらい集結して、もううごめいてるの。皆うろうろ落ち着かなくてね。それぞれ情報が聞きたいし、喋らないとじっとなんかしてられない。これからどうなるんだろうね、とか。


 そして日が暮れて……何を食べたのか覚えてないんですよね。コーリャンの生をかじってたような気がする。

私達は、ちょっと離れた作業場……(強風の音で判別不明)……そこで一晩をゆっくり寝ようとしたら、向こうが禿山はげやまだったの。赤土のね。

 その山に、アリみたいなのがいっぱい居るんですよ。「あれ何だろう。何か棒みたいな物を持った人達がたくさん来てるよ」って。襲撃だったの。


『満州の人が……。』


 そう。主人と、ここに居ったらやられるから逃げようって。

 そしたら同じ社宅だった人が、貰い子の赤ちゃんを連れてたんだけど……「マツザキさん、悪いけど、皆が逃げられなくなるから、殺しました」って。そんな事しなくてよかったのに。どうなるか分からないのにね。早まった事をしてしまって……。

 それから、なるべく遠くに逃げようとして、あしが生えた沼みたいな所に主人が引っ張って行ってね。そして「顔だけ出しとけ」って言うんですよ。体出しとったら見つかるから、見えないように沈んで。


『隠れる為に。』


 そう。水が冷たくて寒いんですよ。で顔だけ出してたら蚊が刺してね。

 そして満人が来て、サッ、サッ、サッ、って棒の先で叩いて探してるんですよ。私が踏んでる芦の所まで来たの。もう観念して立とうかと思ったら、主人が「立つな」って。仕草で。

 そしたら誰も居ないって思われて、見つからなかったの。そうしてなかったら、やられてましたよ。丸裸にされて殺されてた。




  □ 道中。



 ある時は千人くらい隊列を組んで、トウマン隊(不明確)っていう隊を作ったんですよ。行動するのに、離れないようにしないとね。

 宮崎の人が「僕が隊長になる。責任もって連れて帰る」って言って。開拓団の人も居るし、会社の人も居るし、うちみたいな家族持ちも居るしね。


 その家族持ちっていうのも、ご主人を兵隊に取られて奥さん一人だったり、赤ちゃん連れてたり……私と同じ時期に入った三軒くらいの家族と仲良くしてたんですよ。一緒に呑んだり遊んだり。

 「最後まで一緒に帰ろうね」って言ったけど、病気になれば歩けないし、途中で居なくなったり……。


『ああ……。』


 隣にカタギリさんって居てね、可愛い女の子と男の子がいる家で。

 毎日「おばちゃん遊びにきたよー。今日カレーライスするー?」って言うてね。カレーが好きでね。カレーの匂いがすると「今日カレーでしょう?」って食べに来て。可愛くてね。私が会社から帰ると、大抵うちで遊んでた。

 奥さんはお腹が大きかったんですよ。「反物たんものいっぱい持ってるからあげる」とか言ってくれて。「いやーもう持てないよ。着物きもの着る時代こないと思うよ」って辞退したけどね。山ほど反物持ってるの見せて貰ってね。いいけど要らないかなあって。ここじゃあ着られないからって。


 それで、その隣の坊ちゃんとお嬢ちゃんが居る家族とはもう、ぴったり一緒でした。あたしがおんぶしてあげられるからね。奥さんお腹が大きいから、責任もっていつも坊やをおんぶしてた。

 これが重いんですよ、男の子は(笑)。もう歩ける子だけど靴が擦り切れてて、とても裸足はだしでは歩かせられない。

 私の父は足が小さくてね。形見と思って、英国製の立派な靴を持ってたんですよ。

 父は学校の先生してて、勅語ちょくごを読む時はいい靴をいとかんといけんから。モーニングに、縞のフォールズボンに、靴は英国製って決まってて。

 靴だけなら坊やに履けそうだなって。だから擦り切れた靴の、更に上からその靴を履いて。立派な靴だったけど最後は朽ち果てちゃった(笑)。


 靴が駄目になって裸足の人も多かった。隊列で歩く時はもう怯えてるから、一人が走ったら皆が走るんですよ。子供はお母さんと離れたら泣くし。年寄なんかはもう雰囲気に飲まれてしまってるから、可哀想だったけれど。

 川を渡る時に、お婆さんがもう、あっぷあっぷしてて。手を引かれてるけど、引いてる人が歩けないもんで、私の目の前で手を放したんです。「わァ放した」と思ってる間に、お婆さんはそのまま……置いていかれて。


 そしてある時は……主人が、もう外套がいとうは盗られて、軍靴も盗られちゃってね。コートは、満人が働く時に着るようなシャツと換えられて。「お父さん何着てるん」って言ったら、「うん替えられた(笑)」って。

 「チェンジチェンジ」って言ってね。自分の汚いシャツくれて、主人のコート着て逃げるのよ。盗ったら逃げないと、満人同士でも取り合って喧嘩するの。何か凄かったよあれは。


 あるご主人は、奥さんはお腹大きいし、子供はお腹空いてるし、靴は無いし、もう結構気が短かったもんでね。

 襲撃されて皆、大豆畑の向こうに隠れたんですよ。で一人こっちに来た満人に文句言ってね。結局満人が怒って、山刀っていう……ちょっと短いけどよく切れる……青龍刀とも違うのを持ってるの。それでガーンと頭を割られちゃった。

 私は脱脂綿とガーゼはいっぱい持ってたんですよ。それで縛ってあげて。「ここで抵抗したら駄目よ命ないから」って。「いや俺はやるんだ」って、もう私を振り切って暴れるのよ。そんなのを収めるのも大変だった。


『その方は、命に別状というか……。』


 うん、助かった。

 でも凄いですよ、あんななったらね。無政府状態というか、どこでどうされても分かんない。敗戦と聞いたら、日本の警察が一番に居なくなった。

 満人はね、探す時に燃やすんですよ。電気があまり無いから、燃やしてから見たり探したり、合図にしたりとか。

 それで開拓団の棟とかに全部火をつけたんです。だから隠れてる人も見つかって叩き出されて。奥さんなんかが「怖いからして」って言うのが聞こえて。

 女の人は衣類を全部盗られて裸。赤ちゃんをおんぶしてる人は背中が広がるでしょ。それを「金を隠してる」と思われて、ああいうのも全部切られてね。隠してないのにね。


 そして部落ぶらく部落を通る時にね、持ってる物を何か置かないといけないの。腕時計とか……一人が何か置かないと通してくれないの。

 主人なんかカメラをいっぱい持ってたから、通関料つうかんりょうで人の分まで通らして貰ってたけどね。もうしまいには満人に換えられた汚いシャツも盗られて裸同然で、「やられたー。でもカメラ役に立ったろう?」って(笑)。

 それで、私はどうなったと思う?


『え、どうなったんですか?』


 どうなったと思う? 殺されたと思う?(笑)


『いいえ(笑)……ええと、』


 叩かれたと思う? ……叩いたのよ。「よせー」って。


『満州の人を、ですか?』


 そう。「おぅー」って言ってた。


『(笑)』


 叩こうとしてきたからね。向こうもね、怖いのよ。




  □ 人々。



 主人は毎回、何か盗られてた。私は服を裏返しに着て、ボロボロにして泥をつけて、それで一回も盗られなかった。堂々とコートなんか着てるから盗られるのよ。

 それで他人の事ばっかり。奥さん連中に「早く歩けー」とかね。座り込んで歩かなかったら「立てー」って言ってね。みんな友達の奥さんだからね。

 私なんかには「大丈夫か。どうしてる」というのも無いの。「そこ居るんか」ぐらいの。他所よその人ばかり大事にしてからもう……。


『(笑)』


 その間何にも食べてないのよ。出る時はコーリャンの生を皆にくれたけど。


『コーリャンというのは、お芋か何かでしょうか?』


 丁度つぶつぶはこれくらいでね、あわ……じゃなくて、どう言ったらいいかな。

 トウキビの穂に実が成るのよ。叩くと丸い粒が採れるの。麦みたいな。それを配給されたっきりでね。

 開拓団の棟は畑ごと焼かれたから、カボチャなんかは燃えてしまったから皆で食べたの。美味しかったよ。みんな丸ごと齧ってたけど。こういうのもアリやねえと思ってた。

 そしてお腹壊した人はぴりぴりやってる間に隊列が先に行ってしまって、後から追いかけるっていう(笑)。


 私は隣の坊やをおんぶしてたけど、三日目には「お父さん明日はもうおんぶしないよ」って言ったら、「誰が連れて帰ってやるのか」って。だから仕方なくおんぶしたけど、自分もやっとで歩くでしょう。

 それで「三〇分小休止しょうきゅうし」って前から伝令が来たら、ああーって皆、土手で死んだみたいになるんですよ。私もおんぶしたままでグーグー眠って。

 「ああ寝たー気持ちよかった」って起きて見たら、隊列が向こうー……の方に。草原だから見えるけど、アリみたいな大きさになってて。もうおんぶして走った走った。主人は私がどこに居るかなんか見てないから。


 夜、泊めてくれるところもあるんですよ。民家の長の人と取引して、困ってるから助けてくれって。そしたら「土間でよかったら」って入れてくれて。

 民家が幾つかあって、何人かずつ土間に入れば、カマドがあるから暖かいんですよ。それで私が最後に入ったら、順番だから皆奥の暖かい所だけど、私は入り口の横で。

 夜中にトントンってされて起きたら、そこのお婆さんがね、ヒョウタンみたいなのを半分に割って乾燥させた道具があるの。物をすくう時に使う、柄杓ひしゃく代わり。それにホクホクに炊いたトウキビを、「食べなさい」ってくれたの。もうー美味しかった!

 だけどね、皆が居るから一人では食べなかった。三粒くらい取って、他の人に回して。


『満州の人がくれたんですね。』


 そう、泊めてくれた満人のお婆さん。あのトウキビの炊いたのは美味しかったー甘くて温かくてね。

 あれ全部食べなかった私偉いと思う。今だったら一人で食べるよ。誰にもやらない。


『(笑)』


 ほんとね、色々あったよ。あのお婆さんにはいつも感謝する。

 話が飛んだな……あ、そうか。それからタナカさんて人が赤ちゃん産んだばかりだったの。私もいつもおんぶしてて重いでしょう。だから歩く時に奥さんに手を引いて貰うようにして歩いたの。二人三脚みたいにね。

 そして赤ちゃんを見たら、もう息してないのよ。目も開けないしね。お乳が無いから痩せてしまって。

 「どうしようか。可哀想だけど、ずっとは連れて行けないよ。どこかで……」って言うと、「私もそう思う」って。だから手で掘って、ちょうど平たい石があったから、乗せて、そして埋めたんですよ。

 そこの家には、日本に帰ってからも遊びに行ってね。男の子が三人生まれてた。立派に成人してね。それで「あの時のお嬢ちゃん可愛かったね。生きてたらお姉さんだったね」って言ったら、「マツザキさんあれも男だったのよ」って……(笑)。


『可愛い男の子だったんですね。』


 うん。「私は何べん産んでも男の子よ」って言ってた。その方も亡くなったけど。二度ばかり家に遊びに行きました。向こうも二度ばかり来られてね。うん……よかったですよ。


 そしてゴウさんていう台湾の人が主人の友達で、いい方だった。

 途中で中国から指令が来て、日本人と行動を共にしたら危ないからね。そこで連れて行かれちゃったんですよ。哀しくてね。主人も兄弟みたいにしてたしね。

 その方も台湾に帰られて。最後に手紙が来た時も、「マツ、日本語が書けない」とだけ書かれてて。


『日本語が書けない?』


 多分、「手紙を書く事も出来なくなった」って事だと思う。もう、亡くなったでしょうね……知りたくないから、もうあまり手紙しなくてね。

 その方は日本の大学出ててね。いい方でした。優しくてね。独身だったから、「マツ、日本に嫁さん貰いに帰るなら、俺にも一人連れて来てくれ。お前の目にかなったなら誰でもいいから」って。


『へえ……。』


 そんな訳いかんもんねえ(笑)。だから「マツ、何で俺の嫁さん連れて来なかった。自分だけいいの貰って」って。

 主人も、「いいか悪いか分からんぞ」とか言ってた。


『(笑)』


 で、主人があんまりお酒飲むと、私は「もう飲むな」って言うけど、怒られるんですよ。そしたらそのゴウさんがね、「マツ、要らんなら俺が貰うぞ」って。おかしくって。

 いい友達が多かった、本当に。


 そして何日も嫌な晩を過ごして、最後は会社の出張所があったんですよ。そこまで行けばどうにかなるって連絡があって。明日には出張所に着くから、これで何とかなるだろうって。

 その日の夕方はね、もうお腹が空いて歩けないんですよ。そしたら向こうから土煙立てて、ジープが五台くらいこっちに来るんです。で私たちの前に停まって、降りて来てね。「皆は何を食べてるのか」って。

 「何も食べてないって」答えると、「食べないといけません。おにぎりを作ってあげるから誰か手伝ってください」って言うわけ。

 七人くらい乗ってたのよ。あとは荷物か何か載せててね。でこっちからも七人連れて行ったのよ。出発して、「あっ」って時にはもう、駄目だった。連れてかれちゃったの。ソ連の人に。


『ああ……。ソ連の人、だったんですね。』


 そう。日本が負けたって時に、ソ連が一番先に来たんですよ。中国人より先に襲ってきた。


『日本語で話しかけてきたんですか?』


 うん。立派な日本語でね。「おにぎりやないと食べたらいけません、お腹を壊します」とかね。

 私もおにぎり作りに行きたいと思ったらね、主人が引っ張ってね。その内に七人乗っちゃった。


『それは皆、女の人を。』


 女ばっかり。そういうのも大変だった。

 奉天ほうてんに着いても、毎晩暴動があって。

 お家の屋根にワラが入れてあるんですよ、暖房の代わりに。で天井には、そのワラを入れた時に使ったんでしょうね、穴があるんです。

 私なんかは毎晩そこで寝てた。連れて行かれるのが怖くてね。どんなに疲れてて、「もう今日はいいや、下で寝よう」って思っても、暗くなったら自然と穴に隠れてた。

 もう少し知恵があれば……もう少し。私たちも若かったからね。


 最初の、きんを掘る開拓団に居た時は、極楽だったんですよ。お酒はタダみたいに安いし、お金は残るし。「里の両親も呼ぼうね」って言ってたけど、呼ばなくてよかった。




  □ 帰国。



 ようやく街に着いても、私達が一番哀れだった。靴がないから裸足でしょう? 歩けないから手にボロを巻いて、足にも巻いて、ってた。そんな団体だった。

 お金も持ってないし。何も食べられないと、人間て浅ましいからね。他人の物でも盗って食べようかとも思ったけれど。

 私達は他人の物を一粒も盗ってないし悪い事もしなかった。これはよかったですよ。

 二年くらいだったけど色んなものを見ましたね。だからこんな強い婆さんになっちゃったのよね(笑)。


 だから、「子供が勉強しない」とか悔やむ親なんてね。勉強するなって言ってもする子はするし、しない子はしない。

 だから息子が大学受験の時に「何で僕に勉強しろ」って言わんだったんねって。「だってあんたしないでしょう」って。面白い息子よ。楽しませてもらったわ。


 あと娘なんかはね、満州の話しとかないとと思って喋ってると、逃げるんですよ。「怖い。聞きたくない」って言って。

 でもいい人生送っとるよ。好きに飲んで、友達はいっぱい居て。……飲み友達ばっかり。


『(笑)』


 ……(眼前に広がる畑を眺めて)蝶々が。


『綺麗ですね。』


 綺麗ねえ。

 ……日本に居た人も、空襲に遭って大変だったよね。

 私達は帆船はんせんで帰って来たんだけど、私達のグループがタラップ(舷梯はしご)でヨボヨボと上がりよったら、手を差し伸べてくれてる人が泣いてるんですよ。

 「何でこの練習生は泣いとるんだろう」と思ったけど、後で聞いたら「こんな凄い引き上げは見た事がない」って言ってた。相当ひどかったみたい。身なりも悪いしね。やつれてるしね。だけどあの船で帰れて嬉しかった。帆を巻いて走る、真っ白で綺麗な船でね。

 そういえば最初に、門司を出て中国に向かう時は、船長さんが「こんなに揺れたのは初めてです」って言ってた。揺れて揺れてね。水平線が上に来たり、下に来たり。主人なんか酔って、全然頭上げられなかった。

 それで、避難訓練があるんです。デッキまで出るの。私と、四人だったかな、出て来られたのは。女ばっかり。


『男は皆、もう……。』


 そう、ダウンして。「まあ男のくせにだらしがないねえ。あんな嵐が何だね」って。


『(笑)』


 小さい時もね、女ばかりで、私が五女だったの。でも亡くなった二人が居るから大体は七女。で下に弟と妹が居るから、……九人だったのかな。

 一番お姉さんはね、呉服屋さんが担いで来たのを「これ」って指差して、買って貰ってた。私なんかもう末っ子の方だからね、いつもいいなあって見てたの。

 「お父さん私達は?」って訊いたら、「順番順番」って父は言って、順番が来ないまま死んでしまった(笑)。

 みんな女で、男の子は弟一人。だけど兵隊に海軍で行って、帰って体壊してね。六十……何歳かまで生きたみたいだね。

 もう、女の子の中の男一人は弱いね。私がすぐ上だったから、遊びに行くのでも付いて来ようとして大変だった。海に行っても泳げないしね。弱虫だった。

 ……あ、お昼食べた?


『え、いいえ。』


 お腹すいたね。台所で何か貰って来ようよ。食べながら話しましょ。




 (ダイニングには件の娘さんが居られた為、お話はここまででした。)

 マツザキさん有難うございました。



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